おばあ様との取引は何とか成立しそうね。
あの人は扱いにくいけれど、約束を守る方なのは知っている。一度口にした言葉を取り消したりはしないだろう。さらにマゴス復活が近いとはいえ、闇の者を引き入れてしまった屋台連合への恩も得られるのだ。長い間、貴族と連合はいい関係を築いてきたが、商人たちの力がより大きくなりつつある現在、彼らがクラヴェウス家に借りを作った事はおばあ様にとっては好都合なはず。しばらくは機嫌もいいはず。
だから、私がこれから首都でやる事に文句を言ってくる可能性は低い。領都での事件を利用する形になってしまったのは心苦しいけれど、いずれ首都で暗躍する邪術使いを葬ったと思えば、気も少しは楽になるはず。その相手がたとえ哀れな女性だったとしても、私がやるべきこと、したいと願うのはマニエル殺しの犯人捜しだ。その他の事にうつつを抜かしている暇などない。
しかし、そうは言っても瘴気の毒に苦しめられる人達の今後に想いが募ってしまうのも事実。
どこまでも優柔不断な自分に腹が立つわ。
気分も悪い。
この乱雑した思考も少し眠れば楽になるかもしれない。
首都に戻れば、考えもまとまるはず。とりあえず、今は休もう。疲労感が限界に来ている。
「おい!」
広い屋敷の廊下に弟の激しい声が響いた。
「何かしら?」
「さっきの話はなんだ?」
「さっきの話?」
「しらばっくれるな!魔物大量発生の件を解決したのは姉さんだろ!」
「だから?」
ミルトンの表情は苦悩に満ちていた。
どうしてそんな顔をしているの?
一体何だって言うのよ。全部無事に済んだはずでしょう。
「いいのかよ。それで…。まるで俺の手柄みたいにして」
「政治だと思えばいいのよ。悪評の立っている私より、王太子と距離の近い貴方が事件を収束させたと言った方が皆、納得するわ」
「政治だなんて。そんな言葉、口に出した事すらなかったくせに。それに姉さんは殿下の婚約者だろ!」
「名ばかりのね」
「姉さん…」
「私もいつまでも子供ではない。そういう事よ」
ミルトンから距離を取ろうとした。しかし、
「だったらアレはなんなんだ!レイジーナとかいう邪術使いに見せたマゴスのチェーンは?」
弟は話を終わらせる気はないらしい。
マニエルの事件現場に落ちていたチェーン。マゴス信仰者であるレイジーナなら、その持ち主について何か知っているかもしれないと思った。確かに彼女は心当たりがあるような素振りを見せていた。
何より、急に態度を軟化させたのも気になる。
関連性を聞き出す前に彼女が息を引き取ってしまったのは悔しい。
すべてが後手に回っている気がする。だからと言ってあきらめるつもりはないけれど。
「ミルトンには関係ないわ!」
思わず、弟から距離を取ろうとして背中を向けた。このまま部屋まで走れば弟も諦めるかと期待した。しかし、立派な指でその腕を掴まれて、叶う事はなかった。
「関係ない事はない!クラヴェウス家の令嬢がよりにもよってマゴス信仰を象徴する黒薔薇があしらわれた代物を持っているんだぞ!」
「貴方は結局、私を信用していないのね」
ミルトンはハッとしてソフィアの手を離した。
「そんなつもりは…。俺は姉さんが心配で…」
ミルトンが?
この私を?
確かに目の前の弟は泣きそうな顔をしていた。ウソを言っているようには思えない。
「別に私がマゴスを信仰しているとかではないの。だから、安心してちょうだい」
「だからそうじゃない!」
ミルトンは感情の爆発を抑えるように自身の髪をかき乱していた。
その言動一つがソフィアには理解不能だ。
「ああ、クソッ!マニエルにも言われたのに…」
「マニエル?」
「いや、何でもない」
「そう…。なら私は部屋に戻るから。もう夜も遅いんですもの、ミルトンも早く休みなさい」
今度こそ、部屋に帰れると思った。
しかし、後ろからミルトンの腕が鎖骨へと伸びてきてやはり無理だった。
今の体勢は完全に弟に抱きしめられている状況だった。
ちょっとどういう状況よ!
背中にミルトンの温かい体温が伝わってくる。
「ごめん…」
謝罪の言葉が小さく聞こえてきた。
「ミルトン?」
すすり泣く弟の声も漏れてくる。
「ずっとどうにかしなくちゃって思ってたんだ。おばあ様の姉さんへの態度も…」
ソフィアを抱きしめる弟の腕がさらに強くなる。
「気にする事はないわ。これはおばあ様と私の問題…」
「前みたいに俺を責めればいいだろ!」
そんな風に思っていたの?
確かに以前のソフィアの感情を推測すれば、自由にしている弟を責めていたというのはあながち間違いではない。
「ミルトンは私に責められたいの?」
「変態みたいに言うなよ」
「でも貴方の発言はそう聞こえるわよ!それとも当たり散らしていた頃の私の方が都合がよかったって事かしら」
「なんで、姉さんはそう捻くれてるんだよ」
「意味の分からない発言をしてるのはそちらでしょ!」
「だから、俺は…」
「俺は?」
「昔みたいに普通に接してくれよ!」
目の前にいるのは本当にあのミルトンなの?
ゲーム内で姉を断罪する男。ソフィアにとっては冷酷な王太子の側近だったけれど、紛れもなく彼女の可愛い弟。そして、その彼をイジメたのもかつての自分だ。
仲直りなど絶対に無理だと思っていた。その相手が懇願している。まるで小さな子供のようにあどけない。そんな感情を今のソフィアは味わっていた。
「ミルトン…」
「もう、聖女になるのなんてやめてしまえよ」
まさか、その言葉を弟から聞く事になるなんて。
彼にとってはやっと絞り出した音なのだろう。
けれど、ソフィアにとっては限りなく重たい意味を持つ。
以前のソフィアはそれが出来ないから苦しんだのに…。
この弟はおばあ様が孫娘を聖女にするのを諦めると思っているのかしら?
私が聖女にならないとキッパリ、あの女当主に宣言すれば、聖女教育を辞めるとでも?
ソフィアは何とか逃げるために学院の門を叩いたも同然なのに…。
それでも彼女は抜け出せずにもがいていた。
しかし、それすら過去だ。今の私は本物の聖女を知っている。
そもそも聖女になる気すら一ミリもないのだ。
むしろ親友を…聖女を殺した犯人を見つけ出すために長い間、頭を悩ませた祖母すら利用しようとしている。そんな女なのだ。
だから、弟の的外れな言葉にすら思わず笑いが漏れた。パトリック王子の優秀な友人であるミルトンも女心は掴み損ねるらしい。この場合は姉と祖母の心であるが…。
「なんだよ。何か変な事言ったか?」
弟は自分の発言の意味に気づいていない。それでもいい。
私にはとても効果的でもあるのだ。ゲームの彼はマニエルにとってのヒーローだった。ピンチになれば、必ず助けてくれる。そして、彼もマニエルに助けられ、愛を育む存在。
しかし、ソフィア…今の私にとっては人生経験の浅い若い青年なのだ。
そのすべてが可愛く感じる。精一杯の思いやりが心を包んでいく。
「ありがとう。なんだか気が緩んだわ」
「はあ?」
「悪い意味ではないのよ。大丈夫。ミルトンが思ってるほど、思いつめてはいないから。それにこのチェーンはね。手がかりなのよ」
「手がかり?」
「でも教えてはあげない」
「おい!ここに来てそれは…」
「そうね。機会があればね。でも、今はダメよ」
ソフィアは愉快そうに微笑んで今度こそ、自室に足を向けた。
弟は言うと呆気にとられた様子でその場に立ち尽くしていた。
ミルトンをからかうのは少し面白いわ。
でも、本当にそろそろ限界だわ。
ふらつく体に何とか力を込めて、妙に重厚な作りの扉に手をかけた。
開かれた先には慣れ親しんだ寝室。シエラがベッドを整えていた。
「ありがとう…」
「いえ…。もうお休みになってください。顔色がとてもお悪いです」
そう言って、支えるシエラの手は震えていた。
いつ用意したのかソフィアの頬に冷たい布を這わしていく。
「気持ちがいいわ」
「私にはこんな事しかできませんから」
今にも泣きそうなシエラはやっぱり優しい子だと思った。
こんな欠点だらけの私に嫌味一つ言わずに仕えてくれる。
本当によくできた侍女であり、友人だわ。
「もう休んでちょうだい。ご苦労様」
「はい…」
小さく頭を下げて、シエラは部屋から出て行こうとした。
「ねえ…」
ソフィアの声にシエラは振り返った。
今日、私を守ってくれたシエラの動きは普通の侍女とは思えないほど俊敏だった。
まさにプロのナイフ裁きだ。どこでそんな芸当を身に着けたのか気になった。
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ。お嬢様」
シエラは優しく笑みを浮かべ、静かに部屋を後にした。
「聞く勇気はないな…」
一人残されたフカフカの布団の中で小さくつぶやいた。
シエラにも人に言えない過去があるのかもしれない。だからってそれを掘り起こしていい理由にはならない。
彼女が話さないならそれでもいいじゃない。
シエラが私にとって大切な友人である事に変わりはないのだ。
予定より早いけれど、後、数日滞在したら学院に戻ろう。
悠長にしている暇はない。
やる事は山積みだ。診療所の件もしかり、マニエルを殺した犯人の影すら見えない。何も掴んではいないのだ。
「必ず見つけ出すわ!」
決意は変わらないのだ。何があっても…。