ソフィアがハーランのもめごとを解決し、パワリの屋敷への嫌がらせを処理してから数日。
国中にばらまかれた新聞にとある慈善事業の記事が載せられた。
それは聖女に最も近く、現王太子の婚約者であるソフィア・クラヴェウス令嬢のマゴス汚染症に手を差し伸べたという内容。そして、パワリの屋敷が療養施設として開放されているとも…。
その情報に、さすが聖女だともてはやす者やマゴスの闇に魅せられた者に施しをするぐらいなら、普通の人々にも目を向けて欲しいとぼやく者。はたまた、聖女なら慈善事業などせずにさっさとマゴス復活を止めて欲しいなど、反応は様々であった。
「忘れられた人々をマゴス汚染症と名付けた記者のネーミングセンスは頂けないわね」
ソフィアは批判的な反応が多いのを肌で感じながらも、特に心を乱されてはいなかった。
寮の自室で紅茶の香りを呑気に楽しむぐらいには平常を保っている。
「皆、好き勝手言い過ぎです。お嬢様の苦労も知らずに…」
シエラはソフィアに一礼しつつ、怒りを滲ませている。
「あら、そうでもないわ。むしろ、自分で思っている以上に事が上手く行きすぎて怖いぐらい」
ハーランの借金問題も療養所の件にしても、記者への根回しも思っていた以上にスムーズにいっている。それは喜ばしいと思うべきなのに、なぜだか胸のあたりはざわめく。
奇遇に終わってくれるといいのだけれど…。
「また、そのように…。ですが、よかったのですか?大々的にマゴス汚染症の療養施設開設を発表なさってしまって」
「人って言うのはね。情報を隠せば隠すほど、興味をそそられ、叩くものなのよ。もちろん、言った事に尾ひれがついてあらぬ災いをもたらす場合もある。でも、今回の件は前者で正解だと思っているわ」
「ですが、お嬢様のお遊びだと非難している記事もあります。しかも、パワリ家との因縁を揶揄して面白おかしく書いている三流ゴシップなんて見てられません。許せません」
「いいじゃないの。それでも、あの屋敷がクラヴェウス家の監督下にあると大抵の人間が理解したはずよ。これで嫌がらせを続ける奴はただのおバカだと言っているようなもの。少しは静かになるでしょう」
「あの屋敷への嫌がらせを鎮めるために、自らの名を押し出したと?」
「有力貴族の娘に生まれたんだもの。こういう時に使わずしてどうするの?」
「私の浅はかな考えなど、お嬢様の足元にも及ばないのですね」
「もう、大げさなんだから」
「ですが、大奥様は何もおっしゃっては来ないでしょうか?」
一瞬、怒りと不満げなおばあ様の顔がよぎり、背筋に冷たい何かが通り過ぎる。
「大丈夫よ。手紙は送っておいたわ。聖女ならば、マゴスの闇に捕らわれた者も見捨てないはずだと綴ったから、きっと納得してくださるわ」
「大奥様の扱いにも慣れてこられたのですね」
考え深そうに頷くシエラ。
確かに彼女にどんな言葉を使えば、事を荒げずに済むのかは分かる。ソフィアという少女の中にいるのは年月だけはバカほど過ごした女なのだ。ある意味、クラヴェウスの女主人と同世代ども言える。だからこそ、分かるのだ。聖女に固執する女が喜ぶ言葉は…。
今頃、孫娘の成長にほくそ笑んでいるでしょうね。
「この際だから、付けたし記事も掲載させようかしら。マゴス汚染症という言葉は本当にその闇に堕ちた化け物どもとは、まるっきり違う人々だとハッキリと区別させるのに適しているわ。けして、治らない物ではないという印象を植え付けられれば、人々の扱いも変わるかもしれない。幸い、オリビアの持つ古代の知恵は治療に役立っている。いつか、マゴス汚染症がそこらの風邪ぐらいの認識になる日を願っている」
「お嬢様…。聖女さえ現れればその身を酷使する事もありませんのに…」
絞り出すようなシエラ。
「やめて。この国は聖女に頼りきりなのがいけないの。おばあ様も然り…」
「申し訳ありません。誰よりも苦しんでいるお嬢様の前で言う言葉ではありませんでした」
「いいのよ。私が聖女になれれば、状況も少しは変わったかもしれないと何度も思ったのも事実」
「そのように卑下なさらないでください。お嬢様は聖女に相応しい力量をお持ちです。それなのにどうして女神様はこのように無慈悲な運命しかお与えにならないのか…」
ソフィアは首を横に振り、否定しながら立ち上がる。
「いいえ。幸せよ。私はいつだって最悪の状況を逃れているの。むしろ、悲劇を引き受けたのは本物の…」
それ以上は口には出さなかった。思わず、唇が震える。
シエラは主の行動のすべてを理解できずに首を傾げているが何も発しない。
ソフィアはただ、何かを探すように小さなガラス窓に近づき、曇り空を見上げる。
女神様はなぜ、自身の眷属とも言うべき聖女を…。
マニエルを助けてくださらなかったのだろう。世界を救うはずの彼女がいなくなれば、女神様が愛した地は朽ちていくのに…。そもそも、女神は何もしない。いつだって聖女に頼るのだ。あの子を殺した人間にも何も罰しない。
だから、私が見つけ出すのだ。
ハーランは犯人ではなかった。おそらくではあるが…。
むしろ、攻略対象達が犯人だと考えたのが浅はかだったのかしら?
真相に近づいている気に一向にならない。
所詮素人の浅知恵。
けれど、止まるわけにはいなかい。
時間がないのだから。
「ねえ、シエラ。少し頼まれてくれない?」
「なんでしょう?」
「アカシアの花を用意してちょうだい?一輪だけでいいわ」
「アカシアですか?」
「一体何に使われるので…失礼しました。すぐに準備いたします」
シエラの返答にソフィアは優しく微笑むだけだ。
だが、内心はいら立ちが募っていた。
湧き上がる疑念はどれも潰されていく。
もどかしくてたまらない。けれど、そのたびに新しい不安も湧き上がる。
まるで導かれるようにソフィアの頭の中に燃える炎と少年の姿が思い起こされていく。
ムーンレイルで呼び起こされたものだ。
ずっと忘れていたのに…。
それは幼い頃の思い出。しかし、その記憶がマニエルの命を奪った者と関わるのかは分からない。
無関係だと頭の中で響いている。
それでも、確かめなければならない。
ソフィア自身のためにも…。
しかし、知りたくないと言う思いも体を浸食する。
これはソフィアの悲鳴。
だから、アカシアだなんて…。
思わず、鼻で笑うしかなかった。