「はあ…。ここまでですね」
友人によく似た外見の彼はまるで重い荷物でも降ろすように肩を落とした。
「僕は…俺はナサリエル様の影武者ですよ」
「影武者?」
なら、本物の彼はどこ?
「とは言っても、あの方には一度もお会いした事はありませんから本当の意味で模倣しているとは言えませんが…」
「どういうこと?模倣だなんて、貴方は貴方でしょう?ナサリエルにはなりえないわ」
「そうですね。ですが、ベンストック子爵夫妻はそれで良いと許容しました。亡きご子息の変わりとして俺をそばに置き続けたのですから」
先ほどよりも緩やかな微笑みを浮かべる青年は吐き捨てるように語った。
けれど、ソフィアの耳に届いたのは本物のナサリエルが亡くなったという言葉だけ…。
背筋が、胸が凍ったように冷たくなっていく。
「亡くなった?彼が…いつ?」
「七年前です」
「そんな…」
友人の死をずっと知らなかった。
体が思うように動かない。
事実が処理できない。
その瞬間、その場に崩れ落ちた。
かつてのソフィアの最初で最後の親友。
そして、初恋の相手がこの世を去っていた。
ずっと、恨んでいたのに…。
「はやり病だと伺っています」
「それでなぜ、貴方がその名で生きる事になったの?その腕にあった痣と関係があるの?」
ナサリエルによく似た容姿の青年は遠い過去をさかのぼるような暗い目をした。
「俺はとある悪党たちの奴隷でした」
「奴隷制度は100年以上前に廃止されたはずでしょう?」
「比喩ですよ。俺は金持ち達の愛玩の対象。そう言えば、お分かりでしょうか?」
青年の説明にさらに吐き気がしそうになる。まだ、分別もつかない子供達を性の対象として見るクズはこの国にもごまんといる。その事実を突きつけられて思わず眉を潜ませた。
「かつて、この手の甲に刻まれた印は奴らの所有物だという証だったのです」
あれは焼き印によるものだ。
あんな物を子供の手に?
「奴らは誰なの?許せない!」
「さすがは聖女様。正常な思考をお持ちですね。俺にも分かりませんよ。だが、ただの金持ちではないでしょう。裏で手を引いていたのは、おそらく上級貴族。何人もの大人達が出入りしていたのをなんとなく覚えています。まあ、幼いころのものですから、正確ではないでしょうが…」
彼の記憶をどこまで信用していいか分からないけれど、街で消えている子供達にも似た印があったとするなら、同じ連中って事?
「でも、その貴方がどうして宰相の息子に?」
「運がよかったんですよ。俺は隙を見て逃げ出した。行く当てもなく街を彷徨っていた俺を父上が…ベンストック家の当主が見つけたんです。亡きご子息によく似た俺との出会いは運命だったと思ったそうですよ」
「だからってナサリエルの変わりだなんて…」
「ああ、だが、仕方がありません。ご子息が亡くなっておかしくなった奥様の正気を保つためだと信じれば…」
「夫人が?」
「ええ~。見ていられないほど変わり果てておられました。ベッドから起き上がる事も出来ず、生死の境をさまよっていた。しかし、俺の姿を見た途端飛び起きたんですよ。すがるのも仕方がない。しかし、それでも万全とは言えない。今でもたまに体調を崩してしまわれますから。ご自身の本当のご子息が亡くなった事は忘れてしまったというのに…。きっと、心のどこかでは分かっておられるのでしょう」
「だから、その座に収まったと?貴方はそれでいいの?自分という存在を消されて生きていくなんてつらくはないの」
「あの地獄のような場所にいた事を思えば、ここは天国です。夫妻は俺を息子として扱ってくれる。それ以上を望まない。何不自由なく育った令嬢にはお分かりにはならないでしょうが…」
「そんな風におっしゃるのね」
絶対にナサリエルなら言わない言葉だ。
ソフィアだって、闇は抱えている。
けれど、目の前の青年の生い立ちを考えれば、確かに恵まれているのかもしれない。
いえ、そう考える事こそ傲慢ね。
傷ついているのは同じなんだもの。
だからなのか。友人の名を騙った青年に恨みは湧いてこない。
何も知らないで…安易な情報だけでソフィアを分かった風に語った彼であってもだ。
「宰相閣下はすべて分かった上で貴方を息子として扱っているのね」
「ええ~。この家でまともなのはあの方だけです。何より、好都合なのでしょう。俺は風を操る事が出来ますから」
まともですって。実の息子の死を隠しておいてよくも…。
風を使えなかったナサリエルは用済みだというの?
しかし、その怒りはひとまず押し殺した。
「じゃあ、私と距離を取ったのはバレないためかしら?」
「そうです。令嬢の視線は…」
「視線?」
「真実を見透かされているようで怖かった。この忌まわしい印を見られるもの不快だった。だから、消し去ったのです。ですが、そのせいで貴女様には嫌な思いを…」
「ずっと考えてのよ。ナサリの気に障る事をしたんじゃないのかって…。でも、別人だったのね。まあ、当時の私が貴方の正体に行き着いたかどうかは謎だけれど…」
「申し訳ありません」
「いいのよ。貴方だって被害者でしょう?」
ソフィアは青年の頬にそっと触れた。
今まで気づかなかった。彼の目は怯えている。
それほどに彼がいた場所は恐ろしかったのだろう。
ナサリエルの仮面は彼にとって逃げ場所なのだ。
「マニエルは…」
「はい?」
「彼女は知っていたの?貴方が、その別人だと…」
「マニエルが?まさか…。そもそも本物のナサリエル様とも面識はないはずでは?」
「そう…そうよね」
言われてみれば、ゲーム内ではナサリエルが影武者だったなんていうエピソードはないし、幼少期にマニエルと出会っていたという設定もなかった。
よっぽど動揺しているのね。
私は…。
「名前は?」
「えっ!」
「本当の名前があるんでしょう?」
「リオン」
「そう…いい名前ね」
こんな時、マニエルならこの青年の心も癒せたのだろう。
けれど、聖女の遺物は何の反応も示さない。神秘の力は発動しない。
そして、同時に闇の気配もしないのだ。
「ナサリは?どこに眠っているの?」
唐突に湧き上がった疑問を口にすれば、リオンは小さく指を指示した。
そこには小さな石碑が立てられている。
こんな寂しい所に彼は眠っているの?
一族のために必死に風の力を身に着けようと、もがいていたナサリエル。
由緒あるベンストック家の本来の継承者なのに…。
「ごめんね。気づいてあげられなくて…。遅くなって…」
思わずこみあげた涙を戻そうとしたけれどダメだった。
最初に手を差し伸べてくれた大切な人だったのに、私は救えなかったのね。
「貴女が泣いてくださるなら、ナサリエル様は喜ばれるでしょうが、同時に悲しまれるでしょう。俺には分かります」
数本のユリが揺れていた。
「お優しいのね。花を添えてくれたのはリオン様で?」
彼は小さく頷いた。
「リオンで構いませんソフィア様。俺にはこれぐらいしか…。どうされますか?この件を告発されますか?」
「告発してどうなるの?貴方は名を騙った罪で死罪に処されるわよ」
「覚悟はできています。いつかこんな日がくると分かっていました」
「いいえ、やめておくわ。そうなれば、ベンストック家は潰される。ナサリエルの家族よ。そんな真似はしたくない。貴方はこの家にきて、救われたんでしょう。また傷つく事はないわ」
「友の名を騙ったこの身も気遣ってくださるのですか?貴女様は…」
「勘違いしないで。ナサリの名を騙る貴方をこの先もけして許しはしないわ。だから、お願いを聞いて」
彼にはとても酷な願いだろうけれど…。
「なんでしょう?」
「私の協力者になってほしいの」
当事者であろう彼に頼むなんて…。
それでもこのタイミングで思い出したのはただの偶然にするには惜しい。
「協力者とは具体的には?」
「今、街の子供達が消えているのは知っている?」
「なんとなくは…」
「連れされそうになった少年の手に似た印があったの。おそらく貴方をおもちゃにした連中と同じでしょう。だから、奴らを狩るのに手を貸して…」
「ですが、俺は奴らの事はほとんど覚えては…」
「だとしてもよ。今は記憶の中に沈んでいるかもしれないけれど、それを掘り起こす術はおそらく存在する。今はそうでもいない限り、手がかりがないのよ。それに復讐もしたいんじゃなくって?」
「物騒な事をおっしゃいますね」
物騒なんてものじゃない。
とても残酷な言葉。
「私を分かった風にいうのは辞めて頂戴。貴方は私の友人ではないんだから」
「申し訳ありません。ですが、失踪事件に興味がおありとは…」
「おかしい?子供が消えているのに何も感じないわけないでしょう」
真実を語れば、なぜかリオンは驚いた表情を向けた。
どういう反応なの?
そこまで動揺されるような事は言っていないはず。
「失礼しました。その申し出、お受けします。俺のような目にあっている者がいるなら放っておけない」
物分かりがいいのね。
地獄を思い出せと言っているのに…。
でも悠長にしてはいられない。
マニエルの件すら解決には程遠いんだもの。
ソフィアは覚悟を決めたようにリオンと手を強く握り返した。
目の前に立つ彼が本物のナサリエルならよかったのにと一瞬思った。
私の大切な人はみんな、先に逝ってしまうのね。
いつか、ナサリと仲直りできる日が来ると信じていたのにそれは一生叶わない。
けれど、リオンという新しい強力者を得た。
今はそれで良しと思うべきなのよ。