ソフィアの耳に鳥の羽音が通り抜けていく。
そして、時刻を知らせる鐘の音色も…。
何千年とそこに立っているであろうイーディス寺院の白い壁は夕日に照らされてほんのり赤く染まっている。
もうマニエルのお葬式は終わってしまったのね。
本当はすべてが終わるまで、来る気はなかった。最近埋められたばかりの黒っぽい土は何も答えてはくれない。数日もすれば、マニエルの名が刻まれた墓石が置かれる事だろう。
次にここに来るのは、すべてが片付いた後だ。
「その時にはお花を持ってくるわね」
ソフィアは寂しげに微笑んだ。そうして、振り返り静かに寄り添ってくれる少女に視線を移す。
「ごめんなさい。今日はずっと連れまわしてしまって…」
申し訳なさそうに頭を下げるソフィアにシエラは必死に首を横に振った。
「やめてください。私はずっとそばにいますから。だから、そんな顔をなさらないでください。お願いです…」
本当に優しいんだから。シエラにはこの先も幸せになってほしい。
私がいなくなった後まであの家に縛られる事はないのだから。
「アン?」
背後から男性の声が聞こえてソフィアは驚く。何せ、相性の悪い祖母の名前を呼ばれたのだ。一瞬背筋が凍り付いた。息を整えて振り返れば、そこには祭服を身にまとう初老の男性が立っていた。
「これは失礼しました。故人を偲んでおられたのに…」
男性はばつが悪そうに頭をさすった。
「いえ…あのハムフェリー司祭様ですよね。マニエルは…ここに眠る彼女は故郷に埋葬されなかったのですね」
「ご家族の願いです。故郷の地は闇に汚染されつつある。そんな場所に娘さんを置いておけないと…」
「ありがとうございます。本来、教会で眠る事が出来るのは教区の者だけでしょう」
「彼女のような純粋な魂を無下に扱う事はできません」
「司祭様はマニエルをご存じで?」
「ええ。教会の炊き出しによく顔を出していましたから」
「マニエルらしいです」
「貴女様はご友人で?お葬式には見えられなかったようですか?」
「私に彼女を見送る資格はありませんから」
「えっ?」
「なんでもありません。私はソフィア・クラヴェウスと申します」
「やはりそうでしたか。公爵令嬢様」
深々と頭を下げる司祭。
「頭をあげてください。公爵といえど、同じ人ではありませんか」
「似ておられますね」
司祭は懐かしそうな瞳を向けてくる。
やっぱり、この人がさっき呼んださアンという名前は…。
「もしかして、おばあ様をご存じで?」
「ええ。古い友人ですよ。もう何十年と会っていませんが…。ソフィア様はお孫様でいらっしゃるのですね。アン…。いえ、公爵夫人はお元気であられますか?」
「はい…」
私がおばあ様に似ていると言われる日が来るなんてね。
「クラヴェウス家を立派に守っている女主人の面影があるのは嬉しいですわ」
内心皮肉のつもりだった。
「女主人ですか。歳を重ねたものですね。私の中のアンは…」
だが、司祭はその意図を汲んでいるようには見えず、思い出に浸っている様子である。
「おばあ様はどんな方だったのですか?」
「ソフィア様に話せるような事は…」
「そんな風におっしゃらないでください。おばあ様は昔の事はあまりお話になりませんから…」
「そうですね。アン…彼女は…」
自ら話を広げたくせに、地雷を踏んでしまった事にひどく後悔した。
司祭からもたらされた言葉はソフィアにとって苦痛を伴うだけだと直感したのに…。
ファルボー家の別邸は首都郊外にひっそりと建っている。
貴族の屋敷としてはかなり質素な作りで煌びやかさはないが、何百年と一族の繁栄とその衰退を見守って来た歴史ある面持ちを感じる。
仕えてくれる数名の使用人たちの顔も幼いころから見知った仲だ。
「坊ちゃま…」
大きな本棚以外は目立った装飾もない自室に年配の男の声が漏れた。
「アンベル。いい加減その呼び方はやめてくれないか?俺ももういい年なんだぞ」
「いいえ。私にとっては何歳になろうとも可愛い坊ちゃまです」
執事服がいたについているアンベルは表情一つ変えずに言い放った。
「そうか…。なら、まあいい」
不服ではあるが、ほぼ親代わりのアンベルにカデリアスはこれ以上言い返せる気は起きない。
「ところで、いいことでもあったのですか?」
「これまた唐突な質問だな」
「嬉しそうな坊ちゃまは久しぶりに見ましたから」
「嬉しそうか?」
「ええ。それはもう、頬が緩みっぱなしです。そのようなお顔を見るのは幼少期の頃以来かと…」
「おいおい、さすがにそれはないだろう。俺にだって楽しみぐらい…」
ちょっと待て。よくよく考えたら、警察本部と屋敷を行き来する日々しか思いつかない。
この部屋に埋め尽くされた本はもう何年も前に読み終えてしまった。
思わず苦笑いがこぼれた。自分への嫌味なのか、同情なのか正直分からない。
だがここ数日、心が軽やかなのも事実だ。
「最近、職務に前向きに取り組めているからかもな」
「ほお~。それは興味深い。いつも眉間にしわを寄せている方とは思えないですな。てっきり素敵な
ご令嬢とお知り合いになったのかと…」
アンベルの言葉に思わず、カデリアスは持っていたグラスを落としそうになった。
思っている以上に動揺しているらしい。
「やめてくれ。俺が色恋沙汰とは無縁な事ぐらいお前だって知っているだろう」
「何をおっしゃる。坊ちゃまがパーティに出れば、女性たちが色めき立つ光景は何度も見てきましたよ」
「見惚れるのと愛し合うのは別だと認識していたのだが?何より、下手に中枢に食い込むのは危険だろう。いくら表向きは平凡な男爵家を装っていても、俺達の正体が知られれば、一巻の終わりだ」
「旦那様でしたら、その容姿を使って格上の貴族の令嬢を落とせば、悲願の足掛かりになるとおっしゃるでしょう」
「勘弁してくれ。順調に出世しているんだ。わざわざ、賭けに出る事はないだろう」
「ご心配なされるな。旦那様はやり方は坊ちゃまに任せるとおっしゃっています。お好きになさいませ」
透き通ったガラスに映り込む微笑みをたやすアンベルの瞳が怪しく光った事を見逃さなかった。
この男はカデリアスに忠実だ。必要ならば、命すら差し出す。しかし、その後ろにいるのは親父たちだ。もし、あの令嬢の事が知られれば、必ず利用するように働きかけてくるのは目に見えている。
この芽生えた気持ちを誰にも知られるわけにはいかない。健気な彼女の身を守るためにも…。
「ああ、言われなくても好きにさせてもらう」
とはいえ、マゴスの脅威にさらされたこの国で一族の本願が叶うかどうかは疑問だがな。
カデリアスは気持ちを飲み込むように赤ワインを流し込んだ。