神様の誕生と偉業を伝える美しい布絵の噂は、瞬く間に広まった。
長い年月をかけて完成したパッチワーク布絵を絶賛してくれた神殿長が、神殿に祈りを捧げに来る人たちの目に留まりやすいよう、布絵を神殿の入り口、しかも真正面に掲げてくれたのだ。
自分たちに近しい人型の神様の姿を初めて見た人々は、ターラと同じように胸を打たれて感動し、涙を流す者がほとんどだった。
好評を博した大きな布絵を前に、これまで一緒にパッチワーク制作をしてきた同志たちと、ターラは労い合う。
多くの人々に、神様をより身近に感じてもらえるとを喜びながら。
ここに到るまでの3年間、実は悲しい出来事もあった。
妹メリナが病死したのだ。
ターラは最後に会ったメリナのやせ細った姿と、やり遂げたような笑顔を思い出す。
◇◆◇
ターラがパッチワーク制作に従事し出して、数か月が経った頃だった。
父であるドルジェ子爵から、言葉少ない一通の手紙が届いた。
『頑張っているところ本当に申し訳ないが、できれば近いうちに一度、家に戻ってきてくれないか。事情はそのときに話す』
神殿に仕える者は、家名を名乗らなくなるだけで、家から絶縁されているわけではない。
実家との手紙のやり取りはもちろん、暇請いをして数日ほど実家に戻る者もいる。
ターラから父へ、今こんな活動をしていると、パッチワーク制作について手紙を書いたこともある。
また弟ビクラムから、学校でこんな成績を取ったから誉めて欲しいと、可愛い手紙を受け取ったこともあった。
温かいやり取りが多かった手紙に、不穏な影が落ちたのは初めてだった。
パッチワーク作業の簡単なところはターラの手を離れ、出来る者同士で助け合いながら進んでいたこともあり、ターラは神殿長に数日の帰省を願い出た。
とにかく帰ってみないと、事情が分からない。
不安を胸に子爵家へ戻ったターラだったが、そこで父から、メリナが婚約解消されたと聞かされる。
「どうしてですか? メリナはもうすぐ産み月でしょう? それなのに……」
お腹が大きくなったメリナの体調を慮って、結婚式は出産後に催すと決まっていた。
体形を元に戻してから花嫁衣装を着たいという、メリナの我がままもあったようだ。
「それが……死産してしまったんだ。しかも原因は、アロンさまからうつされた性病だった」
アロンの子を妊娠したと分かって婚約者になったメリナは、ターラとは違ってオーディー伯爵家で暮らし始めた。
そこでアロンの母からオーディー伯爵家のしきたりを教わりながら、花嫁修業のようなことをしていたらしい。
オーディー伯爵はメリナの腹の子を大切に扱い、アロンにメリナと同衾するのを禁じた。
これに腹を立てたアロンは、妊婦のメリナを家に残し、さんざん夜に遊び歩いたそうだ。
メリナはアロンの浮気に焦った。
そして安定期に入ったのを理由に、アロンを閨へ誘ったのだ。
「メリナは早計だった。不特定多数の女性と関係を持ったアロンさまは、その時点でもう性病を患っていたのだ。しかし、アロンさまの気持ちを引き留めようと、メリナは必死だったらしい。こうなるまで、自分が性病に罹ったとは思い至らなかったようだ」
メリナは体温の高い日が続いたかと思うと、突然の大量出血とともに腹の子を死産してしまった。
その後は、悪露が止まらず、一時的に危篤状態へと陥ってしまうメリナ。
ドルジェ子爵が大枚をはたいて高名な医者を呼び、なんとかメリナの命を繋いでもらったが、下された診断は非情なものだった。
『性感染症による胎児奇形からの死産。母体の臓器にも異常が見られる。免疫力の低下が顕著で、余命は長くて半年』
それまでメリナを歓待していたオーディー伯爵家は、手のひらを反すように婚約を解消してきた。
性病を持ち込んだアロンは後継者から外され、これで手打ちとばかりに、オーディー伯爵は完全に知らんぷりを決め込んだ。
寝たきりとなったメリナを連れて帰ってきたドルジェ子爵は、出来る限りの手を尽くした。
しかし、刻一刻と命が削られていくメリナを見て、これ以上の回復を諦めざるを得なかった。
「もう、メリナに残された時間は長くない。ターラ、お別れをしておいた方がいい」
そう話すドルジェ子爵の目は、ずっと涙で濡れていた。
ターラは予想していたよりも深刻な事態に、言葉もない。
なんでもターラのものを欲しがるメリナに、嫌気がささなかったわけではない。
それでも、死んでもいいとは思ったこともなかった。
「メリナは……部屋に?」
「歩けなくなってしまってね。もう何日も、ベッドで寝たきりなんだ」
ターラはとにかくメリナに会ってみようと思った。
何かが出来るわけではないけれど、一人でいると心も沈むだろう。
免疫力が低下しているメリナに会うには、鼻と口を隠す布をつけ、服を前掛けのようなもので覆い、手指を消毒する必要があった。
ツンと鼻にささる消毒液の臭いは、ここに病人がいると強く感じさせる。
「メリナ? ターラよ、入るわね?」
声をかけるも、部屋からの返事はない。
ターラはそっと扉を開けて、中へ入った。
メリナの部屋は、ターラの部屋と大きさは変わらず、ベッドの場所も同じだ。
勝手知ったる間取りに迷わず、ターラは寝そべるメリナを見つける。
ぼうっと天井を見上げるメリナは、ターラの記憶にあるよりもずっとやせ細り、虚ろな瞳には生気がなかった。
ターラはベッドの脇に跪いて、言葉を選びながらメリナに話しかける。
「メリナ、お父さまから話は聞いたわ。つらい思いをしたわね」
「……」
「私には何の力もないけれど、一緒に神様へお祈りすることは出来るわ」
「……神様?」
そこで初めてメリナが反応を返した。
「神様は、大きな悲劇に見舞われた人がすがる最後の希望、見えない心の傷を癒す至高の光よ」
「……」
メリナは言葉を返しはしなかったが、明らかに視線がターラに向いたので、ターラは続きを話す。
「これまで私は、神様の姿を知らなかったけれど、神殿に仕えるようになって、神様の誕生と偉業を伝えるステンドグラスを見たの。そこで、神様が艶やかな長い黒髪で、星空のような蒼い瞳であると知ったわ」
「神様って、本当にいるのね……」
「いるわ。私は神殿で神様の存在を確かに感じたもの。そのステンドグラスを見たときは、あまりの神々しさに、涙が出たわ」
メリナは引き込まれるようにターラの話を聞いている。
心なしか、先ほどよりも瞳に力があるようだ。
跡継ぎとなるはずだった子を失い、夫となるはずだったアロンを失い、嫁ぐはずだったオーディー伯爵家を失ったメリナ。
しかも宣告された余命は、長くて半年。
この世への絶望を抱えたメリナが、次に向かい合わなくてはならないのは、迫りくる死だった。
死への旅路はいつだって一人。
そこに寄り添えるのは、心の中に宿す信仰の光しかない。
「お姉さま、覚えてる? お母さまが亡くなったときのこと。……私は悲しくて、わあわあ泣いていたけど、お姉さまはずっと手を組んで、何かを祈っていたわ」
メリナが、小さな声で、必死に話す。
それさえもきついのだろう。
ふうふうと呼吸に合わせて、胸が大きく上下していた。
「私は不思議だった。あんなことをしても、お母さまは帰ってこないのにって。……でも今、少し分かったわ。私がわあわあ泣いたって、お母さまは帰ってこなかった。だったら、神様に祈るほうがよっぽどいいのよ」
ふーっと、長く息を吐き、メリナが目を閉じる。
これだけ話すのも、もしかしたら久しぶりだったのかもしれない。
疲れを見せるメリナに、ターラは心が騒いだ。
ターラが思っていた以上に、メリナとの別れは近そうだ。
「お姉さま……祈ってくれる? 私の死出の旅が、怖くもなく痛くもなく苦しくもないように。すぐにお母さまと赤ちゃんに会えるようにって。お姉さまが見たという、神様の姿に――」
あらゆるものを欲しがったメリナが、最後に欲したのはターラの祈りだった。