「ソフィア!」
突然名前を呼ばれて、ドキリとした。振り返れば、見知った瞳とぶつかる。
「殿下?」
現れたパトリック王子に驚きを隠せなかった。なぜなら、彼の姿は長靴につばの広い帽子に手袋。
ズボンは泥で塗れている。
どこからどう見ても一国の王子には見えない。
一瞬、そっくりさんかと思ってしまった。
だが、当の王子はというとそんなソフィアの心情をくみ取る様子もなく野菜達に近づく。
「もうしかして、この畑は殿下が?」
「ああ。もう一年になる」
「そんなに…。知りませんでしたわ」
「一目につかないようにひっそりとやっていたからな」
先ほどまで、ソフィアが触っていたトマトの隣で緑に輝くキュウリを慣れた手つきでパトリックは収穫していく。その姿はいつも見ていた無表情で感情の読めない彼とは別人のように穏やかだった。
「どうだ。食べるか?」
「えっ…ええ」
おそるおそる、キュウリを受け取ったソフィアは小さな口でかじる。
みずみずしいキュウリの水分が喉を通り抜けていった。
「美味しい」
この味…なんでだろう。すごく懐かしい。
胸の中がほっこりして、笑みがこぼれていく。
「よかった。お気に召してもらえて…」
目の前の青年は照れたように頬を染めていた。
こういう、年相応の顔もなさるのね。
「なんだか、不思議ですわ。今まで殿下とまともにお話した事がありませんでしたのに、お作りになった野菜をいただけるなんて…」
それはたわいもない言葉だった。嫌味なんてこれっぽっちもない。
けれど、パトリックの顔が曇った事にソフィアは気づいた。
どうしよう。私、何か失言を?
「俺も悪かった。君の事を誤解して、軽蔑していたとは…」
そう語るパトリックを諭すように、自身の口に人差し指を立て静かに息を吹きかける。
その動作は母親が子供をあやすようにも見える。
「仕方がありませんわ。私の態度が悪かったのは事実ですもの」
誤解も何も、正真正銘悪役令嬢だったんだけどね。
しかし、彼の中で私の評価が変わってきているのだからわざわざ否定しなくてもいいわよね。
「それに私、今とても嬉しいんですわ。殿下とお友達になれて…」
「ソフィア…」
これは本心からの言葉だった。マニエルに関する情報を少しでも知りたいという思いもあるが、ずっとすれ違っていた王子とこうして普通に会話しているのは新鮮で楽しい。
「なにより、そのような泥まみれの殿下なんて滅多に見られませんでしょうしね」
「これはまいったな。以前なら普通の人は入ってこれなかったんだが…」
「あら、それはまたどうして?」
「マニエルが結界を張ってくれてたんだ。かりにも王太子である俺が野菜作りをしているなんてバレたら笑い話にもならないからな」
別に王子が畑仕事をしたっていいとは思うけど…。
『パトリック王子は意外と庶民的なキャラなのよ』
突然、ゆいなの声が突き抜けていった。
どうして忘れてたんだろう。
パトリックルートの中にマニエルと野菜を育てるイベントがあったじゃないの!
王子は公務や周りからの重圧のストレスからいわゆる味覚障害を患っていた。
そんな彼の事を思って、マニエルは自然の中で育つ野菜の力に目をつけたのだ。
この畑は二人の秘密の場所だった。けれど、マニエルが死んだ事で、結界が消え、私の視界に入る羽目になってしまったんだわ。
「申し訳ありません。大切な場所に踏み入ってしまって…」
「いいんだ。俺にはこの場所を守る責任がある。何より、この野菜達を見ていたらマニエルの声が聞こえてきそうで…」
「殿下」
「すまない。婚約者である君の前で言う話ではなかったな」
「いいえ。私にも殿下の愛おしい方を偲ばせてください」
「ああ、きっとマニエルも喜ぶ」
本当にそうだろうか。イジメられていた彼女を助けなかった私を優しいマニエルは責めないだろう。
だからこそ、罪の意識が重くのしかかってくる。
『やっぱり取れたては美味しいね』
ゆいなだった頃の彼女も頬に土をつけながら収穫したキュウリを笑いながら頬張っていた。
そうよ。この手の中のキュウリの味はあの時の物とよく似ている。
だから、こんなにも心が揺さぶられるのね。
「ソフィア?」
心配そうにこちらをのぞき込むパトリック王子と視線が合わさる。
殿下の顔ってこんなに幼かったかしら?
その吐息もすぐそばで感じられる。その距離に驚いたのは王子だった。
「すまない!」
頬を真っ赤にして、距離を取る彼が健気に思えた。
純真無垢な少年そのものだ。
「そんな可愛らしいお姿を殿下の臣下方には見せられませんわね」
「からかわないでくれ」
「ご心配なく。この場所の事も今の殿下のお姿も誰にも言いませんわ。その証拠に結界は私が張り直しましょう」
「いいのか?」
「マニエルさんほど、うまくはありませんが、私はクラヴェウス家の者ですから」
正確には私ではなく、この聖女のブレスレットの力だけど…。
「それはありがたい。さすが、次期聖女とうたわれるソフィアだな」
感心する殿下と視線を合わせる事は出来なかった。
ただ、黙って微笑んでいた。
この不完全な肩書とも後少しの辛抱なのだから。