「レディ…足元に気をつけてください」
自然な流れで差し出されたカデリアスの手を握り返すソフィア。
カデリアスの困惑した声が漏れてくる。
「怪我をされているのですか?」
そこで自分の手が赤く腫れている事に気づいた。
立て続けにブレスレットの力を使ったのだ。
思っていた以上に体に負荷がかかっていたのかもしれない。
そう認識した途端、重力に意識が持っていかれそうになる。
「お嬢様!」
シエラの叫び声が遠くに聞こえる。倒れると思った。
だが、いつまでたっても衝撃は訪れない。
変わりにヒノキの香りに包まれた暖かな感触が頬や肩、肩を伝っていく。
「レディ…大丈夫ですか?」
心地よい重低音が背骨を通り抜けていく。自分がカデリアスの腕の中にいる事に気づく。
彼の心配そうな視線に胸が思わず高鳴りソフィアは慌てて体を離した。
「大丈夫です!」
頭から足の先まで自身の温度が10度ほど上がった気分になる。
こんな事で動揺するなんて!
私ってもしかして、ちょろいのかしら…。
でも、仕方ないじゃない。男の方と触れ合ったのは久しぶり…。いや、この体では初めてだし、ソフィアは初心な少女なのよ。パニックになっても誰も責められないわ。
ソフィアは頭の中で何とか冷静を取り戻そうと必死になっていた。
そんな中、カデリアスはソフィアの手を握った。
「ちょっと…」
ソフィアの反論をよそに彼は懐から小さなボトルを取り出し、透明の液体を赤く腫れた手のひらに落とす。冷たい感覚と小さな痛みが駆け巡っていく。
「傷を甘く見てはいけません!」
「あら、お優しいのですね」
軽口を叩いてみても、彼の瞳は寂しそうな色をしていた。
「ご自身の体を蔑ろにしすぎでは?」
それほど見知った仲ではない自分に本気で怒りを表しているカデリアスにソフィアは驚く。
そう感じるだけで、彼は誰に対してもそうなのかもしれない。ソフィアは芽生えた喜びを押しとどめようとした。その間にもカデリアスは慣れた手つきでハンカチを傷口に巻いていく。
「このような場所に出向かれるのも危険とも承知で?」
「それはこちらのセリフです。貴方こそどうしてここに?」
「私は刑事ですよ。被害者…マニエル嬢と容姿のよく似た少女がこの辺りで目撃されているのを聞きつけたものですから」
「仕事熱心でらっしゃるのね」
「それは褒めていただいているので?」
「もちろんですわ」
ソフィアは思わず笑みをこぼした。
警部の探るような、けれど悪意のない言葉はなぜか心をほぐしていく。
傍から見れば、気のある男女が談笑しているようにしか見えない。
現にそばに控えているシエラは面白そうにこの先の展開を楽しんでいる素振りである。
だが、ソフィアは別の思惑がうごめていた。彼との会話は楽しい。けれど、本音を引き出されそうで怖い。こちらが丸め込まれているような錯覚に陥っていた。
「お姉さん!」
背後から少年の叫び声がその場の雰囲気を変えた。
「ユウ君?」
「僕の名前、覚えてくれたんだね」
「ええ。でもどうしたの?上がってきて大丈夫なの?」
「お姉さんの名前、聞いてなかったから」
ユウは無邪気な笑顔で言った。
「私はソフィアよ」
「ソフィアお姉ちゃん…。ありがとう。名前覚えてるからね」
ユウは再び階段を降りていった。
瘴気にあてられた人が地下に逃げ込んでいるのは太陽の光が大敵である事も一つだ。
その症状を悪化させる要因にもなる。
だからこそ、彼らを異凶の怪物に魅せられた者達だと揶揄する連中が後を絶たないのだ。
マニエルはユウ君たちにとっても救いの神だったのに…。
思わず、表情に力が入る。
「その様子では事件を私に任せてくれる気はなさそうですね」
カデリアスは自身の頭にのった帽子に手を置き、ため息をついた。
「当然です。警部さんがいい人なのはわかりましたけれど、他の警察官が同じとは限りませんでしょう。何より地下の目撃証言は上級市民を示している。真実が闇に葬られるなんてよく聞く話ですもの」
「だから、レディがやると?貴方もその”上級市民”なのですよ」
「それを言うと警部さんもでしょう?仮にも貴族でらっしゃる」
「ですが、影響力はありません」
「私もありませんわ」
王族に次ぐ公爵家に生まれたとはいえ、社交界にもほとんど姿を見せないただの少女だって事ぐらいあえて、言われなくても身に染みている。
「それがお分かりなら、もうおやめになるべきです。それこそ、赤子の手を握るように消されてしまうかもしれません」
「それはやってみなければ分かりませんでしょう」
私に考える暇などないの。どうせ、未来などない女だもの。
「ここで話していても時間の無駄ですわね。警部さんこそ背後にはお気を付けを…」
ソフィアはまだ何か言いたげなカデリアスを残して、散髪屋を後にした。
颯爽と立ち去っていくソフィアの後ろ姿をカデリアスは眺めていた。
本当に目の離せない女性だ。明らかに貴族令嬢の面持ちなのにどこか庶民的な雰囲気を漂わせている。
会うたびに印象が変わって面白い人だ。
だからこそ、血なまぐさい世界に足を踏み入れてほしくはない。
本来、俺のような闇に生きる者とは相いれない女性なのだ。
それでも、歩みを止める事はないのだろう。何より、目撃情報を頼りにするなら貴族が絡んでいる可能性が高い。彼女が語るように上層部の腰はますます重くなる。
現に未だカデリアスがこの件に首を突っ込んでいると署長に知られれば、厄介な事になる。
いや、権力にしがみつくあの署長には小言をこぼすぐらいしか力はない。
もっと気をつけなければならないのは実家に俺の動向が知られる事だ。
『何としても、王宮中枢に入り込むのだ。いいな』
父の威圧的な言葉が頭の中を駆け巡る。一族の人間にそぐわない動きをしていると思われれば、その息のかかった者が送り込まれてくるはずだ。連れ戻されるだけならまだいいが…。
それで済むかは怪しい。
全く、いつまでこんな生活を送らなければならないんだ。
同僚や部下たちだって似たようなものだ。
どいつもこいつも自分の保身や野望ばかりを押し付けてくる。
しかし、あの令嬢は違う。無残に殺された友人の無念を晴らすために自分の命すら投げ出そうとしている。だから助けたいのだ。
何より、警察官としての誇りを失いたくもない。
俺は被害者とその家族の悲しみと嘆きも垣間見た。
だからこそ、街の奴らに片っ端から聞きまわって不確かではあるが、被害者に酷似した少女の情報を頼りにあの場所にたどり着いたのだ。
あの令嬢の方が一歩早かったのは想定外だったが、事件を解決するのは俺だ。
例え、この身が危険がさらされようとも…。