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第8話

「あなたがどれだけ場違いか、分かっていらっしゃる?」




 ダンスホールから出て、薄暗がりに連れて来られたシルヴェーヌは、一定の距離を保つ令嬢たちに取り囲まれていた。


 いつの日か、バラ園で王妃とその取り巻きたちに、体質について罵られたのを彷彿とさせる。


 あのときはガブリエルが、相手を言い負かしてしまったが、今はシルヴェーヌ以外の令嬢とダンス中だ。


 こういうときにどうしたら穏便に事が済むのか、シルヴェーヌは必死に考える。


 そして取りあえず、相手の意見を聞こうと思い、敵意はないと示すために微笑んで見せた。


 だが、それがかえって令嬢たちの気分を害したようだ。




「余裕じゃない。ガブリエル殿下とファーストダンスを踊ったくらいで、つけ上がるんじゃないわよ」


「これで王家からあなたへの恩返しは済んだわ。ガブリエル殿下はしがらみから解放されて、立派な婚約者を選定されるはず」


「そもそも今夜のパーティだって、そのために開催されているのですからね」


「あなたはもう、お役御免なの。ガブリエル殿下の周りを、うろつかないでちょうだい」




 どうやら令嬢たちは、シルヴェーヌがガブリエルの近くにいるのが気に入らないようだ。




「私がガブと一緒にいるのは、そもそも国王陛下から話し相手として……」




 今もなお側にいる理由を説明しようと口を開くと、令嬢の一人にバシッと扇を投げつけられた。


 当たったこめかみが、ジンジンと痛みだす。


 きっとこれから赤く腫れるだろうが、シルヴェーヌの体質ならば、明日には治っている程度だ。




「あなた、ガブリエル殿下に対して、無礼を働いたわね」


「敬称をつけないなんて、身の程をわきまえていない証拠よ」


「私たちが直々に躾けてもいいけれど、この悪臭が移りそうで嫌だわ」


「ああ、臭い。よくこんな悪臭を振り撒きながら、生きていられるわね」




 わざとらしく鼻を押さえたり、扇でパタパタとあおいだり、令嬢たちはどれほどシルヴェーヌの体臭が不快なのかを訴える。




「私を臭いと思うのならば、それはあなたたちが健康である証よ」




 シルヴェーヌは喜ばしい事実なのだと伝えたかったが、他の令嬢からも扇を投げつけられてしまった。




「今夜のパーティには、ガブリエル殿下の婚約者候補として、お忍びで隣国の皇女さまが参加されているのよ」


「悪臭を放つドクダミ令嬢がいては、出会いの場が汚れてしまうでしょう?」


「私たちが率先してあなたを排除しているのは、言わば我が国の未来ためなのよ」


「分かったのなら、さっさと立ち去りなさい。……実力行使をされない前にね」




 実力行使の意味が分からず、シルヴェーヌは首をかしげる。




「あとでもう一曲、ガブと踊る約束をしているの。だからそれが済むまで――」




 待ってもらえないか、と続くはずだった。


 だが、それより早く、令嬢の投げつけたものが、シルヴェーヌを目がけて飛んで来る。


 もう痛いのは嫌だと思い、手で顔をかばったのがいけなかった。


 シルヴェーヌの腕に当たって、ぼとりとスカートの膨らみに落ちたのは、ふたが開けられたインク壺だった。


 さかさになったそれからは、どろりと青いインクが垂れ落ちて、ガブリエルが贈ってくれたお揃いのドレスを穢す。


 あまりの出来事に、シルヴェーヌの動きが止まった。




「いい気味ね。そんな姿では、会場へ戻れないでしょう」


「ガブリエル殿下とお揃いですって? 体でおねだりでもしたのかしら?」


「いやだわ、下品よ」


「臭いドクダミ令嬢には、汚いドレスがお似合いよ。夢見る時間はもう終わったの」




 ぽいとインク壺のふたを放り、くすくすと笑いながら令嬢たちは歩き去った。


 残されたのは、呆然と立ち尽くすシルヴェーヌのみ。


 足元に転がり落ちるまでに、いくつもの青い抽象画をスカートに残したインク壺は、すっかり中身を吐き出し床面でころりと息絶えた。




「嘘……お姫さまのドレスが……」




 シルヴェーヌはハンカチを取り出し、そっとインクを吸わせようとしたが、インクはさらにドレスに染み込んで、青の面積を広げるだけだった。




「どうして……どうしてこんな……」




 これまでシルヴェーヌは、真正面からの悪意をぶつけられたことがない。


 7歳までは屋敷の中で、17歳までは離宮の中で。


 シルヴェーヌは小さな世界で生きてきた。


 そこには、こんな純粋な悪意は存在しなかった。


 乳母しかり、ガブリエルしかり、盾となって護ってくれる者がいたからだ。


 そんな中で、真っすぐに育ったシルヴェーヌという花の茎が、令嬢たちによってぽっきりと手折られてしまう。




(体質うんぬんではなく、私の存在自体を否定された)




 ぶわっと若緑色の瞳が潤み、大粒の雫が頬を伝い落ちる。


 シルヴェーヌは滅多に泣かない。


 しかし、この現状は、とても受け止められるものではなかった。




 ◇◆◇◆




 その頃、コンスタンスが休憩室を後にしようとしていた。


 入れ替わるように休憩室へやってきた令嬢たちへ、席を譲る。


 扉を閉めて出て行こうとしたコンスタンスが、令嬢たちの言葉尻を捉えた。




「あの顔、見ものだったわね」


「今にも泣きそうだったじゃない?」


「だって金色のレースが、青色になったんだもの」


「ドクダミが日の当たる場所にいてはいけないのよ」




 コンスタンスの血の気が引いた。


 間違いなくこの令嬢たちが笑いものにしているのは、姉のシルヴェーヌだ。


 今夜のパーティで、ガブリエルの金色をまとうのを許されたのは、たった一人だからだ。




(お姉さま、一体なにがあったの?)




 コンスタンスは、シルヴェーヌを探した。


 もし令嬢たちにドレスを汚されたのなら、会場にはいられないだろう。


 すでに何度もパーティへの参加経験があるコンスタンスは、陰湿ないじめが行われそうな場所を知っている。


 たいていは男性が立ち入らない、女性専用の休憩室へ続く廊下の薄暗がりなのだ。




「お姉さま、いらっしゃいますか?」




 声をかけながら探すコンスタンスの前を、何かが横切っていく。


 長くたなびく美しい黒髪と、暗所でも目立つ金色のレースに、これはシルヴェーヌだと確信した。




「待って、お姉さま!」




 手を伸ばし捕まえようとしたが、シルヴェーヌは凄まじい勢いで遠ざかっていく。


 コンスタンスも必死に追いかけて走ったが、そもそもシルヴェーヌとは基本的な体力量と筋肉量が違う。


 あっという間に、その後ろ姿を見失ってしまった。




「はあ、はあ、はあ……」




 人生で初めて全力疾走をしたコンスタンスの肺は、空気を欲して焼け付くように痛む。


 しかたなく立ち止まり、壁に手をついて呼吸を整えていると、後ろから人の気配がした。




(かなりパーティ会場からは離れたのに、一体どなたかしら?)




 王城内なので、不埒者のはずはない。


 整えた化粧が流れる汗で崩れているのも気づかず、コンスタンスは背後を見た。


 そして、ひっと息を飲む。




「ガ、ガブリエル殿下!」




 暗闇に赤く光る瞳と、短くそろえた金色の髪。


 今しがた見失ったシルヴェーヌのドレスと、寸分たがわぬ色の持ち主がそこにはいた。


 コンスタンスは慌てて腰を落として顔を伏せる。




「楽にしていい。人を探しているだけだから」




 そう言って、通り過ぎようとするガブリエルに、顔を上げたコンスタンスは問いかけた。




「もしかして、探しているのは……シルヴェーヌお姉さまですか?」


「君、シルの妹?」




 ガブリエルがびっくりしているのは、あまりにもコンスタンスとシルヴェーヌが似ていないせいだった。


 コンスタンスはジュネ伯爵似の平凡顔で、今は化粧まで流れ落ち、顔面が崩壊している。


 天使のように可憐なシルヴェーヌとの繋がりは、どこにも感じられないだろう。




「ジュネ伯爵家のコンスタンスと申します。私も、お姉さまを追いかけて、ここまで走ってきたのですが……見失ってしまって」


「シルは、あっちへ走っていった?」




 ガブリエルが指さすのは、離宮のある方角だ。


 コンスタンスは頷く。


 それを見て、ガブリエルはホッと肩の力を抜いた。




「よかった。会場のどこにもいなくて、心配していたんだ。デザートを食べて、待っていると思っていたのに」




 もしかしたらシルヴェーヌは、慣れないパーティに疲れて、先に帰ったのかもしれない。


 そう思ったガブリエルだったが、コンスタンスの言葉がそれを裏切った。




「お姉さまは、おそらくドレスを故意に汚されたのだと思います。デビューしたての令嬢が、必ずどこかで受ける先輩からの洗礼ですわ」




 目立つドレスや、麗しい令嬢ほど狙われるのだと、コンスタンスは説明する。


 それを聞いて、血の気が引いたのはガブリエルだ。


 王子さまの役目を引き受けたのに、大切なシルヴェーヌを護ることができなかった。




「教えてくれて、ありがとう」




 コンスタンスへ言い残し、ガブリエルは走り出す。


 どれだけロニーと特訓をしても、シルヴェーヌの足の速さには敵わなかった。


 だけど今だけは、シルヴェーヌに追いつきたかった。




(あれほど喜んでいたドレスを汚されて、シルは絶対に悲しんでいる。早く僕が慰めないと――)




 しかし、離宮でガブリエルを待ち受けていたのは、認めたくない現実だった。

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