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第38話 不和なるマゴス讃美歌

領都エインセルではごく普通のアパート群の一室で男がもだえ苦しんでいた。


「あなた!」


妻は変わり果てた夫に縋りついたが、払いのけられる。まだ、幼い子供達が母に駆け寄った。

はつらつな笑顔で店に立つ父が好きだった。でも、最近は客足も減って辛そうにしていた。

それを家族に話す事はなかったけれど、寂しそうな表情を見れば分かる。


だから、願い人形を手に入れたの。母さんに無理を言って買ってもらった。

父は嬉しそうに受け取ってくれたのに…。

何がいけなかったの?


この瞬間も父は焦点の合わない瞳を天井に向けながら、得体のしれない言葉を繰り返していた。

その内容をここにいる者は誰も理解できない。


「どうして?」


3人いる子供の中で一番年長の少女はつぶやいた。


父とまともに話した日が遠い。

そのたくましい腕が黒く染まっていく。

その体に細くねじ込んだ藁のような無数の線が食い込んでいる。

得体のしれない何かに父が飲み込まれそうになっている。なんとなく直感した。


「父さん!」


少女は駆け出した。だが、父が馬乗りになってきて、少女の首を絞めあげた。

優しい父だった。だが、目の前の男は別人だ。悲しくて、涙がこぼれていく。


「おやめなさい!」


突然、小さな部屋の中に凛とした女性の声が響き渡った。

その瞬間、首にかかっていた圧迫感が解き放たれる。


父は身なりのよい若い男に取り押さえられていた。


「大丈夫?」


微笑む紫色の瞳を持った女性はとても綺麗だった。


「聖女様…」


思わず口走った言葉に女性はどこか悲しげに首を振った。

女性が否定しても少女は信じない。

だって、こんなに綺麗な人を見た事がなかったから…。


「シエラ…彼女達をお願い」


別の女性がどこからともなく現れて、ちょっと驚いた。

もしかして、東の国にいるとされるシノビだったりするのだろうか?

この人達は一体誰なんだろう。


父が大変だというのにそんな呑気な事を考えていた。




呻く男を視界に捉えて、推測が確信に変わった。

邪力が最も強い部屋に来てみれば、今まさに訪ねようとしていた男性の家だったとは…。

棚に並ぶ写真には屋台が映っている。お酒の数も多い。


「おい、この男かなり力が強いぞ」


ミルトンは限界に来ている様子だった。

まあ、剣というか魔法以外の力はちょっとポンコツなのよね。

そういうところが可愛いとゆいなは話していたっけ?


前世の光景に少し笑いが漏れた。


「そりゃあ、ある意味邪力に魅せられた人間だものね。マゴス讃美歌を口走っている人なんて初めて見たわ」


マゴス讃美歌――

マゴスを褒めたたえる歌。その歌詞自体に邪力が込められているとされ、マゴス信者ですら解読する者は少ないだろう。


「だったら斬るしかないな」

弟の物騒な発言に男性の家族と思われる女性と5歳前後の3人の少女達が顔色を変えた。


言葉を選ぶという配慮はないの?

我が弟ながら、恥ずかしいわ。


「物騒な事言うんじゃないの!首都ですら、聖水で症状を抑える治療法が推奨されているのに」

「ここに聖水はないだろ。姉さんは使い物にならないんだし…」


こんな時まで喧嘩売る気!


口が滑ったという表情している分、まだ悪気はあるみたいね。


「私に力はないけれど、聖女の魔具は持っている。でしょ?」


腕の飾りを見せれば、ミルトンは黙る。


「彼を抑えてて…」

「聖女の魔具を使うのは分かったが、マゴスの闇に落ちた者を救い上げるのは無理だろ。聖女じゃないんだから」


ほんと、うまいぐあいに煽ってくるわね。


「その点は心配ないわ。彼は願い人形を触媒とした邪術の餌にされているだけだもの」

「やっぱり、願い人形のせいなの?」

「こら。ハル!」


母親の足にしがみつく少女は涙を浮かべていた。


「私のせいなの。父さんにあげたから…」

「違うわ。貴方の善意を悪用しようとした連中がたまたま居ただけよ」


願い人形――

人形に邪力を封じ込め、人の欲望を糧として魔物を創造する禁忌の術。魔法と相反する邪術に分類されるそれを用いた事件はゲーム内でも描かれていた。

首謀者はマゴス讃美歌を操るマゴス信奉者。その動機は確か地上を邪力で満たせば、マゴス復活が早まると思ったと語っていたはず。

しかし、ゲーム内で事件が起きるのは首都だったし、マニエルが華麗に解決する。

けれど、彼女はいない。私がここで失敗したら、娘たちから父親を奪う事になる。


ソフィアは男性の頭に手を置いた。


ゲームの記憶を頼りにするなら、人形に込められた邪力はそれほど強い物ではない。

マゴスを称えるマゴス讃美歌を練り込んだ人形に微量の邪力が漂っているだけ。

だから、人形を手にしたすべての人が魔物を出現させるわけではない。

そして、餌として適正を見せた者もマゴス讃美歌を唱え続けなければ魔物の出現に必要な邪力の量を確保できないという欠点がある。

故にこの人形に仕掛けられた邪術は触媒となった人間にマゴス讃美歌を唱え続けるというなんとも地味な物だった。


マニエルは語っていた。

人形とリンクした人の頭にはマゴス讃美歌がこだましている。だから、そこに別の音を流してあげれば消えると…。


つまり、マゴスとは異なる女神の魔力を流してやればいい。

私一人の力じゃ無理だけど…。


「ミルトン。力を借りるわよ」


男性に添えていない手でミルトンの腕を掴んだ。


「何するんだ!」


ミルトンの問いに答えるようにソフィアの腕に付けられたブレスレットは暖かな光を放つ。


「さあ、戻ってきて」


極力、優しい声になるように心掛けた。

体中に痛みが走る。やはり、魔力の強いミルトンの力を借りてもその影響はソフィアを蝕んでいく。

マニエルは簡単にやっていたのに。

口に広がる鉄の味を感じながら、集中した。


「姉さん!これ以上は…」

「後、少しよ」


意識が遠のきそうになった。



『きっとできるよ』



ゲームクリアに苦戦していた私にゆいながかけた言葉が流れてきて視界が戻る。


「ホーリー・シフト!」


ソフィアの叫び声と同時に部屋中の物が中に浮き、再び定位置に戻った。

静まり返る空間の中で、彼女とミルトンの息遣いだけがかけていった。

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