「見事な山犬だ。確かに、フェンリルの血が流れているな」
ヘザーの父である国王も、見送りに来ていた姉たちも、トレイシーの駄々っ子ぶりを目を細めて見ている。
オルコット王家は代々、かなりの犬派なのだ。
「ですが、このままでは旅立てません。かと言って、置いていくのも忍びないし……」
「連れて行けばいいじゃないか。あちらにも同じような犬がいるのだろう?」
一匹も二匹も変わらんよ、と国王は笑う。
国王ほど豪放磊落ではないヘザーは、トレイシーを撫でながら悩む。
連れて行くなら前もって、知らせを入れるべきだろう。
今からでもアルフォンソ宛てに、手紙を書こうか。
そう思って侍女を呼ぼうとしたヘザーだったが、事態が急変する。
ご機嫌で撫でまわされていたトレイシーがむくりと起き上がり、ヘザーを背にかばって、ウウウッと門の方へ向かって唸り声を上げたのだ。
「あら、どうしたのかしら?」
母である王妃が、分厚い眼鏡がずり落ちてくるのを指で押さえ、トレイシーが警戒する方角を見やる。
家族の中で最も眼が悪い母が見ても分かるほど、何か大きなものが石造りの門を飛び越えてきた。
その動きは今しがた、トレイシーがヘザーのもとへ駆け付けるためにやってみせたので、見送りに並んだ観衆の驚きは少なかったが、それが何か分かったヘザーは、心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
「ウ、ウルバーノ!?」
そしてその背には、壊れた人形のようになったアルフォンソがいたのだった。
◇◆◇
「さすがに死ぬかと思ったよ」
ヘザーの出発は一旦保留になり、ぐったりとしたアルフォンソは王城へ運び込まれた。
しばらく横になって体力の回復に努め、ようやく寝台の上で起き上がったアルフォンソは、ヘザーに事の次第を説明する。
「ヘザーの到着に合わせて国境に着くように、今度はちゃんと護衛騎士を連れて、ウルバーノと城を出発したんだ」
アルフォンソは叱られた件を、きちんと覚えていたようだ。
「それが、国境が近づくにつれて、ウルバーノの様子がおかしくなって――ついには暴走してしまった。手綱を使って制御を試みたけれど、あれは手綱ではなく命綱だったよ」
アルフォンソは、メンブラード王国の国境付近からオルコット王国の王城へ辿り着くまでの道中、ウルバーノに振り落とされるのを耐え抜いたという。
馬ならば四日ほどかかる距離を、ウルバーノはわずか一日で駆け抜けたそうだ。
ヘザーの見ている前で、ウルバーノは人の背よりもはるかに高い門を、軽々と跳躍していた。
本気で走るウルバーノからアルフォンソが落下せずに済んだのは、気を失わずしっかり鞍に跨り、ここまで手綱を離さなかったおかげだろう。
「ご無事でなによりです。……おそらく、原因はトレイシーですよね?」
「あれを見れば、そうなんだろうねえ」
苦笑いするアルフォンソの視線の先では、トレイシーを両前足の間に挟み込み、その顔をぺろぺろ舐め続けるウルバーノがいた。
トレイシーは距離の近いウルバーノに辟易して、ウルバーノの顔を前足で押して遠ざけたりしているのだが、ウルバーノはそれすらも嬉しそうだった。
デレデレしているウルバーノを見て、アルフォンソは仕方がないと肩をすくめる。
「ヘザーとの別れを悲しんで、あの子が地方の山奥から出てきたから、その匂いか何かを察知して、ウルバーノが狂喜乱舞してしまった結果だろう。ずっとウルバーノは僕以外に友だちがいなくて、寂しかったのかもしれないな」
仔犬のときから、大型犬よりも大きかったウルバーノが、じゃれついて遊べる相手など、いなかったに違いない。
トレイシーはウルバーノよりも小さいけれど、れっきとしたフェンリルの血が流れている山犬だ。
今だって構い過ぎるウルバーノに憤慨して、本気で怒っている。
ほかの動物だったら縮み上がるばかりで、とてもではないがウルバーノに噛み付くなんて出来ない。
「実はトレイシーを、メンブラード王国へ連れて行ってもいいか、お伺いしようと思っていたのです。あの子が私から離れたがらないから」
「それは全然かまわないよ。むしろ、そうしてくれると嬉しいね。ウルバーノだって大歓迎するはずさ」
千切れそうに尻尾をバタバタ振っているウルバーノは、ウォン! と元気よく吠えた。
耳元で吠えられたトレイシーは、うるさいとばかりにウルバーノの鼻先に噛み付く。
そうしてじゃれあう二匹を、ヘザーとアルフォンソは微笑ましく眺めた。
◇◆◇
アルフォンソは、思いがけずヘザーの家族と話す時間を得て、緊張しながらも、たくさんの感謝を伝えていた。
寝台からアルフォンソが立ち上がり、きちんと背筋を伸ばしたときに気がついたのだが、17歳になったアルフォンソは、18歳のヘザーの身長を少し越していた。
お別れした2年前の夜に、こっそり打ち明けられた話だったが、アルフォンソは背を伸ばす努力を、それからも続けていたのだろう。
自分よりも背の高いアルフォンソから、にこりと麗しい笑みを贈られて、家族の前にも関わらずヘザーの心臓は激しく脈打つ。
(おかしいわ、私の心臓。まるで全力疾走したみたいに……)
照れて真っ赤になるヘザーに、家族はみんな目を細め、アルフォンソの機嫌はウルバーノ並みに急上昇するのだった。
一日ずれてしまったが、次の日、ヘザーはオルコット王国を発つ。
まだ完全回復していないアルフォンソがヘザーと一緒に馬車に乗り込み、その後ろをウルバーノとトレイシーが歩いてついてくる。
そうしてメンブラード王国の国境を目指していると、途中でアルフォンソの護衛騎士たちとも合流できた。
全力疾走のウルバーノの後を、馬を乗り継いで追いかけていたらしい。
へとへとになっていた騎士たちも、引き締まらないデレ顔のウルバーノと、その隣のキリッとしたトレイシーを見て、なんだか納得していたようだった。
道中、目立つウルバーノとトレイシーを連れているおかげで、何かの祭事かパレードだと勘違いされながら、ヘザーたちはメンブラード王国まで辿り着いた。
そして国境を越えてからは、アルフォンソの体調も良くなってきたので、ウルバーノに乗って帰ることにする。
トレイシーもちゃんとウルバーノに付いて来ているのだが、ちらちらとウルバーノが後ろを振り返り、トレイシーの位置を確認しているのがヘザーには微笑ましかった。
「トレイシーを連れてきて良かったです。ウルバーノが親切にしてくれるから、きっとメンブラード王国にもすぐ馴染んでくれますよね」
「トレイシーのことはウルバーノが放っておかないよ。こんなにも好意が駄々洩れだからね。僕はヘザーにも、メンブラード王国に早く馴染んで欲しいと思っているよ。だからうんと、親切にするからね」
ヘザーを背後から抱きしめてくるアルフォンソが、首元にすりすりと顔をこすりつけてくるのが、ウルバーノやトレイシーの愛情表現と一緒で、ヘザーは嬉しくなる。
離れていた間の心変わりなど、疑ったこともなかったが、こうしてヘザーへの気持ちを態度で示してくれると安心できた。
だからヘザーも勇気を出して、アルフォンソの頭をよしよしと撫でてみる。
ヘザーの気持ちもアルフォンソにあると、分かりやすく態度で示すために。
されてアルフォンソも嬉しかったのだろう。
ヘザーの耳元で、ありがとうと囁いて、そこから流れるようにヘザーの頬へ優しく口づけた。
びくりとしたヘザーが驚いて振り返ると、そこには瞳以上に耳と目元を赤くした麗しいアルフォンソがいて、ヘザーまでが全身を茹でたように赤くなる。
そんな初々しい婚約者たちを乗せて、ウルバーノは堂々と王城の門をくぐる。
初めての場所に畏縮してしまうのではないかとトレイシーを心配したが、ふんふんと数回、周辺の匂いを嗅いだだけで安心したように入ってくる。
きっとそこかしこに、ウルバーノの匂いがするのかもしれない。
こうして、ヘザーのメンブラード王国での花嫁修業の日々が、始まったのだった。