「まあ、ソフィア様。いつぶりでしょうか?ますますお美しくなられて…。さすがは聖女様でいらっしゃいますね」
ナサリエルの母、ベンストック子爵夫人は記憶の中の彼女より幾分か歳を重ねていた。それでも美しさは変わらない。そして悪意があるのか、ないのかよく分からない神経を逆なでするような物言いも健在だ。けれど、確かに顔色は悪い。
体調がすぐれないのは本当のようね。
「長らく足が遠のいてしまい、申し訳ありません」
「そのようにかしこまらないでくださいませ。お忙しい方ですのも。気にいたしませんわ」
「お加減はいかがでしょうか?お口に合えばよろしいのですが…」
薬としても使われるプルーンを詰め合わせた瓶を手渡せば夫人は優しく微笑んだ。
「なんとお優しい事で…。ナサリエルからお聞きになったの?」
「えっええ…」
本当は違うけれど、真実を話したところでややこしくなるだけだものね。
「大した事ありませんのよ。気候の変化が激しい時期に体調を崩しただけですので…。それにしてもあの子ったら我が家の事情をペラペラと話すなんて…。あれで宰相が務まるのかしら」
思わず苦笑いを浮かべるしかできない。
「学院でもあの子は相変わらずなのでしょうか?」
「上手くやっておられますよ。ご友人も多いようですし…」
「それもこれもソフィア様のおかげですわ。いずれ王妃となられたあかつきにはベンストック家をよろしくお願いいたします」
「その話はまた…。ところでナサリエルは?帰られていると聞いたのですが…」
「いちいち帰ってこなくたって良いのにね。あの子ったら、ふふっ」
「夫人がご心配なのでしょう」
「そうね。本当に大きくなったわ」
なんとなく夫人の言葉がひっかかるけれど、適切に言語変換できない。
夫人を前にするとなんだか、得体のしれない緊張感が走るのよね。
おばあ様とも違った狂気すら感じるのはなぜなのかしら?
「失礼します」
一礼して入室したナサリエルと視線が合わさる。
驚いているのは彼の方だ。
「ソフィア様…」
「ナサリエル。ソフィア様が私をご心配して来てくださったの。良い方よね」
「えっ!ええ…。母上」
ふらつく夫人を支えるナサリエルの表情はどこかぎこちない。
「少し休まれた方がよろしいのでは…」
「そうね。でも…折角」
申し訳なさそうにこちらを見上げる夫人に首を横に振った。
「お気になさらずに…」
「では失礼いたします。ソフィア様のお相手をよろしくね」
部屋を出て行く夫人。ナサリエルと二人きりになったその空間に沈黙が流れた。
「わざわざ来ていただかなくてもよろしかったのに…」
「あら、宰相の奥様よ。クラヴェウス家の人間として気に掛けるのは普通じゃなくって…」
「なら、もう用はお隅に…」
「お客である私を早々に追い出したいの?」
「いえ、そのような事は…」
相変わらず、怯えたような目を向けるのね。
「ねえ。散歩しない?」
「はい?」
「昔みたいにね」
「昔…」
ばつが悪そうなナサリエルに手を差し出せば、あきらめたようにその指先に触れる彼がいた。
「ここは変わらないわ。相変わらず素晴らしいお庭ね」
木々のざわめきにソフィアは思いっきり息を吸い込んだ。
「あっ…はい」
「どうしたの?ここは学院ではないんだから、昔みたいに気楽に接してくれればいいのに…」
「それは出来かねます。聖女候補の貴女様に…」
「ナサリエルがそう言うの?聖女に選ばれなくても私とどこか遠くへ行こうと言ってくれたでしょう?」
「子供の頃の戯言です」
「確かにね。貴方は私が嫌いだもの」
「それは…」
「ごめんなさい。困らせたわ。そう言えば、紅茶を持ってきたのよ。昔、私に入れてくれたでしょう?」
「そうでしたね」
「今度は私が入れて差し上げるわ」
「光栄です」
「さあ。どうぞ」
ソフィアは慣れた手つきでポットから冷たい紅茶を注ぎ、ナサリエルに手渡す。
「ありがとうございます」
「美味しいです。アップルティーですか。ソフィア様はこの紅茶がお好きでしたね」
その一言ですべてを悟ってしまった。どこかでまだ期待していた事実が崩壊していく。
「そう…ね。そういえば、その紅茶を飲んだ時、花をくれたのも覚えているかしら?」
「ああ…。なんだったでしょうか?」
「ユリよ」
「そうだった。ユリだ」
笑って取り繕うナサリエルの瞳を見据えた。
よく似ているけれどやっぱり違う。
ナサリの瞳はもっと優しくて濃い灰色だった。
でも、目の前の彼の瞳は漆黒に近い。
「私に入れてくれたのはフルーツが沢山入った紅茶よ。それにくれたのはひまわりだった!」
思っていた以上に叫び声に近かった。
目の前の青年は困惑の表情を浮かべている。
「そうだ。そうだよ。すみません。何分、昔の事で記憶が曖昧で…」
言い訳にしては、お粗末だわ。
それだけ、動揺しているって事でしょうけれど…。
「もう、茶番はやめましょう。私にとってナサリエル…いえ、ナサリは特別な友人だったの」
青年は言葉をつむぐのを諦めた。
ソフィアは一呼吸入れて、今度は淡々とした口調で青年と向き合った。
二人の間に冷たい風が靡く。
もっと早く気づいてもよかったのに。
私も…ソフィアは観察力が皆無だわ。
「ずっと…その手の甲の火傷は私がつけたのだと思っていたのよ」
「それは違っ!」
「ええ、知っているわ。忘れていたの。その火傷ができる前、その甲には印がつけてあった。黒い紋章というべきかしら」
サイに連れ出されて、遭遇した拉致事件を思い起していた。
「最近、同じようなものを見たの。火傷はその紋章を隠すために自分でつけたんでしょう?」
ソフィアは優しく青年に微笑みかけた。
「ねえ…。貴方は誰なの?」