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第11話

 離宮から帰ってきたシルヴェーヌを待っていたのは、他人の住処のようなジュネ伯爵家だった。




(優しかった、ばあやがいない。この10年で辞めていたなんて……知らなかった)




 先ぶれもなく戻ったシルヴェーヌのために、見覚えのない使用人たちが慌ただしく客間を整えている。


 その間、小さな鞄ひとつを持ち、玄関にぽつんと立ち尽くすシルヴェーヌを寂しさが襲う。


 7歳まで使っていた部屋はすでに片付けられ、シルヴェーヌの持ち物は何も残っていないのだそうだ。




(ばあやと作ったどんぐり独楽も、お気に入りだった押し花の絵画も……すべて無くなってしまったのね)




 消沈するシルヴェーヌは気がつかない。


 以前とは違って、調度品が増えた豪奢な屋敷内の様子に。




「一体どうしたと言うのだ、シルヴェーヌ? 何故、のこのこ家へと戻ってきた?」




 そこへ、事情を知らないジュネ伯爵がやってきて、シルヴェーヌを問い詰める。


 心ここにあらずなシルヴェーヌの、端的な言葉から詳らかになる状況に、ジュネ伯爵の顔色は次第に悪くなった。




「つまり、ガブリエル殿下に婚約者ができたから、お前はお払い箱になったという訳か」




 言い方に棘が感じられるが、概ねその通りだったので、シルヴェーヌはこくりと頷いた。




「一大事だ! 至急、国王陛下に連絡を取らねば。今後、我が家への恩賞金がどうなるのか――!」




 バタバタと走り去るジュネ伯爵の背中を、シルヴェーヌは無表情で見送る。


 目は見えているし、耳も聞こえているが、何もかもが透明な膜の向こうにあるようで、なんだか現実味がなかった。




「お姉さま、客間の準備ができたそうです。私が案内しますわ」




 ジュネ伯爵との話が終わっても、玄関ホールから動こうとしないシルヴェーヌに、控えめな声がかけられる。


 ずっと心配そうに様子をうかがっていた、コンスタンスだった。


 シルヴェーヌは、ジュネ伯爵にそっくりな髪色と顔を見て、大きくなった妹だと気づいたようだ。




「もしかして、コンスタンスなの?」


「お会いするのは10年ぶりですね」




 コンスタンスは、パーティの夜にシルヴェーヌを見かけた件を持ち出さなかった。


 それがシルヴェーヌにとって、いい記憶ではないと知っているからだ。


 こちらです、と前を歩くコンスタンスに、シルヴェーヌは大人しくついていく。


 もう屋敷の間取りを、シルヴェーヌは覚えていなかった。




「お姉さまが庭を走り回っている姿を、私はよくここから眺めていました」


「大樹から落ちてきたお姉さまに、心臓が飛び出るほど驚いたものです」


「春の暖かい日には、小川でばあやと魚釣りもしていましたね」




 しかし、コンスタンスが思い出話をするのを聞くにつけ、窓から見える景色に懐かしさを感じた。


 姫りんごをもいだ中庭、川遊びをした奥庭――シルヴェーヌの隣にいた乳母の姿まで、脳裏によみがえる。




(あの日々も、幸せだった。私が私らしくいられたのは、ばあやのおかげだったのよね)




 改めて、乳母への感謝がシルヴェーヌの胸に込み上げる。




「ばあやは……随分前に退職したの?」


「お姉さまが王城へ行ってから、1年ほど後でした。それまで仕えていた使用人たちが、ぼろぼろと立て続けに辞めた時期があったのです」




 当時のコンスタンスは幼かったので、その理由が分からなかった。


 だが、シルヴェーヌの体質を考えれば、答えは明白だ。


 辞めていった者たちは、それまでシルヴェーヌのおかげで元気でいられたのだ。


 シルヴェーヌが屋敷からいなくなり、維持されていた健康状態が崩れたのだろう。




「高齢だったり、持病があったり、そういう者が軒並み辞職したようです」




 使用人の入れ替えがあって、今では若い者が多くなったという。


 そんな場所では、シルヴェーヌの体質をありがたがる者などいない。


 またしてもシルヴェーヌは、身の置き場の無さを感じた。




「お姉さまが好きだったお庭へ、直接出られるテラス付の部屋を用意したんです」




 そう言ってコンスタンスが開けた扉は、大きな掃き出し窓がある部屋に繋がっていた。


 まだ明るい空からの陽光が、眩しいほどレースのカーテン越しに差し込んでいる。




「後ほど、お茶を運ばせます。どうぞゆっくり、寛いでください」




 馬車に揺られて、疲れているだろうシルヴェーヌを慮り、コンスタンスは長居をせずに立ち去った。


 シルヴェーヌは初めて入った客間を、ぐるりと見渡す。


 滞在する客が過ごしやすいように、必要なものは全て揃っている。


 だが、それだけだった。


 ここには何の思い出も残っていない。




「せっかくだから、外へ出てみようかな。テラスにも、テーブルセットがあるようだし」




 小さな鞄を足元へ置き、両手が空いたシルヴェーヌは、掃き出し窓を大きく開けた。


 木陰をつくる樹の梢が、ざわざわっと風で揺すられ、ころんと何かがテラスの床へ落ちてくる。




「あれは、椎の実?」




 シルヴェーヌは思わず近寄り、小さなそれを拾い上げた。




「子どもの頃、あんなに大きいと思っていた椎の実が……こんなに小さい」




 ガブリエルと過ごした時間の長さに、そしてお別れした寂しさに、じわりと若緑色の瞳が潤む。




「10年だもの。いろいろ変わってしまっても、仕方がないわ」




 乳母だって、齢をとったのだろう。


 料理長も、引退したかもしれない。


 この椎の実の炒り方を知っている者は、おそらく、もうこの屋敷にはいない。




「探さなくちゃ、私の次の居場所を」




 すでに実家も、シルヴェーヌの安住の地ではない。


 心が折れてしまったシルヴェーヌを、癒してくれはしない。




「どこかに、私の体質を受け入れてくれる人がいるはず」




 手のひらの中の椎の実を、きゅっと握りしめた。




 ◇◆◇◆




 それからしばらくして、ガブリエルの話し相手からシルヴェーヌを解任するという知らせが、ジュネ伯爵家へ届けられた。


 差出人は、ジュネ伯爵が連絡を取ろうと試みていた国王だ。


 何度もサインを確かめ、文面を読み直し、ジュネ伯爵は崩れ落ちた。




「なんてことだ……恩賞金も、これが最後だと書いてある」




 手紙には、たっぷりの金貨が入った革袋が添えられていたが、それでは足りないと言わんばかりの恨みがましい声だ。


 この10年間、シルヴェーヌを売った金で覚えた贅沢な生活に、どっぷり頭まで浸かってしまったジュネ伯爵は、もはやそこから抜け出そうにも抜け出せないのだ。




「お父さま、相談があるのですが」




 すっかり萎れ切っていたジュネ伯爵に福音をもたらしたのは、この家に来て以来、ずっと黙考していたシルヴェーヌだった。


 いよいよ、見知らぬ場所へひとりで飛び立つ、決意を固めたのだ。




「どなたかの、お役に立ちたいと思っています。私の体質を受け入れてくれる方を、探してもらえませんか?」


「……よくぞ言った! それでこそ私の娘だ!」




 ジュネ伯爵は途端に活き活きとして、「すぐさま裕福な重病人を探せ!」「王族並みに金を払うなら、平民だって構うものか!」と家令に檄を飛ばす。


 小さな世界しか知らないシルヴェーヌの、大きな一歩が踏み出された。


 しかし、シルヴェーヌの決死な覚悟など、気にする者はここには誰もいなかった。




 ◇◆◇◆




 にわかに騒々しくなった屋敷内の様子を不審に思い、何があったのかと、コンスタンスがジュネ伯爵夫妻の部屋を訪れたときにはすでに遅かった。


 コンスタンスは、気兼ねもせずに大声でしゃべる二人の会話を、薄く開いた扉越しに耳にしてしまう。




「このまま、シルヴェーヌを嫁がせてしまおうと思っている。もう戻られるのはこりごりだ」


「家にいても、何の役にも立たないもの。お金を稼いでくれた方が、私たちのためになるわよ」


「それに、そろそろコンスタンスの婚礼用の、資金を貯めなくてはならないしな」


「我が家が裕福だと分かれば、格上の家からも、婿入りの声がかかるかもしれないわ!」




 心あるシルヴェーヌの申し出は、ジュネ伯爵によっていいように解釈され、思わぬ方へ舵を切り始めていた。




(せっかく、お姉さまが家に戻ってきたのに。まるで厄介者のように……)




 コンスタンスはジュネ伯爵夫妻の非道さに、顔を怒りで赤らめる。




(両親を放っておいては、お姉さまが望まぬ結婚をさせられてしまう。なんとかしないと――)




 思い悩んだ末に頭に浮かんだのは、パーティ会場からいなくなったシルヴェーヌを探すため、遠く離れた場所まで足を運んでいたガブリエルの姿だった。

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