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第19話

「シル、落ち着いたかな?」


「なんとか……」




 予想もしていなかった大きな礼讃に、シルヴェーヌの足は気怖じして震え、先ほどガブリエルに抱きかかえられるようにバルコニーから戻ってきたところだ。


 ロニーがすぐにお茶を淹れて、シルヴェーヌを労う。




「シルヴェーヌさま、誰しもあのバルコニーへ立つと、畏怖するものです」


「僕だってそうだよ。多くの民の目に晒されるというのは、緊張を強いられる。シルはよくやれていたよ」


「ガブも緊張してたの? とてもそうは見えなかったわ」




 生まれながらの王族ではあるが、これまで公の場へは、あまり顔を出していないガブリエル。


 それにも関わらず、バルコニーでの姿は威風堂々としており、シルヴェーヌは感銘を受けた。




「僕がしっかりした姿を見せることで、集まってくれた民は、王家の盤石さを感じて安心するだろう? だから虚勢を張っているんだよ」


「今日の殿下の姿で、あのバルコニーの忌まわしい記憶も、見事に塗り替わったでしょう」




 ロニーがガブリエルを褒める。




「包帯を解くタイミングも、完璧でした。殿下にも、国王陛下の人心掌握術が、引き継がれているようですね」


「父上には敵わないよ。いざというときまで、腑抜けの振りをして爪を隠し続けるなんて、僕にはできない」




 その爪を見てしまったせいで、王妃が大人しくなったのだ。




「今日の一件で、シルの印象も大きく変わったはずだよ。ドクダミ自体、決して蔑称に使われていいものではないんだ。むしろ多くの効能を持つ、素晴らしい生薬なんだから、シルはドクダミを代表して胸を張ってね」




 令嬢らしからぬ体臭は、シルヴェーヌが特別な体質の証。


 そしてその特別な体質が、寝たきりだったガブリエルを助けた。




「シルヴェーヌさまの体質を馬鹿にするものは、翻って、その体質により命拾いした殿下への冒涜に当たります。何か言われたときは、私に報告してくださいね」




 いつでも不敬罪で捕まえてやります、とロニーが請け負う。


 ここのところ沈みがちだったシルヴェーヌのために、二人が尽力してくれたのは明らかだ。


 以前、ドレスが汚れたときもそうだったのを思い出す。


 ありがたくて、シルヴェーヌの眼の奥が熱くなる。




「ドクダミ令嬢って言われて、今日ほど嬉しかったことはないわ」


「少しはシルの悩みの種が消えてくれたかな?」


「気がついてたの? 私が気にしてるって……」


「シルの妹のおかげだよ」




 コンスタンスの? とシルヴェーヌがきょとんとする。


 種明かしをするように、ロニーが説明した。




「表情が翳りがちだったシルヴェーヌさまを心配して、殿下が妹君に協力を仰いだのです。悩み事があるならば、聞き出してもらいたいと」


「……悩み事というほどでは、なかったのだけど」




 シルヴェーヌが抱え込んでいたものは、少し違う。


 だがそれも、ドクダミ令嬢の意味合いが一変したことで楽になった。




「コンスタンスに、お礼を言わなくちゃ」




 シルヴェーヌに笑顔が戻り、ガブリエルはホッと胸を撫で下ろす。


 カッター帝国との間に結ばれた条約を発表する場で、包帯を取るデモンストレーションをしたのは大成功だった。


 バルコニー前に集まってくれた民たちは、そこで火だるまになったガブリエルと、ほぼ元通りになった面貌の落差に驚かされ、それがそのままシルヴェーヌの評価に繋がった。




「殿下、そろそろ、あの話をされてもよいのでは?」


「そうだね、シルの足元を固めてからと思っていたけど、今日の民の反応を見たら大丈夫そうだ」




 主従が声をひそめて話を合わせ、ごほんと咳ばらいをしたガブリエルがシルヴェーヌへ向き直る。




「シル、僕との未来を想像してくれたかな? これからもずっと、離れ離れになることなく、二人で一緒にいる将来を」


「っ……!」


「シルのことだから、きっと僕が考えている以上に、悩んだだろうね。身分差があるとか、特異な体質だからとか」




 まさしくその通りだったので、シルヴェーヌはこくこくと頷く。




「やっぱりね。だけど今日、それは引っくり返ったよね? バルコニー前に集まってくれた多くの民の声が、シルにも届いたはずだ」


「ガブと私が、お似合いだって……でも、それは」


「民だけじゃない。父上だって兄上だって、シルを認めてる。そして何より、僕がシルじゃないと駄目なんだ」




 ガブリエルの声に熱が孕む。


 どれだけシルヴェーヌを求めているのか、伝わるように。




「シルが了承してくれるまで、僕はずっと乞い続けるよ。……ただ少し、今後は距離が遠のいてしまうかもしれなくて」


「距離が遠のくって?」


「実はね、ブリジットを花火から護った礼として、カッター帝国の皇帝が僕に大きな島を贈ってくれたんだ。父上の命で、僕はいずれその島を領地として治める大公になる。だから、早いうちから島に渡って、現地の民と親交を深め、実践を通して帝王学を修めようと思っている」


「つまり、この離宮から出て行くのね?」


「僕は、シルと一緒に島へ行きたい。だが、婚約者でもない女性を、王都から遠く離れた領地へ、連れてはいけない」




 寂しげに瞼を落とすガブリエルの姿は、シルヴェーヌの憐憫を誘う。




「島に行ってしまったら、もうガブは王都へは戻ってこないの?」


「年に数回は戻ってくるよ」




 その回数は、シルヴェーヌが思っていたよりも、ずっと少ない。


 さらには、戻ってきてもガブリエルには公務があるし、シルヴェーヌとばかり会うわけにもいかないだろう。




(確実に、ガブとの距離が遠ざかってしまう。ここで私が返事をしないと、それが現実になるんだわ)




 シルヴェーヌの中で、すでに心積もりは決まっていた。


 多くの民から届けられた歓声が、後ろ向きだったシルヴェーヌに、一歩を踏み出す決意を促したのだ。




「私、ガブと一緒に島へ行きたい。……あの指輪、ちゃんとした意味で受け取るわ」




 勇気を出して告げた言葉に、ガブリエルが満面の笑みを見せる。




「ありがとう、シル。僕だけのお姫さま。一緒に行こう。これから先は、どこにでも二人で」




 ガブリエルに両手を広げられて、シルヴェーヌはそこへ飛び込んだ。




「私じゃガブに釣り合わないって、ずっと思ってた」


「そんなことないって、やっと分かった?」


「いろいろ理由をつけて、ズルズル離宮に居座る自分も嫌だったの」


「シルは何も悪くない。わざと火傷を負ったのも、シルを離宮に呼び戻したのも、僕の我がままなんだから」


「ガブが気持ちを伝えてくれたのに、私はきちんと返事ができなかったし」


「すぐには決められないでしょう? 人生の大きな選択なんだから。僕がちゃんと、プロポーズを成功させていれば、シルだって考える時間があったはずだ」




 シルヴェーヌのこれまでの葛藤を、ガブリエルはなんでもないように受け流す。


 空気が読める側近のロニーは、すでに部屋から退室していた。




「ねえ、シル。水を飲ませるんじゃない口づけをしてもいい? 愛し合う恋人同士がする口づけを贈りたい」


「っ……、いいわ!」




 覚悟をしたシルヴェーヌが、ぎゅっと目と口を閉じる。


 それが可愛くて、にやけてしまう口元を必死に引き留め、ガブリエルは顔を傾ける。




「大好きだよ、シル」




 囁きが届くと同時に、シルヴェーヌの小さな唇はガブリエルのそれに覆われた。


 ふにっとした柔らかい感触は、すでに二人とも知っている。


 ちゅっちゅと唇を吸い合い、息が弾んだあたりで、そろりと舌を絡ませた。


 ガブリエルにとって馴染み深い、シルヴェーヌの味がする。




「シルから口移しで飲ませてもらう水が、いつも甘かった理由が分かった」


「ん……水に、味があったの?」




 息継ぎの合間に、かすれ声で会話する。




「シルの唾液、甘くて美味しい。体が欲しているせいかな?」


「まだ、ガブには火傷があるから……」


「治ってからも甘く感じるかどうか、試させてね」




 最後に、もう一度ふにっと唇をくっつけ合い、シルヴェーヌとガブリエルの初めての口づけは終わる。


 どちらの瞳も潤んだまま、想いが重なった歓びにあふれていた。




「まずは正式に婚約を発表してから、島へ向かおう」


「その前に……訪ねたいところがあるんだけど……」




 おずおずと申し出たシルヴェーヌの話の内容を聞いて、ガブリエルはふわっと笑う。




「そうか、シルらしいよ。そんなところが、厨房の料理長らに好かれていた要因なんだろうね」


「行ってみてもいい?」


「シルがしたいことを、遮るつもりはないよ」




 こうしてシルヴェーヌは、ガブリエルの治める島へ渡る前に、嫁ぎ先となるはずだったカッター帝国の豪商を見舞ったのだ。

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