物心ついた頃からムーンレイルは僕の家だった。
父さんは支配人で夜の街を華やかに輝かせる女性達を仕切っていた。歌って、踊る。
そんな世界に魅せられ、見様見真似でステップを踏み、歌を口ずさめばみんなが喜んでくれた。
「お前には才能がある!さすがはアイツの子供だ」
母さんもダンサーだった。僕が生まれてすぐ亡くなったからよく覚えてないけど…。
写真の中の母さんはどれも美しく輝いていた。
音楽に身を任せれば、母さんとも繋がれる気もした。
父さんも喜んでくれる。だから嬉しかったんだ。ただ、それだけだったんだよ。
僕自身も充実感を味わっていた。高音を響かせる歌も難なく口ずさめた。
ただ、少女としてステージに立つように進言したのは父さんだった。
客達は可憐な少女に握手を送ってくれる。
その瞬間、とても快感を味わったのは本当だ。
でも、それは以前の僕だ。今は違う。
あの煌びやかな世界に足を踏み入れるのが怖くて、辛くてたまらない。
皆がガラスの天使と呼ぶ。繊細で消え入りそうな印象の僕が好きなのだ。
だが、それはあながち間違いではない。その輝きが薄れていくのが分かっているからだ。
体も自分の意志とは関係なく大きくなりつつある。華奢な少女ではないと思い知らされる。
そして、声もかすれ、低くなりつつあるのだ。高音が売りのガラスの天使ではなくなる。
そうなれば、父さんはどう思うのだろう。
僕を必要としてくれないのではないか?
そんな風に考えれば考えるほど、どうすればいいのか分からず感情が溢れてくる。
止められない。誰か助けて欲しい。
気付けば頬に冷たい涙が流れていた。
「大丈夫。落ち着いて…」
出会ったばかりの少し年上の貴族の女性が慰めるように抱きしめてくれた。まだ若い年齢のはずの女性はとても暖かくて母さんが生きていればこの人のようにいい香りがするのだろうかと思った。
ついさっきまでこの令嬢に怒りを募らせていたのに…。
ずっとステージに立つ気になれなかった。衣装を切り刻めば、それが叶うと思ったんだ。子供じみた行動だよ。でも、やめられなかった。もちろん、途方に暮れる父さん達に申し訳なさも募る。
それでも、逃げたかったんだ。どうにかしたかった。それなのに、どこからともなく現れた金持ちの令嬢のせいで、すべてが台無しになってしまった。
これで僕はガラスの天使として歌わなければならない。
立てば、父さんにバレてしまう。
だから、目の前のソフィアと名乗るこの女性が恨めしかった。
追い出したかった。しかし、彼女の方がずっと大人で、僕はいかに子供なのか思い知らされる。
サイが認める女性だから仕方がないのかもしれない。
男の中の男。物心ついた頃は彼のようになりたかった。でも今はどうなのだろう。
「分からないんだ」
「何が?」
サイのようになりたいのか?
モヤモヤするという意味でつぶやいた言葉に令嬢は首を傾げている。
間近で覗き込まれる紫の瞳はとても美しい。
天使と呼ぶなら彼女の方がふさわしいんじゃないのかと思った。
「もう、歌えないんだ…」
「なぜだ?」
令嬢の後ろで訝しげにこちらを見下ろすサイがいた。
思わず肩を震わせる。
「そう…。もしかして声変わり?」
僕は頷くしかできない。
「それは普通の事よ。支配人…貴方のお父様には話したの?」
「言えるわけない!ガラスの天使はうちの目玉なんだ。それがなくなったとなれば…」
唇を噛みしめるしかなかった。
「なら、歌ったり踊ったりするのは?それも嫌いなの?」
「いいや。ステージは今でも好きだ。でもガラスの天使は嫌いだよ」
スカートをはいたりするの別にいいんだ。誰もが少女の僕を求める。
でも僕は男だ。ガラスの天使と呼ばれるたびに気持ち悪さが募る。
「なら、やめてしまえば?」
「はぁ?聞いてなかったのか。みんな、ガラスの天使が好きなんだ」
「なら、新しい目玉を作ればいいじゃない。貴方だけのショーを…」
「そんなの無理だ。第一、ステージに立てるのは女性のダンサー限定だし…」
「誰が決めたの?そんなもの…。ガラスの天使はイメージ通り消え去るかもしれない。ならば生まれ変わればいいのよ。思うままに…」
「そんな事できるわけ…」
「なら、このままウジウジと泣いている気。この間にもガラスの天使は消えていくのよ。いずれ、お父様も知る。だったら、その前に自分で新しい設定を作るしかないでしょう?パフォーマーなんだから」
会ったばかりのこの女性の言葉がすんなり体に溶けていくのはなぜなんだろう。
今まで悩んでいたのがちっぽけに思えるぐらいに…。
でも、気に喰わないとも思う。
「そこまで、言うなら手伝ってくれるのか。お姉さん?」
どうせ、他人事だ。
断るに決まってる。
「いいわ」
即決されて、こちらが動揺してしまう。
しかし、先に挑発したのは僕の方だから、引けない。
「お嬢様!」
むしろ言い切った令嬢に心配の声をあげる侍女と思われる女性の方が慌てている。
「言ったな。お姉さん、踊れるの?」
「私を誰だと思ってるの?」
令嬢も断言した手前、後には引けないのかもしれない。
それでも僕には心強い。
「分かった。ガラスの天使はやめる。新しい僕になる」
「なんか面白くなってきたな」
サイは愉快そうに笑っていた。
そう言えば、こういうイベント事、好きだったな。この人…。
根っからの祭り好きというか…。
「もう、悪い大人ね」
「また、妙な事に…」
サイに呆れている令嬢とオドオドしている侍女。
何だか面白い光景だ。
だが、令嬢にうまく乗せられたか?ともよぎるのであった。
ただ、もう、どうにでもよくなれとすべてを投げ出したい気持ちの方が勝っている。
しかし、その瞳は儚い天使には程遠く情熱にあふれているのにエル自身は気づいていないのであった。