クラヴェウス家が管轄する領都エインセルでの事件を解決したソフィアはおばあ様への挨拶もそこそこに学院に戻った。
そして、最初に向かった先はユウ君たちの所だった。
「お姉さん!また来てくれたんだね!」
ユウ君は変わらず笑顔を向けてくれる。
「こんにちは。今日はお友達も一緒なのよ」
長い髪を後ろに束ねたオリビアに視線を移す。
彼女の恰好はおよそ貴族の令嬢とは思えない。
どちかというと作業着。シンプルかつ、ダブダブのズボンスタイルなのである。
「結構な人数ですね」
「ええ…」
オリビアがこの申し出を反故にしたらどうしよう。
いえ、彼女は一度引き受けた約束を破るようなタイプじゃないわ。
地下でひっそりと肩を寄せ合っている彼らは以前、来た時とその顔ぶれはほとんど変わっていない。
生きていてくれた。
それだけでホッとした。
「やりがいがありますね。シエラさん!薬箱を貸して」
二人の令嬢の背後で佇んでいたシエラはスッと大きなカバンを差し出した。
オリビアが持ってきた薬の数々だ。
「じゃあ、少年。ちょっと見せてね」
オリビアがユウ君の体に触れようとすれば、彼は一歩後ろに下がる。
「ぼっ僕に触れたらマゴスに魅入られてしまうよ」
そんな言葉をこんな小さな少年が口走るなんて…。
胸が締め付けられる。
オリビアもシエラも同じことを思っているはず。
「心配しないで。私達はマゴスに魅入られたりなんてしないわ」
ソフィアは膝をつき、ユウ君の曇りのない瞳を真っすぐに見つめた。
彼を安心させるように肩をそっと抱く。
「ほら、大丈夫でしょう?」
「うん…。なら僕じゃなくて先にお母さんを見てよ」
薄暗い中、壁に寄りかかる女性を心配そうに指さした。
「私は大丈夫よ。ソフィア様の奇跡で楽になったから」
確かに、初めてあった時に比べれば彼女の表情は血色がよかった。
まがい物の力でも一定の効果はあったらしい。
「また奇跡を見せてくれるのかい?」
ドブの腐った匂いに交じって、至る所から救いを求める声が上がった。
彼らの期待に応えられないのが悔しい。思わず唇を強く噛んでいた。
いいえ、落ち込んでいる場合ではないわ。
私がこうしてる間にも状況は悪い方へと向かっている。
それを食い止めるためにオリビア嬢と手を組んだんだもの。
「奇跡かどうかは分かりません。ですが、貴方達の事はこちらのオリビア様が見てくださいますよ」
オリビアは真剣な面持ちでユウ君の服の裾を少しめくった。
体全体にマゴスの象徴たる黒い痣…タトゥーのような模様が浮かび上がっていた。
全身に回れば、以前の彼の母親と同様に命が危ない。
悠長にしすぎたかもしれない。
「これは…。そうとう痛いんじゃないの?」
思わず少年に聞き返していた。
「そっ…そんな事ないよ」
ユウ君は視線を泳がせていた。
何てこと…。この子はどこまで健気でなの。
そして、ここにいる誰よりも精神力が強い。
「治せる?」
「どうでしょう。でも、このタトゥーを薄める事は出来るかもしれません」
オリビアは大きな薬箱からいくつかの薬品を混ぜて調合を始めた。
「このお姉さんも聖女様なの?」
「違うわ。私はそうね…」
なんと答えるべきかオリビアは迷っている様子である。
「オリビア様は神秘術の使い手よ」
「なんですそれ?」
思わず飛び出したソフィアの発言にオリビアはとっさに声をもらす。
「魔法ではないし、かといって医学と呼ぶには謎が多いでしょう?貴方の力は…」
「だから神秘術ですか?ソフィア様のネーミングセンスは独特というか安直というか…」
オリビアは愉快そうに笑った。それでも薬を作る手は止まらない。
「ちょっと!オリビア様。恐れながら、ソフィア様に対してその態度は失礼ですわ」
シエラは今日も元気らしい。
「いいのよ。彼女は私の同志なのだから」
「同志ですか。では、その期待に応えないといけませんね」
軽快な口調のオリビアに少し驚いたのは事実だ。
変わり者と揶揄され、貴族の集まりに顔を出してもほとんど言葉を交わさなかった彼女の意外な一面を見れて、なんとなく嬉しさがこみあげた。
まるで、気の許せる友に巡り合った気分だわ。
「じゃあ、少年。しょっと、染みるかも…」
オリビアは茶色く濁ったが液体を手に塗り、ユウ君の肌に沿わせていく。
「ウッ!」
ユウ君の小さな悲鳴が漏れた。
「息を吐いて…」
落ち着かせるようにユウ君の背中をさすれば、その表情は和らいでいく。
ユウ君のつぶらな瞳がパチパチと開いたり閉じたりする。
その体に浮かび上がっていた黒い模様は薄くなっていた。
「体が軽い…」
ユウ君は嬉しいのかその場で飛んだり跳ねたりしていた。
だが、ソフィアとオリビアは同時にホッと息をついた。
上手くいった。
「ありがとう。オリビア様」
「いいえ。私の力が彼らに効果があるのが分かっただけです。これから大変ですよ」
「そうね…」
「ですが、問題はこの環境です。彼らを清潔な場所に移さなくては…。救える者も救えない」
「分かっているわ。それはこちらで何とかしますから」
「よろしくお願いします。私はもう少し彼らを見る事にしますね」
オリビアは歴戦を潜り抜けたように手際よく、ここで暮らす人々に寄り添っていた。
彼女に任せれば、大丈夫だろう。
「それと、これは差し入れです」
シエラはソフィアの言葉を待っていたかのようにベストなタイミングで用意していた大量の水や食料を積んだ籠を運んでくる。
「ありがとう。重かったでしょう?」
「これぐらい平気です」
シエラは籠を空間の中央に置いた。
「ありがとうございます。聖女様!」
冷たい肌の下から血管が浮き出ている老婆がソフィアの手を握った。
だから、私は聖女ではないんだけれど…。
このおばあさんにかける言葉はない。
ただ、頷いて微笑むしかできなかった。