ターラは頭を抱えてしゃがみこむ。
それをすかさず神様が支えた。
強張るターラの体を、神様は優しく抱擁する。
あまりの痛みに目を開けていられずに、ターラはぎゅっと瞼を閉じた。
(予想していた痛みと、違う――)
もっと全身を貫くような、一度限りの痛みだと思っていたが、そうではなかった。
ターラの頭蓋骨を粉砕せんばかりに、容赦ない連続した激痛が襲いかかってくる。
「うう……っ」
「探すんだ、ターラ。傲慢な欲望の中から、小さな助けを求める声を。それを聞き届けることが、神になるためには必要だ。ターラなら出来る。自分のことよりも、他人のことを思いやるターラなら、必ず」
いつもより大きな声で、神様がターラを励ます。
ガンガンと響く痛みの矢の猛攻に、負けたくないターラは、握りこぶしをさらに握り込む。
それに気がついた神様が、ターラの握りこぶしを、大きな手のひらで包み込んでくれた。
(温かい……神様の手)
ホッとしたターラは、神様の手の温もりと同じ感覚を、頭の中に見つけた。
(もしかして、これが声? 小さいけど、一生懸命なのが伝わってくる)
乱暴に暴れまわる矢の間、か細く光る糸のようなものがある。
キラッと煌めいては、かき消されるそれは、水面に反射する魚の背びれのように、とらえどころがない。
(待って、消えないで。あなたの声を、聞かせて)
飛び交う矢を掻い潜り、ターラの意識が光を探す。
そして、底の方に怯えるように、小さな光が集まっているのを見つけた。
『怖い……』
『痛い……』
『悲しい……』
『助けて……』
かそけき声がターラに届いた。
神様が握りこぶしを包み込んでくれたみたいに、ターラの意識が光たちを包み込む。
(環境が良いものとなりますように。体の痛みが和らぎますように。心の傷が癒えますように。あなたたちへ、信仰の光が届きますように)
ぎゅうと抱き締めると、ターラの頭の中に、真っ白な光が満ちた。
その光は瞬く間に広がり、暴れ回っていた矢を消滅させていく。
ターラの意識が包んだ救いを求める声も、真っ白な光の中に粒となって溶けていった。
そして完全に無となった脳内に、ターラの知らない声が響き渡ったのだ。
『ここに、ターラマヤヴィーアの誕生を祝す』
「ターラマヤヴィーア……?」
そっと目を開くと、微笑んだ神様がターラを覗き込んでいた。
「おめでとう、ターラ。神としての、名前をもらえたな」
「神としての名前?」
「人には知られていないが、神には名前があるのだ。私の名前は、ガーシュヴィストルーゼ。意味は、人々に望まれし者」
「ガーシュヴィストルーゼ……さま」
「これからは、ガーシュと呼んで欲しい」
嬉しそうな神様の顔に、呼ぶところを想像してしまったターラは頬を染める。
「私の、ターラマヤヴィーアとは、どういう意味ですか?」
「魂を導く者だ。ターラは、魂の浄化が出来るようになった」
魂の浄化――それは黒ずんだ魂に、光を与えること。
母親代わりだったターラが、シャンティにしてあげられなかったこと。
心の中で、ターラはシャンティに誓う。
助けたかったシャンティの分まで、これからは魂を救っていくと。
ターラマヤヴィーアとなった今ならば、それが出来るのだ。
◇◆◇
「神様がシャンティと一緒に人の世に下りたのは、人の死がどんなものか、知りたかったからですか?」
「ガーシュ」
どうやらその名前で呼ばないと、神様は返事をしてくれそうにない。
ターラは、初めてのことに緊張しながら、小さく呼んでみる。
「……ガーシュさま」
「さまは要らない」
「……ガーシュ」
それでいいと頷いて、神様はターラの質問に答える。
「それもあるが、ターラと距離を置いてみたかった。ターラが傍らにいない状況で、果たして思い出だけで生きていけるのかどうか、試したかった。その二つの意味で、子の提案は私にとって、価値あるものだったのだ」
「人の死を、実験的に扱うことは、決して良いことではありません」
「人の倫理というやつだな。私も人の世に下りて、少しは学んだ。街から街へ旅する間、人の話し声を聞き、人のする行為を見た」
今は神の森の中、木陰のある大樹の根元に二人で腰かけ、暑い夏の日差しから逃れている。
闇夜より黒い髪をたなびかせ、星空に似た蒼い瞳をきらめかせる神様の姿は、またしてもターラの心にスケッチされる。
いくら髪や瞳の色を変えたとしても、この美貌が人の世に放たれてしまって、何もなかったのが不思議だ。
騒乱が起きてもおかしくないほど麗しい神様の横顔に、ターラは質問を投げかける。
「人を見て、どう思いましたか? 先代の神殿長は、ガーシュが人の影響を受け過ぎないか、心配していました」
「とても興味深かった。最初は私の考察が追い付かず、訳が分からなかったが、そのうちに法則が見えてきた。人は社会という集団でしか生きられない。所属する集団から弾かれないため、守るべき数多くの決まりがある。……倫理というのも、そのうちのひとつだろう?」
最後は少しだけ自信がなさそうな神様だったが、神の森にいた頃よりは見た目も大人びているし、しゃべりかたも流暢になっている。
人の世に下りて、成長したのは間違いない。
何しろ、ここを出て行く前の神様は、口づけなんて知らなかったはずなのだから。
「人を嫌いにはなりませんでしたか? 人には色々な顔があります。略奪をはたらく乱暴者が、家では良い父親であったりするのです。そうした相反するものを、人は少なからず持っています」
これはターラにも当てはまる。
妹のメリナや娘と思っていたシャンティに、いつも清い心ばかりで接してきたとは言えない。
ターラが苦い思いを噛みしめていると、神様は複雑な顔をした。
神様も、ターラが襲われた傲慢な欲望の矢に、激痛を感じながら生まれてきた。
ターラは神様から、対処する方法を教えてもらえたからすぐに神になれたが、神様はどうしていいか分からず、もっと長く人に苦しめられた。
そしてその中から、小さな助けを求める声を聞き届け、神様も神になった。
人が強くも弱くもある存在なのは、もしかしたら神様が一番、知っていることなのかもしれない。
「人が単純であれば、おそらく私は生まれていない。魂の色が変わるように、人も変わりゆく。神という存在は、人のための存在だ。人はうまいこと神を利用して、より良い人生を送ればいいのに、とは思った」
ターラが考えていたよりも、神様は人に対して大らかで大雑把だった。
「ターラが人でなかったら、ここまで人に対して興味を持つこともなかった。やはりターラには、私の傍らにいてもらわなくてはならない」
そう言ってターラを腕に囲む神様。
すりすりと頬をこすりつけてくる様が、愛おしい。
思いを通じ合わせたターラも、神様に腕を回す。
「おかえりなさい、ガーシュ。……待っていました」
「ただいま、ターラ。もう離れたくない」
人と神であったころは、結ばれるはずもなかった二人が、集まった祈りの力によって夫婦となる。
神様の幸せをひたすらに願い、行動に移してきたターラの思いが、ここに来て報われた。
「ずっと幸せになって欲しかったんです。そればかり、祈っていました」
「知っている。ターラの声は、とても光っているから。私の幸せを祈る声を聞いたのは初めてで、驚いた」
「……ガーシュ、幸せですか?」
「ターラが傍らにいる限り、私は幸せだ」
夏の空の青さが、どこまでも続く。
ターラの心に、神様との思い出が、またひとつ増えた。
神様が神の森に戻ったこととターラが神になったことを、神殿長へ報告しに行こうとしたターラに、離れたがらない神様がついていくと駄々をこねて、ひと悶着を起こすのはこのあとすぐだ。