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第73話 空気感に呑まれて

何分、カデリアスの瞳にとらわれているのか分からない。

それは数秒かもしれないけれど、体感としては息をするのを忘れるほど長く感じる。


未だ、情緒的な空気感を放つ彼にソフィアはゆるりと微笑んだ。


「まあ、警部さん。妙な所でお会いしますわね」

「その言葉そっくりお返ししますよ。レディ?貴女という方は不思議なお人だ」

「貴族令嬢にしては、はしたないとおっしゃりたいの?」

「まさか。その逆ですよ。常に興味をそそられる」


密着する中、さらにその距離が近づきカデリアスの吐息が耳元をかすめる。


妙な気分だわ。いつも以上に背中がザワザワする。

人の欲望が露わになるこの場所特有の香り、雰囲気のせいかしら。


「それにしても、警部さんも人並みの男性でいらしたのね」


その心に宿り出した情熱めいた物をかき消すようにソフィアは足を一歩後ろに引く。


「そういうわけでは…。ジュリスに無理やり連れてこられまして…」

「冒険者のご友人ですわね?仲がよろしいことで…」

「悪友というだけです。レディこそなぜ、踊り子の真似事など?」

「しいて言うなら人助けでしょうか。悩める天使のね」

「正直、複雑な気分ですよ」

「あら、残念。私のダンスでは満足できませんでしたか?」

「いえ。男達の視線をくぎ付けにしていたでしょう?いい気分でいられるとでも?」


なぜ、こんなにも響きが甘いのかしら。思わず、体を預けたくなる。

ダメよ!


ソフィアは密着していたカデリアスからスルリと抜けて、一回転の末、距離を取る。

これ以上、この人と話していては飲まれてしまう。


「まだ、夜は長いですわ。もう少し楽しまれてはいかが?私はこれで失礼しますけれど…」


極力、カデリアスと視線を合わせないようにした。

それでも体中を這いまわるような、疼く刺激は収まらない。


「待ってくれ」


カデリアスの鍛え上げられた腕が伸びてきて、思わず固まる。

その指先がソフィアの耳元をかすめた。


「スパンコールが張り付いていた」

「ありがとうございます。取っていただいて」


笑みをこぼすのも忘れて、走り去った。

カデリアスをその場に残して…。


ソフィアは動揺していた。ステージに立っていた時よりもさらに体温は上がっている。

息が上がり、頬は真っ赤に染まっているはず。

この一瞬の間、マニエルの事を忘れていた。

ただ、跳ねあがる心臓の音だけを感じていた。

けれど、すぐに現実に引き戻される。


長く続く通路の小窓からのぞく、外の風景。視界を捉えたのは入口付近に立つ男の姿だ。

髪色も服装も学院で見せる雰囲気とは何もかも違っていた。それでも分かる。

思わず走り出していた。階段を駆け下り、その人物の元へと向かう。

一階についた時、エルとぶつかった。

彼が後ろに倒れそうになるのを咄嗟に腕を掴み、引き戻す。


「ごめんさない。大丈夫?」

「あんた、貴族の令嬢様にしたらお転婆すぎないか?」

「時と場合をわきまえているだけよ」


ソフィアは辺りを見渡が、エルの後ろに見える入口に目当ての男の姿はなかった。

喪失感が広がっていく。


「なんだよ」

「ああ、ごめんさない。入口に知っている人がいたから声をかけたかったんだけど…」

「うん?バウンサーとか?」

「えっ!」

「変な客とかもいるからさ。雇ってるんだよ。俺達とはほとんど顔合わさないけど…」


バウンサーって警備員の事よね。


「それより、ありがとう」


照れ臭そうにエルは頬をかく。


「何の事かしら?」

「父さんとちゃんと話したよ。ガラスの天使はもうしなくていいって…。好きにお前のスタイルを作っていけばいいって言われたよ」

「よかった。無事落着ね」

「こんな、簡単な事ならもっと早く言っておけばよかったよ」

「他人が思う以上に当事者は思い悩むものだからね。これで一つ学んだって所かしら」

「ああ…」


ソフィアはエルの肩を軽く叩き、入口へと向かう。

やはり、彼の姿はない。

近くにいた男にソフィアは近づいた。


「ねえ。さっきここにいた男性はどこに行ったの?」

「アルの事か?」

「アル?」


彼とは違う名前だわ。でもあの顔は確かに…。


「俺と同じパウンサーのアルバイトさ。でも、もう帰ったぜ。客もあらかた片付いたしな」

「そう…」

「ねえ。彼はいつもムーンレイルでパウンサーをしているの?」

「しょっちゅうな」

「なら、彼を訪ねて金髪の少女が訪ねてこなかった?」

「そういや、そんなこともあったな。どっちも心底、驚いていたが?」


驚く?


「それより、アンタ、美人だな。どうだ。この後、俺と…」


男のねっとりとした視線と腕がソフィアの背中をさする。


「そこまでだ」

「げっ!」


サイに腕を締め上げられ、悲鳴をあげる男。


一人相手に手も足もでないなんて…。


それでよくパウンサーが務まるなと呆れてしまう。


「お嬢様。そのような恰好では目に毒です」


シエラは上着をかぶせてくる。その態度は怒っていた。


大げさだわ。


でも、反論するのも気が引ける。


「ありがとう」


笑みをこぼしても逆にシエラは心配そうにするだけだ。


「何かありましたか?」

「いいえ。すぐ着替えるわね」


首を横に振り再び、ムーンレイルの中へと戻った。

シエラとサイが何か話しているがほとんど耳に入ってこない。

頭の中は先ほど見かけた男の事でいっぱいだった。


“ハーラン・ジェフリー”


間違いなく彼であった。

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