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第16話

「……え!?」




 座っていた椅子から立ち上がり、シルヴェーヌは狼狽する。


 その選択肢は、一度も頭に浮かばなかった。


 だが通常、男性から女性に指輪を贈る場面は、限られている。




「で、でも……ガブは皇女殿下と婚約をしていて……」


「そうか、そこから行き違っていたんだね」




 ふう、とガブリエルが息をつく。


 そして立ったままのシルヴェーヌに、どうぞ座って、と目線で椅子を指し示す。




「僕はね、ブリジットとの婚約を、願っていなかったんだ。むしろ、なんとか解消しようとしてたんだよ」


「どうして? 皇女殿下は、本物のお姫さまなのに」


「シル、それは違うよ。王子さまにとってお姫さまっていうのは、愛しい人のことなんだから」


「愛しい、人」




 そこでシルヴェーヌにも、やっとガブリエルの想いが伝わった。


 じわじわと、足元から温かい感情が這い上がってくる。




「ガブのお姫さまは、私?」


「そうだよ。シルだけが、僕のお姫さまなんだ」




 思いがけない告白に、シルヴェーヌの顔は紅潮する。


 自分が誰かの特別な存在になるなんて、ありえないと思っていた。


 体質のせいで生まれてすぐ両親に見放され、心無い者からはドクダミ令嬢と揶揄され、ブリジットには嫁ぎ先が見つからないだろうと言われた。




「どうして私を? ガブの体を治したから? 長く一緒にいたから?」




 だから情が湧いたのか。




「シルが素敵だからだよ。シルの見ている世界も、シルの物の捉え方も、僕は大好きだ。シルの全てに惹かれて止まない」




 グルグル巻かれた包帯のせいで、ガブの表情はあまり分からない。


 だが、赤い瞳だけは雄弁に、愛を語っていた。




「わ、私も……ガブを好きだけど……そんなふうに考えたこと、なくって」




 シルヴェーヌは一生、憧れのお姫さまにはなれないと思っていた。


 だからこそ、真似事ができたパーティの夜は、天にも昇る心地だった。


 王子さまのガブリエルと手を繋ぎ、お姫さまのドレスを翻して、きらびやかなホールでダンスを踊る。


 身の程をわきまえたシルヴェーヌが、夢を見たのはそこまでだ。




「これから考えてくれる? 僕とのこと。――とは言え、今は火傷だらけで、とても恰好がつかないけれど」




 こほん、とガブリエルが渇いた咳をした。


 しゃべりすぎて、喉に負担がかかったのだろう。


 慌ててシルヴェーヌは水差しに手を伸ばす。




「少し水を飲んだ方がいいわ」




 グラスに注いで一口、水を含むと、シルヴェーヌはガブリエルへ両手をついて覆いかぶさる。




「え? シル? 何を……」




 今度はガブリエルが狼狽える番だった。


 だが口の中に水が入っているシルヴェーヌは、物理的に説明ができない。


 硬直しているガブリエルの唇に、顔を傾けてゆっくり唇を重ねると、少しずつ水を分け与えた。




 ごく、ごく……




 シルヴェーヌの口の中から、ぬるい水が滑り落ち、ガブリエルの喉を潤す。


 含んでいた水をガブリエルが飲み干し、口の中が空になったシルヴェーヌは身を起こした。


 意識のあるときに口移しをしたのは初めてで、シルヴェーヌの頬は真っ赤だ。




「……もっと欲しい?」




 可愛いシルヴェーヌに尋ねられ、くわっとガブリエルの目が見開かれた。




「欲しい。だけど……シルは他の人に、この行為をしては駄目だからね」


「ガブにだけよ……こんなことするのは」




 恥ずかしがるシルヴェーヌを、ガブリエルは惚れ惚れと眺める。


 そして口を開いて、次の水を待った。




 それから三回、ガブリエルは水を求めた。




 ◇◆◇◆




 ガブリエルが元の生活を送れるようになるまでに、一年はかかるだろうと医師には言われた。


 その間、ガーゼを張り替えたり包帯を巻いたり、シルヴェーヌは甲斐甲斐しく世話を焼く。




「ねえ、シル。今日も駄目?」


「鏡を見たからって、早く治るものでもないでしょ?」


「でも僕の顔がどうなったか、気になるよ」




 ガブリエルは包帯を外すたび、火傷でただれた顔や頭を見たがる。


 ブリジットが悲鳴をあげたように、ガブリエルの容貌は変わってしまった。


 艶のある金髪どころか、凛々しかった眉毛も、頬に影を落としたまつ毛も、毛という毛はすべて焼け落ちた。


 そして透明感のあった肌は赤黒くひきつれ、大きな水膨れがあちこちに残る。




「化け物のような顔になるのが目的だったから、成功したのか知りたいんだ」




 ガブリエルの言葉に、シルヴェーヌは耳を疑う。


 そして今度こそ、国王やロニーの会話の真相に近づいたと分かる。




「ガブは……不慮の打ち上げ花火の事故で、火傷を負ったんだよね?」


「あれが偶然じゃないって、もうシルは気づいたんでしょう?」




 質問に質問で返される。


 顔や頭に比べて、軽傷の身体と四肢。


 服で護られていたと言っても、手袋まで防火仕様だったなんて、あり得るのだろうか。




「ガブは望んでこうなったの?」


「……そうだよ」


「どうして!?」




 シルヴェーヌに合わせていた視線を外し、ガブリエルは窓の外を見る。




「王妃の祖国やカッター帝国に、これ以上、ゲラン王国を蹂躙させるわけにはいかなかった。大国に媚びへつらっていれば貴族たちは安泰だろうが、大国とのやりとりが生活に直結している民には死活問題だ」


「ガブ、こっちを向いて」


「そのためにも、王妃に仕組まれたブリジットとの婚約を解消し、カッター帝国に非があるかたちで交渉を――」


「ガブ! こっちを向いて!」




 強くシルヴェーヌに言い切られ、渋々ガブリエルは目線を戻す。


 そこにあったのは、力強い若葉色の瞳。


 木漏れ日のようにキラキラと輝き、ガブリエルには眩しくて仕方がない。


 こんなに美しいものを前にして、いつまでも偽りを宣べることは出来なかった。




「……ごめん。嘘をついた」


「私の目を見て、もう一度話して」




 何度か瞬きを繰り返し、ようやく決心をしたのか、ガブリエルは口を開く。




「僕が倒れたら、シルが離宮に戻ってきてくれると思って――」


「馬鹿!!」




 シルヴェーヌの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。




「ガブは健康を何だと思っているの! 多くの人がそれを望んで、得られずに苦しんでいるのよ! それを自ら手放す行為が、どれほど愚かなのか――」




 烈火のごとく怒るシルヴェーヌに、圧倒される。


 ガブリエルはひたすら謝り続けた。


 しかしシルヴェーヌの大喝は止まない。




「ガブだけの問題じゃないわ! 健康になったガブを見て、喜んでくれた人たちをも傷つけたのよ!」


「その調子です。もっと叱ってやってください」




 いつの間にか、隣にロニーがいた。


 腕を組んで、うんうんと頷きながらシルヴェーヌの叱責を聞いていたロニーも、ガブリエルに釘を刺す。




「必要な計画だから加担しましたが、もう二度と、こんなことはなさらないでください」




 ガブリエルにもようやく、ロニーが悲しんでいるのが分かったようだ。




「もうしないよ。……これからは自分を大事にする」


「お願いしますね、殿下」




 わだかまりがなくなった主従の姿に、シルヴェーヌも矛を収める。




「呼んでくれたら、いつだって離宮に来たわ。だって話し相手じゃなくなっても、私たちは友だちのままでしょう?」




 少し拗ねた言い方をしたシルヴェーヌに、ロニーが微笑み返す。




「もうお二人は、友だち以上の関係ですよね」


「ど、どういう意味?」


「だって、何度も口づけを交わしたのですから――」


「それはっ、水を飲むためと、治療を促進させるためで……!」




 慌てふためくシルヴェーヌを余所に、ガブリエルが真剣に悩みだす。




「僕は最初の口づけを覚えていないんだ。もったいないことをした」


「だから、口づけじゃなくて……!」




 ガブリエルの想いを知ったシルヴェーヌは、このところ心臓がおかしい。


 妙に動悸や息切れがして、胸が苦しいのだ。


 体質的にシルヴェーヌが病気になることはない。


 だからこれが、それ以外の何かだと分かっている。




(いつも、ガブに関するときだけ起きる。――親友で、唯一で、特別だから)




 これが親愛ではない愛なのだと、シルヴェーヌが自覚するまでもう少し。

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