『アンは…令嬢のおばあ様はとてもお優しい方でした』
ハムフェリー司祭から聞いたおばあ様の昔の印象はソフィアのイメージとはかけ離れていた。
厳格で他者を寄せ付けないオーラを持つ怖い人ではなかったことは本当なのかしら。
でもそんな事、私にはどうでもいい。
そう、何度も心の中で言い聞かせてもざわつきは収まらない。
「全く、私は何を求めてるのかしらね」
思わずついて出た自身の言葉にソフィアは苦笑いを浮かべるしかできなかった。
おばあ様にもあったであろう美しい少女時代について考えたって意味はないわ。
私の知っているあの人は聖女に固執した妙齢の女性なんだもの。
夏休み前夜までは生徒達の賑やかな声が響いていた寮も静まり返っている。
どうやら実家に帰省する生徒はソフィアが最後なのだろう。
正直、このままここに残ってマニエルの件を調べたいけれど、おばあ様に変に勘繰られて強制的に家に連れ戻されても困るものね。戻るなら自分の意志がいい。
「お嬢様、準備が出来ました」
「ありがとう。私も出られるわ」
以前のソフィアなら実家に帰るというだけで萎縮しただろうけれど、私は違う。
前世の人生を入れれば、アン・クラヴェウスと同年代の女性ですもの。
ソフィアは颯爽とスカートを翻して、部屋を後にした…。
そこまではよかったのだが、
「うっ!」
この世界の主な交通手段は汽車か馬車だ。
貴族となると後者が主である。
「顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
「ちょっと酔ったみたい…」
「大変!すぐ馬車を止めなさい!」
シエラは慌てた様子で、顔を外に出して大声で叫んだ。
そして、慣れた手つきでソフィアの胸元を緩めた。
「珍しいですね。お嬢様が酔うなんて」
以前のソフィアにとっては日常だったのだろう。
けれど、現代人の記憶を思い出した身としては馬車の乗る事自体、非日常なのだ。
学院と中心街へ向かうだけの短い距離ならまだしも、長時間も硬い椅子に座らされて絶妙な感じに体を揺さぶる振動は気持ち悪さを増幅させる。
「領地までもう少しですが…」
「少し休めば、落ち着くと思うわ…」
ソフィアは青白い顔を外に出して、息を思いっきり吸った。
ああ、いい気持ち。瘴気が薄い空気を味わうのは久しぶりだわ。
視界には草原が広がっていた。すべてが懐かしく、この世界ではもはや珍しい光景。
あの薄暗い地下で、明日の命の心配をする人達だっているのに…私は恵まれすぎてるのかもしれない。彼らの力になると約束したのに、その方法一つ見つけられないなんて…。
「今はどのあたり?」
「ヘカピュロス高原を超えたあたりです」
ヘカピュロスはクラヴェウス家の領地とそれほど離れていない。自然豊かな森に囲まれ、豊かな土壌が広がっている事で有名だ。元々はソフィアの一族が管轄していたが、何代か前に武勇を称えられ、その地と同じ名を与えられた男に褒美として譲渡された。現在、その子孫は男爵家として、存続している。
以前、お茶会で顔を合わせた女性の実家ね。その時のソフィアは彼女に対して、とても失礼な態度を取ってしまった。その時の光景を思い出して自分を恥じた。
そう言えば、彼女は医学を志していたはず…。
ソフィアに何度バカにされようとも、医学書を握りしめていた女性の瞳には闘志と力強さがみなぎっていた。何より、彼女について思い出した事がある。
もしかしたら、ユウ君たちの力になれるかもしれない。
「少し寄り道をするわ」
「えっ!どちらに?」
「ヘカピュロス家の領地を通るんですもの。挨拶は必要だと思わない?」
「今更では?そもそも、この道中、どれだけの所領を超えてきたと…」
「まあ、細かい事は気にしちゃダメよ」
言い切ったソフィアの額をシエラは手で押さえてくる。
「最近のお嬢様はどこかおかしいですわ。何か変な物でも食べられたのでは?」
「心配しないで。私は至って正常よ」
二コリと笑うとシエラは何た言いたげな顔を引っ込めて、馬車にヘカピュロス一族のお屋敷に向かうように伝えた。
「急に行っては失礼にあたるだろうし、先に伝文を送って頂戴」
シエラにかぶせるように、ソフィアは付け加えた。
我ながら、素早い判断を下せた。いえ、そう思いたいだけかも…。
何より、彼女はソフィアにいい感情は抱いていないはず。
この申し出を受けてくれる保障はないばかりか、追い返されるかもしれない。
この世に及んで、以前のソフィアのストレスのはけ口が他人を貶す事しかなかったことが悔しくてならない。
それでもやるしかない。きっと彼女は私よりも寛大な人だとそう信じて…。
ヘカピュロス家の屋敷は自然の中に突然現れたような、穏やかな土のにおいが立ち込めていた。
素朴で落ち着くと言った印象を受ける。だが、現れたこの家の主はそれと真逆のオーラを放っている。あくまでソフィアの感想であるけれど…。
「ヘカピュロス卿、この度は急な来訪を受け入れてくださりありがとうございます」
ソフィアは恰幅の良い男性に完璧な所作で挨拶した。
「何をおっしゃいます。クラヴェウス公爵令嬢様ならいつでも歓迎いたします」
目の前のヘカピュロス男爵は一見すると人好きしそうな穏やかな笑みをたたえている。
それが本音かは謎だが、長い間社交界でパッとしなかったヘカピュロス家を一代で名のある貴族に押し上げたのは紛れもない事実だ。領地内で育てた作物の多くを輸出する事で財を成し、今では多くの貴族にお金を貸し付けているという噂もある。
「かしこまらないでください。今日はオリビア様に会いに来たのです」
「オリビアに?あの子が何か粗相を?」
「いいえ、まさか」
「すぐに呼んでまいります」
男爵は控えていた使用人に向き直ったが、誰もが困惑したように首を振っている。
この屋敷の誰もが彼女がいる場所を把握していないのだ。
「ご心配には及びません。オリビア様の居場所は分かりますから」
ソフィアは足早に男爵に背を向けた。
身に着けている靴も服もアクセサリーもどれも上等の物だ。しかし、正直、センスがいいとは思えない。成金感をまとった男。
自分の娘が以前のソフィアに何をされたかぐらい耳に入っているはずなのに、男爵からは何の感情も伝わってこない。
手紙を送った時点で、破り捨てられる覚悟もしていたのに。
いくらクラヴェウス家を敵に回すのが得策ではないとしても、今のこの男なら上手く渡りあえるだろう。ああして、ひたすらソフィアの顔色をうかがう必要もないはずだ。
頬を優しい風が刺さっていく。
ある意味でオリビアの天敵だった私が言うのもおかしな話だけど、虫唾が走るわね。