オリビア令嬢からの協力は取り付けられた。
彼女に別れを告げ、馬車へと戻る足取りは少し軽かった。
「あの、お嬢様…」
「なあに?」
「本当にオリビア様と診療所をお開きになるおつもりですか?」
「そのつもりよ」
「ですが、大奥様に知られたら…」
シエラの問いに祖母の説得という単語がちらつき始めて今度は胸が重くなった。
後見人たるアン・クラヴェウスの許可なくして、事業を開く事はできない。
ブティックを買い取った事は、オーナーの不祥事で困った親子を助けるためだと言い訳はできる。
おばあ様はそういう心優しき聖女がやりそうなことを好む方だから。
しかし、診療所はわけが違う。未だかつて貴族が平民向けの病院を開設した例は記録にない。
全く、ゲーム世界だから福利厚生設定がガバガバなの?
それとも単にこの国が腐っているのか。
さらに言えば、魔法絶対主義が根付いているためか、人々は治療行為を行う者達は全員その手の癒す魔法を身に着けた者であるという前提にも立っている。特に貴族は最たる物だが、かといってそう言った特殊な魔法を学ぶ場所も整っているとはいえない。
そんな中で、いわゆる“魔法使い”のいない診療所を開設すると宣言したら、おばあ様はどんな顔をなさるのか。怖いような、けれど興味もわいてくる。
私、意外と性格悪いのかもしれないわね。
「心配しないで。何とかなるわよ」
「お嬢様はやはり変わられました」
「そうかしら?」
どこか探るようなシエラの視線にいたたまれなさを感じる。
中身がほぼ丸ごと変わってしまったのだから、他者の印象が異なってしまうのは仕方がない事よね。
そう自分に言い聞かせながら、歩みを進めた。
別に悪い事はしていないのに、どうしてか後ろめたい。
「ええ、なんだか活き活きしておられます」
「冗談じゃないわ。そんな事あるわけないじゃない!」
思わず大きな声が出てしまう。
「ごめんなさい。早く戻りましょう」
活き活きしてるだなんて、まるで、充実感を味わっているみたいじゃないの!
ありえない!ありえないわ…。
確かに、オリビア令嬢と約束を取り付けられた事は嬉しい。
認められた気がした。だけど、それだけよ。
この世界のヒロインはマニエルなのよ。
その彼女がいないのに、幸せになっていいわけない。
考えを切り替えたくて、馬車の扉を開けた。
一休みすれば、落ち着くと思ったのに…。
「やあ…」
ファンシーな装いに包まれた馬車内にこれまた絶妙に馴染んでいる美青年が腰掛けていた。
どうしてミルトンがここにいるのよ!
ソフィアは弟の登場に悲鳴をあげそうになった。
「何をしているの?」
「ヘカピュロス領内に入る姉さんの馬車を見かけたからさ」
「だから乗り込んできたと?」
「失礼だな。ただ一緒に帰ろうと思っただけだよ」
ソフィアを毛嫌いしていたミルトンの言葉とは到底思えない。
何か企んでるの?
ここで悩んでいても時間だけが過ぎていくだけね。
ソフィアは諦めたようにため息漏らす。
「屋敷に向かってちょうだい」
全く、ただでさえ、これからおばあ様と対峙しなくてはいけないというのに、向かい合った弟は不愛想に外を眺めているだけで、その考えが読めない。
静まり返る空気にいたたまれなさに包まれる。
本当に意味が分からない。
「この辺り、来た事なかったか?」
唐突に口走ったミルトンに釣られるように、窓の外に視界を向ける。
そこにはひまわり畑が広がっていた。
言われてみれば、大昔ピクニックをやった気がする。
「よく覚えてたわね」
私はこの瞬間まで忘れていたわ。
「そりゃあ、あの頃は…」
そこでミルトンは唇を閉じてしまう。
そうだ。あの時はお母様もお父様もいた。もちろん、ミルトンもいた。
思い出の中の家族は皆笑っていた。けれど、今の私達にとってはつらい記憶でしかない。
あの後、すぐ両親は亡くなってしまったのだから。
すべてが壊されるように姉弟仲も急速に悪化したのも同じ頃だ。
思えば、こんな風にミルトンと二人きりなったのはいつぶりだろう。
私より背が低かった弟は立派な青年に成長した。さすが攻略対象。
姉が言うのもあれだがイケメンである。
しかし、目の前のミルトンはどこか緊張している様子だった。
しきりに虹のシンボルが印象的なハンカチで額の汗をぬぐっている。
口は半開きになったり、閉じたりと忙しい。
言葉を発したいのに、うまく紡げないような様子だ。
その顔は幼いころ、ソフィアが大切にしていたカップを壊してしまった時と同じだった。
謝りたいけれど、素直に謝りたくないという少年の葛藤が見え隠れしている。
もしかして、私と仲直りしたいの?
ソフィアを毛嫌いしていたはずの弟に一体どんな心境の変化が?
マニエルの死が原因?
これはソフィアにとってはミルトンを…家族を取り戻せるチャンスかもしれない。
だけど、おばあ様に自由にさせてもらえる彼が羨ましくて憎くて仕方がなくて、傷つけたのは取り消せない。こんなのムシが良すぎる。
「無理に私と話す事ないのよ」
「何!」
「私の事が嫌いなのでしょう?」
「いや…それは…」
ミルトンは言葉に詰まり、その視線は彷徨っている。
頭の中で考えをまとめているのか、手を強くさする様子は小さな子供のようだ。
だが、次の瞬間、同じ色の瞳には強い意志を感じる。
ソフィアはその事にひどく動揺した。
「屋敷が見えたわ」
これ以上、弟と話す気はないと言いたげに大げさに屋敷に目をやった。
私は彼が知る姉ではない。そして、近い未来、消える身。彼の人生にこれ以上、踏み入ってはいけないのだ。