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第82話 穏やかなお茶会

その日は特に慌ただしく始まったわけではない。

いつものように起床して、身支度を整える。

ただ、今日は飼い犬のごとく飛び回る小動物の動きが活発だっただけだ。

ムーンレイルで遭遇して以来、居ついてしまっている魔物を食すげっ歯類。


そのつぶらな瞳がソフィアを射抜く。


「この際、名前をつけてあげた方が良いかしら?」

「お嬢様がそうおっしゃるなら」

「じゃあ、モフちゃんにしましょう」

「モフちゃん?」

「いいでしょう?」

「お嬢様がそうおっしゃるなら…」


そんな形で小動物改め、モフちゃんの名前は決まったのであった。

だが、今日はそれがメインイベントではない。


はあ…。仲良くなったとはいえ気が重いわ。


「ソフィア。今日は来てくれてありがとう」

「まあ、嬉しいお言葉ですわ。まさか、殿下からお誘いしてくださるなんて」

「今度は君の好きなお菓子を用意しよう。何が好きかな?」


パトリックが私の好みを聞いてくる日が来るなんて…。

人生何があるか分からないものね。

学院の校舎から隠されるようなテラスは温かさで包まれている。


「そうですわね。特に嫌いな物はありませんけれど…」

「殿下。ソフィア様はショコラがお好きだと、ミルトンが…」


静かにパトリックのそばに控えていたハーランが小さく頭を下げた。


「あの子。そんな話を?全く、弟とはいえ、個人情報を簡単に話すのは頂けませんわね。会ったらきつく言いつけなくては…」


私の好き嫌い程度なら、まだ目もつぶれるけれど、ミルトンは公爵家の子息。

噂話は時に自分の首も絞めると分かっているのかしら?


まだ、若いって事を考慮にいれても今後を思えば釘をさしておくのも必要だろう。


「申し訳ありません。出過ぎた真似を…。殿下とソフィア様にはつつがなく縁を結んでいただきたいと思い…」

「いいのよ。ショコラが好きなのは本当ですから」

「なんと慈悲深い。さすがは聖女様…」

「そんなに緊張なさらなくても。初対面でもありませんのに」


ハーランにそう語りかけても、背筋が伸びたままの彼にどう言葉を続けていいのか分からない。

以前は顔を合わせるだけで敵意をむき出しにされたのに物凄い変わりようである。


今も彼の瞳からは尊敬のまなざしが刺さってくる。

こちらの方が緊張してくる。


正直、やりづらいわ。


「ハーランは貴女のファンなのだ。許してくれ」

「ファンですか?」

「当然だろう?君はハーランの窮地を救ったのだから」

「めっそうもありません。すべてはジェフリー卿の日頃の行いの賜物の結果です。私のようなわがまま娘の気まぐれだと思ってくださってよいのですよ」

「なぜ、そうも自分を卑下するんだ。ソフィアは立派にやっている。さすがは聖女だ」


殿下は慰めてくれているのだろう。だが、その期待がまだわずかに残る真のソフィアの心を苦しめている。


そして、私の心も震わせるのよ。

ただの真似事をしているだけだと突き付けられるから。

別人格の記憶を持っていてもそれは変わらない。

ただ、押しつぶされないように気を紛らわせる術を知っているだけでしかない。


「ジェフリー卿。先日の一件以降も診療所には顔を出してくださっているのでしょう?慣れましたか?」

「ええ~。兄の容態も安定しています。オリビア先生にも良くしていただいていますから」

「よかった。今後も気にかけてくださると嬉しいわ。また、嫌がらせをする者が現れるかもしれませんから」


ソフィアは自然に頭を下げた。


「おやめください。国母となられるお方が…。心配なさずとも必ずやこの任務は果たして見せます」


国母になるつもりはそもそもないんだけれど…。

とはさすがに言えないわよね。


だとしても、ここで頷くのも気が引ける。


「私が殿下の伴侶だなんておこがましい限りですわ」

「ソフィアは本当に慎み深いな」


冷たい女だとか思ってたわよね?


「私も君の慈善事業には興味がある。そうだ。王家直轄の診療所にするのはどうだろう?」

「勿体ないお言葉です。そうなれば喜ばしい限りです」


それが出来たら苦労はしないのよ。確かに王家の任が降りれば、補助金が降りる可能性も出てくる。そうなれば、マゴス汚染者の認知度も上がり、理不尽な差別も減るかもしれない。けれど、王家とそれを取り巻く貴族達の大半は聖女の力任せで、すべて解決できると考えている。国王も同様だ。

しかも、国王とパトリックの仲はあまりよろしくない。ゲーム内でも同様で家族の愛を知らないパトリックはマニエルに出会うまで孤独だった。その背景がストーリーをグッといいものにしたのだ。


そう…ゲームなら良いのだ。マニエルとの恋の成就で完結する。けれど、一国の王子としては彼は未熟だ。学院長の横暴も抑え込めないのに国のすべてを牛耳る国王の心を変えるのは難しいはず。

だから、正直、パトリックには期待できないのよね。


「随分かしこまった態度だ。気を使わなくていい。正式に王妃になるかは別として君は私の友人だろう?」

「そうですわね。ごめんなさい」


そうだった。目の前の彼もまだ若い青年なのだ。これから様々な経験を積み、いずれ、国王となる。

彼が本当に何かしてくれるかどうかは分からない。けれど、私の行動に感銘を受けてくれた。

それは素直に嬉しいはず…。


そう思っても、胸が締め付けられる。

違うのだと言いたかった。慈善事業も本当はマニエルが始めた事。

でも最愛だった彼女の名前をここで出して殿下の心を乱すのも気が引ける。

その罪悪感がパトリックとの間に微妙な距離感を生み出しているのだ。

たとえ、心が近づいたとはいえ、それが埋まる事はない。この先、一生。


「そう言えば、ベンストック子息はお元気ですか?最近、お見かけませんが…」

「アイツならしばらく実家に帰っているよ。お母上の具合が悪いとか」

「そうですか。何も知らずに…」

「ナサリエルは自分の事をペラペラ話す奴じゃないからな」


ソフィアの脳裏に遠い昔の出来事が通り過ぎて行った。

まだ無垢だった少女と少年の笑顔。

ナサリエルが学院にいないと知ってどこかホッとした。

確かめなければならないと心は思っているのに逃げたいとも思っている。

そんな感覚をおさめるように冷めた紅茶を口に運ぶのだった。

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