「ナサリエル…」
思わず、音になったその名にピアノの音色が止まる。
「失礼した。お見苦しい物を聞かせてしまいました」
「いえ…。思わず感動して…」
マニエルを偲ぶ演奏。
ナサリエルルートのエンディングでマニエルに披露した曲。
けれど、あの子はもういない。そう思うだけで堪えられなくなる。
涙が頬を伝っていく。咄嗟に扇で顔を隠した。
「令嬢?」
「なんでもありません。相変わらずピアノがお上手ですわね」
「うまいか…」
ぼそりとつぶやいたナサリエルははかなげにうつむく。
その場に沈黙の世界が広がってく。
この瞬間を誰かが目撃すれば、ソフィアが彼に突っかかっているように見えるのだろう。
どうしてだか、ナサリエル・ベンストックというこの男はソフィアの前では萎縮するのだ。
正直な所、彼にそれほど酷い事をした記憶はないのだけれど。むしろ、彼を助けたぐらいだ。
幼い頃、ナサリエルが鍋をひっくり返した事があった。その場に居合わせたソフィアが応急処置をしたのだ。大事には至らなかったが、彼の腕には大きな火傷の跡が残ってしまった。
それ以降、ナサリエルはソフィアと距離を取るようになった。
まさか、彼は私が火傷を負わせたと思っているのかしら?
それはとんでもない誤解だ。
そもそも、実家の宰相家のお屋敷の厨房に勝手に入ったのはナサリエルなのだ。
それなのにソフィアが責められる筋合いがどこにあるっていうの?
けれど、子供の記憶なんて都合よく書き換えてしまうという話もある。
ソフィアの悪評が印象付けられて、疑似記憶が植え付けられたと思えば、納得も出来てしまう。
そうだとするならば、ナサリエルにいくら弁明しようが、私を許すはずはない。
この芸術家の青年にとってソフィアは恐怖の対象でしかないのだ。
なぜだか、肩が重くなっていく。
「邪魔をしたわ。もう行きますから、続けてください」
「待って。そうじゃなくて…」
背中越しにナサリエルの息遣いがテンポ悪く流れてくる。
なんだか、申し訳ない気持ちになる。
「私が苦手なんでしょう。なら、無理しなくていいですわよ」
一人、マニエルへの想いを綴っていたナサリエルに悪い事をしてしまった。
せっかく、浮足立っていた足取りも重い。
マニエルが誰を一番想っていたのか、もはや分からないが、彼女にかかわった彼らはあの子を想ってその死を悲しんでいる。
それが分かっただけもホッとした。
そろそろ、他の生徒達も活動を始める頃よね。
生徒達の笑い声や雑談が大きくなっている。
しかし、それと同時にソフィアの中である疑問が湧き上がってくる。
そういえば、これでマニエルの記憶にあった青年達には全員会ったことになるのよね。
けれど、この聖女のブレスレットは誰にも反応しなかった。
「攻略対象の中には犯人はいないと言う事なの?」
彼らの中にマゴスの闇に落ちた者がいて、聖女であるマニエルを殺したのだと推測したのに…。
私の推理は外れたと言う事?
「そうよね。マニエルを愛する彼らが犯人なわけないわよね」
だとしたら、あの記憶の中に交じっていた邪力の気配はなんだったのだろう。
なぜだか、ソフィアの心は乱されるばかりだった。
また、足早に談話室を後にしたソフィアにはナサリエルがどんな表情でいたのか知るよしもない。
細長い指は拳で小さく折り曲げられ、鍵盤に強く叩きつけられる。
豪華な調度品に囲まれた室内に響き渡った不協和音も彼女の耳に届く事はないのだ。
ソフィアは芝生のぬくもりを感じながら、校門を目指していた。
頭の中では様々な思いが蠢いていた。
やはり、ドラマのように華麗な探偵役になるのは難しい。
私には器用に扱えるほどの魔力は存在しない。
しかし、聖女のブレスレットがマゴスとその意を受ける者達が扱う邪力の気配を教えてくれると思い込んでいた。
その考えこそが浅はかだったのかもしれない。
あの安置所での出来事は私が犯人を見つけたいばかりに都合のいい犯人像を作り上げた幻だったのかもしれない。
この奇跡の賜物であるブレスレットも本来受け継ぐはずである今世の聖女であるマニエルに持ってもらいたかっただろうに…。
太陽の元にかざした腕の中でそれは優しく光っていた。
その飾りは水晶のように透き通り、薔薇の宝石を形作っている。
このブレスレットは聖女が心を込めて、その魔力で作ったとされる法具の一つ。
他にもいくつかあるらしいが、王室とクラヴェウス家が所有する物以外は紛失してしまったと言われている。この聖女の聖遺物は特におばあ様にとって、大切な物だと聞かされてきた。
歴代の聖女の中でも抜きんでた力を持っていたとされるリアーナ様が妹のために作った誕生日プレゼントだから。そのエピソードだけで彼女の優しさが伝わってくる。
『リアーナお姉さまは法具を作る天才でした。貴女もその血をひいているのです。できないわけありません』
おばあ様はいつも聖女である姉がいかに素晴らしかったのかを説いていた。
いくら血をひいていたと言えど、聖女の直系ではない自分の孫に対して、中々病んだ物言いだ。
さらに言えば、ソフィアは不器用でもあった。
法具づくりは魔力の量もさることながら、繊細な作業も要求される。
包丁一つ握れないどころか、針に糸を通す事すらできないソフィアには何十年かかっても達成できないだろう。
おばあ様だって、可愛らしかった時期があるのだろう。
例えばリアーナ様がご健在の頃なら、姉を慕う妹だったのかもしれない。
大伯母とお会いできなかったのが残念でならない。
思えば、聖女は長生きしたという記録がない。
リアーナ様も結婚後、三年もたたずに亡くなられたと記録されている。
マニエルもあのまま、生きていたとしても、短い生涯だったのかもしれない。
そう考えて、思わず首を振った。
何を考えているの?
例え、短命だったとしても殺されていいわけはない。
それに聖女がいなければ、この世界だって崩壊してしまうのだから。
今ほど、自分が聖女だったらよかったのにと思った事はないかもしれない。
私の命が短くたって誰も悲しまない。
そうよ。だから、決めたじゃない。
マニエルが消えた今、世界を救うために生贄になるって…。
容疑者が消えたのなら、また新しい容疑者を見つければいい話なのよ。
“所轄署三係”でも、何人もの容疑者を取り調べていた。
気合いを入れるのよ。ソフィア!
自身の頬を強く叩いて、背筋を伸ばす。
大股で一歩踏み出したソフィアの目に飛び込んできたのは色とりどりの野菜達だった。
「このご時世に珍しいわね…」
今はマゴス復活の脅威で土地も痩せこけている。けれど、ここにある野菜達はどれも美味しそうである。そう言えば、ゆいなは食べる事が好きだった。
学校の行事で体験した畑仕事に一番熱心だったのは彼女だ。
こんな事、今思い出したって意味はないのに…。
すべての思い出があの子と結びついてしまう。
もはや、生きる世界も外見も変わってしまったというのに…。
ソフィアは迷いを消し去るように頬を叩く。
干渉に浸っている場合じゃないわ。
しっかりするのよ。私!
でも、この野菜は誰が育てているのかしら?
「自然に育ったと言うわけではないわよね」
明らかに人の手がくわえられている…。
赤く実ったトマトを触りながらソフィアは呑気にそんな事を考えた。
背後で、人影が彼女を捉えているのにも気づかずに…。