「国王陛下が奮闘されたおかげで、ゲラン王国にかなり有利な条件が整いました」
執務室にロニーがもたらしてくれたのは、カッター帝国と擦り合わせている賠償内容の速報だった。
ガブリエルが火傷を負った日から数か月が過ぎ、交渉も佳境を迎えている。
すでに執務をし始めたガブリエルを見守るうちに、自然とシルヴェーヌはその補佐をするようになっていた。
そのおかげでロニーはこうして、国王側との連絡を密にやり取りできている。
「殿下の予想通りですね。一方的に婚約を破棄したブリジット皇女殿下のおかげで、賠償額は相当なものだそうですよ」
「ブリジットは、物語に出てくる王子さまのような僕の顔が好きだと言っていたから……その顔が醜くなれば、きっと婚約を嫌がるだろうと思ったんだ」
包帯の上から、ガブリエルが頬を撫でる。
何度もしつこくお願いして、やっとシルヴェーヌに見せてもらった鏡の中にいたのは、溶けた蝋のような皮膚をもつ男だった。
「あそこまで怖がられたのは想定外だったけど、こんな見た目なら仕方ないね」
ただれて歪んだ己の顔を見て、ガブリエルは笑っていた。
あの夜に何があったのか、シルヴェーヌは詳細を教えてもらった。
先んじて、ガブリエルたちはカッター帝国の花火師の中から、高齢のために解雇される予定だったベテランの職人を味方につけた。
そしてゲラン王国での永年雇用を約束し、バルコニー目がけて小さな花火を打ち上げてもらったのだ。
みんなが大玉の花火に夢中になっている隙をついて事故を偽装する、大胆な作戦だった。
それを聞いたシルヴェーヌは、生きた心地がしなかった。
「万が一のことがあったら、どうしていたの?」
「取れるだけの対策は取った。城が火事にならないよう、あちこちに水も撒いたし、消火のための護衛兵も多数待機していたんだ」
とはいえ思い切りが良すぎるガブリエルに、シルヴェーヌは眉を寄せる。
また怒られると勘違いしたガブリエルが、慌てて付け加えた。
「シルと離れ離れにされた時点で、僕は死んだも同然だった。だからこそ、捨て身でこの計画に挑めたんだ。今ならしないよ?」
隣にシルがいるからね、とガブリエルは微笑む。
いまだガブリエルは顔と頭を包帯で隠しているが、実はシルヴェーヌのおかげでかなり元通りになっていた。
さすがに髪はまだ生え揃わないが、ちゃんと頭皮は再生しているし、赤らんでいた顔の色も薄くなってきている。
跡が残るだろうと診断していた医師も、あまりの治癒力に驚いていた。
そんな中でガブリエルが包帯を外さないのは、カッター帝国へ圧をかけるためなのだそうだ。
「うっかり素顔を見られて、たいした火傷じゃなかったと思われたら、賠償金を下げられるかもしれないだろう?」
「ガブはどこからどう見ても、たいした火傷だったわ」
「それが治ったのは、シルの体質のおかげだね」
暗に口移しのことを仄めかされ、シルヴェーヌの頬が赤らんでいく。
日常生活に支障がなくなった今もまだ、水だけは口移しでシルヴェーヌが飲ませているのだ。
「こんな面様になった僕の側にいてくれて、ありがとう」
「……ガブは私の親友で唯一で特別だから」
いつまでも、そんな言葉では誤魔化せない。
分かってはいるが、シルヴェーヌは一歩が踏み出せないでいた。
(私、ガブが伝えてくれた気持ちと同じ気持ちを持ってる。何も知らない子どもの頃なら、きっと喜んでガブの胸に飛び込んだわ。だけど――)
18歳になったシルヴェーヌは、世の中にはびこる大人の事情を少し学んだ。
(ドクダミ令嬢なんて蔑称で呼ばれる私が、王子さまであるガブの隣には立てない。こうして今、ガブと一緒にいられるのは、治療という名目があるから許されているのよ)
それを勘違いしてはいけない。
ガブリエルがいくらシルヴェーヌを望もうと、王家も民も許しはしないだろう。
(ガブのお姫さまにしてもらえただけで、私は幸せよ)
◇◆◇◆
「シルの表情が晴れない。なんだか悩んでいるようなんだ」
シルヴェーヌが退室した執務室で、ガブリエルが首を傾げる。
相談している相手はロニーだ。
「僕が笑いかけた後に、ふっと暗い顔をする。……これって僕のせいだよね?」
「私と話しているときは、そのような表情はされません。殿下に心当たりはないのですか?」
思い出すために目をつむるが、何も浮かばない。
お手上げとばかりに、ガブリエルは溜め息をついた。
「僕がシルを汚い世界に連れてきてしまったから、つらいのかもしれない。毎日のように、貴族から届く身勝手な要望書を見ていたら、僕だって嫌気がさすよ」
「シルヴェーヌさま本人にお聞きするのが、一番確実ですが……」
「それとなく聞いてはみたよ。見事に、はぐらかされたけどね」
ロニーはそこで、コンスタンスのことを思い出した。
「妹君を、離宮へ呼んでみてはどうでしょう? それとなく悩みがないか、聞き出してもらうのです」
「そう言えば、ロニーはコンスタンス嬢と、何度かやり取りをしていたね」
ふむ、とガブリエルは一考する。
「いつも頼ってばかりで申し訳ないけど、コンスタンス嬢にお願いしてみようかな」
「久しぶりに姉妹水入らずで過ごせば、シルヴェーヌさまも気が休まるかもしれませんよ」
そしてコンスタンスは、離宮へ招かれることになった。
「お姉さま! お元気そうでよかった!」
「コンスタンス? あなた、一体どうしてここへ?」
「驚かせたくて、黙っていたんです。今日から私、離宮に数日間、滞在するんですよ」
うふふ、と笑うコンスタンスは、いたずらっ子の顔そのものだ。
最近、思い悩む夜もあったシルヴェーヌは、コンスタンスを歓迎する。
「嬉しいわ。コンスタンスがいるだけで、花が咲いたように明るくなるから」
微笑むシルヴェーヌを見て、コンスタンスは胸を撫で下ろす。
ガブリエルからは、悩み事があるようだと聞いていたが、そこまで深刻ではないのかもしれない。
「いっぱい、おしゃべりしましょうね! 荷解きが終わったら、お姉さまの部屋へ遊びに行きます」
言葉通り、コンスタンスはお茶やお菓子を携えて、シルヴェーヌの部屋へやってきた。
ローテーブルにそれらをセッティングすると、さっそくコンスタンスが口を開く。
「カッター帝国との調停が、まもなく終わるそうですね。一時期は、民の間に不穏な空気も漂っていたのに、どんどん有利な条件をもぎ取っていくから、今では速報が流れるたびにお祭り騒ぎになるとか」
「国王陛下の手腕ね。『誑かしの天才』だなんて、ガブは言っていたけど」
コンスタンスと長椅子に並んで座ると、実家で過ごした日々を思い出す。
体臭のあるシルヴェーヌの隣に座るのに、コンスタンスは何のためらいも見せない。
以前から気になっていたので、シルヴェーヌはこの機会に尋ねてみた。
「ねえ、コンスタンス。あなたは健康体よね? それなのに、私の匂いが嫌じゃないの?」
「私はお姉さまの体質を知っていますし、そのおかげで助けられましたから。感謝こそすれ、忌避するなどありえません」
「でも生薬だったりドクダミだったり、私からはそんな匂いがするのよね?」
「私はそのどちらもあまり嗅いだことがないので、はっきりとは言えませんが……夏の庭の匂いが、一番近いと感じました」
「夏の庭……?」
「よく、お姉さまが走り回っていたでしょう? 私もうらやましくて、こっそり夏の庭に出てみたんです。ギラつく太陽に負けないくらい、樹々と草花に生命力があふれていて、圧倒的な空気の濃さを感じました」
シルヴェーヌは乳母と遊んだ暑い日を思い浮かべた。
足元からあがる草いきれや、木登りをした枝葉の青臭ささ、シルヴェーヌの中では、どれも楽しい記憶と繋がっている。
「お姉さまを揶揄する人たちって、多分、夏の暑い日に外へ出ない人たちなんでしょうね。お姉さまから漂っているのは、自然の匂いですよ」
「そんなに悪いものでもないということ?」
「悪いものどころか、お姉さまの匂いは体に良いじゃないですか。……気になるんですか?」
シルヴェーヌの体臭は生まれつきだ。
これまでも、匂いについては何度も悩んできただろう。
だが、コンスタンスの勘が告げている。
(お姉さまが、このタイミングで悩む要因があるのだわ)