穏やかな日差しが10歳にも満たない少年少女の頬を照らしている。
それだけで厳格が服を着たような宰相の一族の屋敷に温かさが込められた空気が流れるようだった。
「また、ピアノが上手なったね」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。ナサリ」
かつてのソフィアはこの瞬間がとても好きだった。
クラヴェウスの実家は息が詰まるから。
でも、不思議とナサリに会うとホッとできる。
公爵の位にあるクラヴェウス家と同等の歴史と格式を持つベンストック家は古くから親交があった。亡くなったお母様とナサリのお母様は親友だったらしく、物心つくころには彼の顔を認識していた。こうして語り合う回数だけなら、弟のミルトンよりも多いかもしれない。
けれど、それも最近は減ってきた。
おばあ様が私が出かけるのを快く思ってない様子だから。遊ぶぐらいなら、聖女になるための勉強をするように言われる。それでも、宰相一家の屋敷を訪ねる事を許可してくれているのは、いずれ王妃になった時にお世話になるからだと思っているからだ。理由はどうだっていい。
聖女になれというプレッシャーから逃げられるなら井戸の中にだって飛び込める。
ベンストック家の人達も私を温かく迎え入れてくれるのも嬉しい。
「お世辞じゃないよ。ピアニストにだってなれるよ。きっと…」
ちょっとおっとりしたナサリエルはソフィアがやる事は何だって肯定してくれた。
この小さな指で弾ける曲なんて限られているのに…。
「やめてよ。そんなの無理に決まってる。だって…」
「ごめん。困らせる気はなかったんだ」
ソフィアよりも頭一つ分低いナサリエルは肩をすくませると気まずそうに並んで座っていたピアノの椅子から降りた。
「いいのよ。私も言葉を選ぶべきだったわ」
「どうしても、聖女にならなきゃダメなの?」
「それがクラヴェウス家の使命なんだって…」
「やっぱり、ピアニストになりなよ。それから、僕と世界をまわるんだ」
「別にそんなにピアノが好きなわけじゃないんだけど?」
「えっ!そうなの?」
「おばあ様が聖女はなんでもできなきゃダメなのよって言うから」
昨日、おばあ様に叩かれた背中に痛みが走り、思わず自身の体を抱え込んだ。
「大丈夫?」
「平気だよ。ちょっと疲れたのかも」
「待ってて…」
ナサリエルは冷たい紅茶をソフィアに差し出した。
フルーツを漬け込んだカラフルな色合いのそれを口に含めばやはり甘く、胸の辺りが涼しくなる。
「それから、これは僕からのプレゼント」
頬を染めたナサリエルの傷一つない手の中に握られていたのは一輪のひまわり。
「庭に咲いてたんだ。ソフィアにあげたくって」
愛らしいナサリエルは深い意味なんて考えてはいなんだろうなと思い、思わず笑みがこぼれた。
「ありがとう。でも、知っているの?ひまわりの花言葉?」
「“あなたを見ている”だっけ?」
「知ってるんだ」
「もちろん。僕はソフィアを見ているよ。だから、落ち込んでいるのも分かるんだ」
やっぱり、そこに深い意味はないよね。
分かっていたけれど、少しの落胆と変わらない態度の彼に安堵もした。
両親が亡くなって心を閉ざしかけたソフィアの心に光を差し込んでくれたナサリエル。まるでこのひまわりのように屈託なく笑うその様子は明るい太陽。
眩しくて、目がくらみそうになるけれど、なぜか、彼には本音が語れる。
ソフィアにとって数少ない友人。こうして、笑えるのも彼の前だから。
「ナサリエル。ソフィア様にご迷惑などかけていませんわよね?」
突如、二人の後ろから女性の声が響き渡り、ナサリエルの肩が震えたのが分かった。
「もちろんです。母上」
質素な装いなれど、貴婦人のお手本のような所作と上品なベンストック夫人が微笑んでいた。
だが、さっきまで天真爛漫に笑っていたナサリエルからは笑みが消えた。
ソフィアはそっとナサリエルの手を握る。
「ナサリエル様には大変よくしていただいています」
「まあ、さすがはクラヴェウス家のご令嬢は違いますわ。ますます、亡くなられたお母様にも似てこられて…。感慨深いですわね。息子が未来の聖女と交流できるなんて…。ゆっくりしていってくださいな」
ベンストック夫人は上機嫌で去っていく。ナサリエルはようやくソフィアに手を握られていた事に気づいたようで、顔を真っ赤にする。
「ごっごめん」
「そんな顔しないで。ナサリが私を見ているように、私もナサリを見ているから」
「うっ!僕、立派なベンストックの跡取りになれるかな。何もできないけど…」
「私は今のナサリが好きよ」
「ありがとう。ソフィアは優しいね。風を操れない僕に価値はないのに…」
「それなら、聖女の印が現れない私も同じだよね?」
ナサリに惹かれる理由。それは同じように愛している人に認められない気持ちを共有しているからかもしれない。
「ならさ。大きくなっても、このまま価値のない人間同士だったら一緒に逃げちゃおうか。ソフィアとならどこでもやっていける気がするんだ」
「そうね。そうしちゃおっか」
たわいない子供同士の会話。間違いなくあの時のソフィアはナサリエルという少年に恋をしていた。初めてのときめき。優しい思い出になるはずだったのに、彼はソフィアの手を離れてしまった。
風を操る力を手にしたナサリエルは家族に愛される人生を歩み出したのだ。
その場に残されたのはソフィアだけ…。
ある瞬間から距離を取り始めたナサリエルに絶望した。
力を手にしたナサリに私は不要なのね…。
ピアノだって、いつの間にか彼の方が上手くなっている。
貴方も他の連中と一緒。
許せない!
許せない!
心のよりどころを失ったソフィアは初恋も友情もなかった事にしてナサリエルからも他の誰からも距離を取ると決めたのだ。
それが自身を守る唯一の方法だと信じて…。
しかし、それも、もはや過去だ。
感情の行き場を見つけられずにいた哀れな少女は眠りについたのだ。
転生という名の乱入者によって…。
だから、この記憶も残された映像のようにただ再生されていくだけなのだ。