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第66話 シエラパニック

『ねえ、………。あなたは大丈夫』


おぼろげな記憶でしか存在しない母の温かい声を久しぶりに聞いた。

しかも、かつて呼ばれた名前をつぶやかれるなんて…。

どうしてだか、胸のあたりがポカポカする。

こんなに穏やかに呼吸できるのはいつぶりだろう。

カーテンの隙間から眩しいほどの日が差し込んでいる。

微睡みの中でもそれを感じていた。

今日はスッキリ目覚められる。

そう確信したのに…。


いざ、意識がはっきりすると異様な光景にギョッとした。

なぜなら、掃除を欠かさない室内は泥棒でも入ったかのように荒れ、物が壊れていたから。


「お嬢様!」


さらに肝が冷えたのはいるはずのないソフィア様が身じろぎ一つせず、横たわっているからだ。


どうして?

お嬢様が隣に?

シエラは主と同じ布団で寝ていた事にパニックで倒れそうになる。


まさか、お嬢様と…。


何を思ったのか、自身の肩、腰、胸の感触を感じとった。服はちゃんと着ていた。

そして、寝息を立てるソフィア様も同じである。

ただし、外出時に好んで着ているラフな格好であるのは気にかかるけれど…。


シエラはホッとしたと同時に落ち込みもした。


私は何を考えているの!


無意識のうちに想像した自身の思考を叱責した。


けれど、おかしい。

ここ最近はお嬢様のあられもない姿を想うだけで体調が悪くしていたのに…。

今日は何も感じない。


まだ幸せだったころのお母様の夢をみたせいかしら?


そんな事をぼんやり考えていると、


「う~ん…」


ソフィア様が眠そうに背伸びをした。


「ああ、よく眠れたわ」


スッキリした面持ちの美しい瞳がシエラとぶつかる。


「シエラ!よかった」


飛び上がるほど、強く抱き着かれシエラの鼓動はさらに跳ね上がる。

けれど、極力冷静さを装ってその背中に手を回した。


「あの、どうしてお嬢様が私のお部屋に?」

「大丈夫?どこか痛いところは?」

「いえ…特に」

「うまく行ってよかったわ。心配したのよ。このままシエラが消えちゃうんじゃないかと思ってしまったんだから」

「それはどういう?」

「だって帰ってきたらシエラの部屋の中、ツルまみれだったんだもの」

「ツルですか?」


この部屋の惨状はそのツルが原因?


しかし気になるのはそこではない。


「あの、帰ってきたというのは?」

「それはいいのよ。で、シエラ?」

「はい」


いつも以上に真剣な表情でのぞかれて、無意識に身が引き締まった。


「どうして、症状が出ていたのに私に何も言わなかったのよ?」

「症状とは?」

「まさか気づいてなかったの?どこで手に入れたのかこんな物まで使っていたのに?」


ソフィア様は小さなお香袋を揺らしていた。


「それは闇市で買った香薬の一種です。最近、体調がすぐれなくて…」

「闇市ね。それならまあ、納得だわ。でも意外ね。無茶をするなって私にいつも言うくせにまさかシエラが闇市にいくなんて…。あそこは危険でしょう?人さらいも多いと聞くし…」

「いえ、いつもではありません。今回はたまたま…」


闇市は様々な物が安く売っているが必ずしも合法とは限らない。まがい物も多く、そこに出入りする者の素性もほとんど怪しいのはよく知られている。だから、少女が一人で行くことはぼぼないのだ。


でも、私は普通の女ではないから…。

欲しい物があるなら、まず闇市へ向かう。

通常は出回っていない武器も出品されるため、非常に重宝するのだ。


シエラは身に染みわたるほど分かっていた。

生まれ落ちた一族の者はあそこをよく利用していたから。


「別にいいわよ。シエラの知らない一面を見れて楽しいから。何より、これを手に入れられたのは幸運だったわね」

「といいますと?」

「これは癒しの魔具の一種だから。邪力の効力を弱められる。この手の魔具製作の手法は廃れたと思っていたけれど、残っていたのね」

「魔具だったのですか?」

「そうよ。その分、香薬の効果もあってか、シエラの汚染に気づけなかったのは私の力不足ね」

「汚染?」

「シエラ、貴女、マゴスの闇に捕らわれていたのよ」

「私がですか!」

「ええ、一歩間違えれば、魔物に堕ちていたかもしれない」


何てこと。クラヴェウス家の侍女なのに…。


「申し訳ありません!お嬢様を危険にさらすなんて…」


とんでもない失態を犯した事に全身が震える。


「この罰は私の命で…」

「ストップ。落ち着いて」


短剣を取り出したシエラの手を優しい主の指が握り返した。


「もう脅威は去ったのよ。だから気にしないで」

「ですが、それではどうやってこの始末を…」

「そう言うなら、これからも今まで通り、そばで仕えてちょうだい」

「ですが…」

「お願いよ。何度も言っている通り、シエラは大切な友人なの。貴女がどう思っていようとね…」

「お嬢様…」


絶対的に信用してくれるソフィア様のまなざしにいたたまれなさを感じる。


「友人って言うのは助け合うものよ。今回はシエラが困っていた。だから次は私を助けてね」


私のお嬢様への気持ちは主への尊敬ではない。

友人に向けるものでもない…。

いつ、お嬢様をその手にかけるか…。


「シエラ…」


目を合わせるソフィア様に驚き、身構えた。


「何を抱えているか知らないけれど、それを理由に私から離れないで…」

「えっ!」


思わずドキリとした。

まさか、秘密を知っている?


しかし、ソフィア様はその先を聞いては来ない。

何事もなかったかのようにベッドから足をおろし、立ち上がったのであった。


「そういう訳だから、紅茶を入れて…。いつものようにね。ああ、もちろんこの部屋の後片づけも手伝うわ。着替えたらね」


軽快に自室に戻っていく主に返す言葉はなかった。

その場に残されたシエラはボーっとしながら、動かない思考を働かせようとした。

それでも浮かんでくるのはかつて母が言ったかもしれない言葉だけだった。

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