その日は長く降った雨がようやく上がり、太陽の光が窓辺に差し込んでいた。
庭でお母様が花いじりをしていて、お父様は弟に剣を教え込んでいる。
いつもの日常。
そして、私は廊下をひっそりと歩いていた。
記憶の中のその人に配慮して…。
いつもの場所へと向かう。使用人のすべてを従えて、屋敷の主として長い間君臨し続けたその人の声はかすれていた。何十年と重ねた歳が一目でわかるその体は衰弱し、わずかな調度品の中にひっそりと運び込まれたベッドに横になる。起き上がる事はほとんどない。
しかし、優しい人。
お見舞いと称して、部屋に入り浸る私の事も快く迎え入れてくれた。
「おや、今日は遅かったね」
小さな体でその人に駆け寄れば、優しく笑いかけてくれた。
「ひいおじい様…具合がお悪い?」
「いいや。すこぶる調子がいい」
真っ白な髪と私と同じ色の瞳のひいおじい様は頬を緩ませた。
「何かいいことでもあったの?」
「そう見えるかい?」
「いつも寂しそうだから…」
「そうかい?」
「うん」
「まいったな。そんなつもりはないんだがね…」
何もないような顔をなさっているけれど…。
そんなの嘘よ。
こんな風に穏やかに笑うお姿は初めてだもの。
「嬉しいんでしょう?どうして?」
「そうだな。いい夢を見たからだろうな」
「夢?」
「ああ、久しぶりに好きな人に会えたから」
「好きな人?それはひいおばあ様の事?」
何十年も前に亡くなったと聞いているひいおばあ様。
「そうだな。彼女もいた気はするが…」
なんとなく言葉を濁すひいおじい様に首を傾げる。
「ひいおばあ様じゃないの?じゃあ、お友達?」
「そうだ。友人だよ」
仕切りに納得したように頷く老人に幼いながらに違和感を覚える。
しかし、それも一瞬の事で忘れてしまう。
「へえ~。ひいおじい様のお友達!どんな方なの?」
誰もが口をそろえて、素晴らしい人だと褒めたたえるひいおじい様。
けれど、厳しくて恐ろしいとも言われている。
そんなひいおじい様の友人に興味が湧いた。
「とても強い奴だったよ。そして脆くもあった」
「えっ!強いのに弱いって事?」
「違うな…」
「繊細だったんだよ」
せんさい?
どういう意味だろう?
「お前には少し早かったな」
ひいおじい様は血管の浮き出た手で優しく頭を撫でてくれる。
ひんやりした感触に頬が緩んだ。
「もしかして、あの絵の人?」
壁にかかった絵を指さした。
何本も伸びる巨大な足を持つ魔物に立ち向かう二人の勇者。
後ろ姿だけだが、ひいおじい様がその一人に何度も指を添えていたのを知っている。
「お前には分かるんだね」
皮肉気味に息をつく、ひいおじい様になんと声をかけていいのか分からなかった。
「あれはただ一度だけ、冒険した時の記録だよ」
「ぼうけん?ひいおじい様は冒険者だったの!」
「おや、そんな難しい言葉を知っているのかい?」
「うん。だって、冒険者は悪い奴を倒すヒーローでしょ!」
お母様が読んでくれる絵本の多くも冒険者が登場する。
「そうだな。だが、残念だが、私は冒険者ではないよ」
「なんだ…」
「しかし、巨大な魔物を倒したのは事実だ。あれは隣国に赴いた帰りだった。馬車の前に突然現れたそいつは私の腹を裂こうとした。それを鮮やかな魔法で撃退したのが友人だった」
「へえ~。凄い!」
幼いながらにひいおじい様の語る武勇伝にワクワクした。
こうして、ひいおじい様とはいつも楽しいお話ができる。
けれど、おばあ様はひいおじい様が嫌いな様子だった。
「いつまで引きずっているおつもりです?」
「何が言いたいんだ!」
「選択されたのはご自分でしょう?それを何年も何年も…!」
「それ以上は!」
まだ、ひいおじい様が歩けた頃。
二人がよくケンカしているのをお父様が止めに入ったのを何度も見たから。
その理由は分からなかったけれど、とても怖かったのは覚えている。
それでも、私はひいおじい様が大好き。
子どもの戻ったように、お話される姿に安心感が広がるから。
「そして、私と友人は命からがら魔物の息の根を止めたのだ」
興奮気味に話すひいおじい様はイキイキしていた。
目に光が宿る姿は宝石のようだわ。
「あの時の体験を忘れないために私達は同じ絵をかかせて、保管する事にしたんだよ」
「じゃあ、お友達とお揃いなんだね」
「ああ、いい思い出だよ。だが、これは秘密なんだ」
「秘密?」
「そうだ。家族の誰も彼もがこの絵は作り話だと思っているから」
「どうして?良いお話なのに…」
「仕方がないんだよ。娘は友人を嫌っているから」
ひいおじい様の娘って事はおばあ様?
だから、二人はいつも喧嘩していたの?
お友達が嫌いだから?
「友人を思い出す物があると機嫌が悪くなるからね。あの子は…」
「だから、秘密なの?」
「そうさ。お前もおばあ様が好きだろう?」
「うん…」
「だから、約束してくれ。この絵の事は誰にも話さないと…」
「分かった。約束する」
「いい子だ」
秘密という音に子供ながらに不思議な魅力を感じた。
ひいおじい様とのつながりを強く感じたからかもしれない。
何より、うっとりとした様子で語るひいおじい様を羨ましいと思ったから。
「いいな。私もそんな経験してみたい」
「きっとできるさ。お前の人生はこれからなんだから」
そう慰めてくれた曽祖父が旅立ったのはその数時間後だった。
まだ、お母様もお父様も生きていた頃。
おばあ様も優しくて、すべての時が心地よかった。
それも今では、別の意味を成すと私は分かっている。
聞く事、見た物だけを素直に信じるほど純粋ではなくなってしまったのだから。