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ナツ恋。 ②

「……あの、千藤さんですか? わたし、今日から夏の間お世話になる相川愛美ですけど」


「ああ、君が! 千藤です。田中さんから話はうかがってますよ。さ、後ろに乗って! 母さん、荷物を乗せるの手伝ってくれ!」


 千藤さんが助手席に乗っている女性に声をかけた。夫婦ともに、六十代後半だと思われる。


「はいはい。ちょっと待ってね」


 千藤夫人――名前は〝多恵たえさん〟というらしい――に手伝ってもらい、愛美はスーツケースと段ボール箱三つ分の荷物をライトバンのトランクに積み込み、自分はスポーツバッグだけを抱えて後部座席に乗り込んだ。


「――さっきはありがとうございました。改めて、相川愛美です。今日から一ヶ月間よろしくお願いします」


「愛美ちゃんね? こちらこそよろしく。あなたには一ヶ月間、農園のこととか色々覚えてもらうから。お手伝いお願いね」


「はいっ! 頑張ります!」


 多恵さんの言葉に、愛美は元気よく返事をした。


 これは社交辞令なんかではなく、彼女は本当に張り切っているのだ。誰だって、初めてのことを覚える時はワクワクドキドキする。

 さすがに横浜に住んで三ヶ月半も経つので、都会での暮らしやスマホの使い方には慣れてきたけれど。農園での生活や農作業は初めての経験なので、どんなことをするのか楽しみなのである。


「いやぁ、『横浜のお嬢さま学校に通ってる女子高生を一ヶ月預かってほしい』って田中さんに頼まれた時は、どんなに気取ったお嬢さんが来るのかと思ったけど。愛美ちゃんは全然気取ってないからホッとしたよ」


「そうなんですか? わたし、全然お嬢さまなんかじゃないですもん。育ったのは山梨の養護施設ですよ」


「養護施設? ――じゃあ、ご両親は……」


 多恵さんが表情を曇らせたので、愛美は努めて明るく答えた。


「わたしが幼い頃に、事故で亡くなったって聞かされてますけど。でも、それを悲観したことなんかないですから。ちゃんと人並みに育ててもらって、義務教育を卒業できたから」


 それに、両親が亡くなる前に自分に精いっぱいの愛情を注いでくれていたことも分かっているから。


「それに、今じゃいい高校に入学させてもらえたし、いいお友達にも恵まれましたし。わたしは幸せ者です」


 それもこれも、全て〝あしながおじさん〟のおかげだ。愛美は彼に、どの瞬間も感謝の念を抱いている。


(あと、この夏、ステキな一ヶ月間を過ごせるのも……ね)


 ――愛美の期待とほんの少しの不安を乗せた白いライトバンは、ガタガタの田舎道を車体を揺らしながら走っていった。


「――さ、着いたよ」


 千藤夫妻が農園をやっているのは、長野県の北部にある高原。近くには温泉もあり、少し北に行けばもう新潟県というところである。


「わあ……! ステキなお家ですね!」


 愛美は千藤家の外観に、歓声を上げた。

 そこはいわゆる〝昔ながらの農家〟という感じの日本家屋かおくではなく、洋風のつくりの二階建てで、壁の色はペパーミントグリーンだ。


「ここは元々、〈辺唐院グループ〉の持ち物で、純也っちゃんの別荘だったのよ」


「えっ、純也さんの!?」


 多恵さんの口から思いがけない名前が飛び出し、愛美は目を丸くした。


「ええ、そうだけど。愛美ちゃん、純也坊っちゃんのことご存じなの?」


「はい。五月に一度、学校を訪ねて来られたことがあって。わたしがその時、姪の珠莉ちゃんに代わって校内を案内して差し上げたんです」


 愛美は純也と知り合った経緯を多恵に話した。――ただし、実はその時から彼に恋をしている、という事実は伏せて。


「そうだったの。――私は昔、あの家で家政婦をやっててね。そのご縁で、私が家政婦を引退した時に坊っちゃんが私にこの家と土地をぞうして下さって。それでウチの人とここで農園を始めたのよ」


(ここがまさか、純也さんの持ち物だったなんて。……あれ? じゃあ、おじさまはどうやってここのこと知ったんだろう?)


 愛美は首を傾げる。〝あしながおじさん〟――つまり田中太郎氏と純也は知り合いということだろうか? もしくは、秘書の久留島栄吉氏と。


(……あれ? ちょっと待って。確か『あしながおじさん』では――)


 あの小説では、〝あしながおじさん〟イコールジュリアの叔父ジャーヴィスだったはず。でも、まさか純也が〝あしながおじさん〟だなんて! あまりにもありきたりな展開だ。「あり得ない」と、愛美の頭の中でもう一人の愛美が言っているような気がする。


(……まあいいや。おじさまに直接手紙で確かめよう)


「――愛美ちゃん、荷物を部屋まで運ぼう。車から降ろすから、手伝っておくれ」


 考えごとをしていると、千藤さんが愛美を呼んだ。


「はいっ!」


 愛美の荷物なのだから、千藤さんに手伝ってもらうのはいいとしても、愛美が彼を手伝うのはおかど違いだ。


「ヨイショっと。――先に荷物だけ送っといてもらってもよかったんだけどね」


「ありがとうございます。すみません。なんか、先に荷物だけ届いてもご迷惑かな、と思ったんで。……っていうか、そもそも思いつかなくて」


 本が詰め込まれた重い箱を持ち上げた千藤さんを手伝いながら、愛美は「その手があったか」と目からウロコだった。


「いやぁ、迷惑なんてとんでもない。本人が後から来るんだったら同じことだよ。……や、ありがとうね」


 多恵さんにも手伝ってもらい、三人でどうにか全ての荷物を降ろし終えると、次は二階にあるという愛美の部屋にこれらを運ぶという大仕事が。

 そこで、千藤さんは畑で何やら仕事をしている若い男性に呼びかけた。


「おーーい、あま君! ちょっと来てくれ!」


「――はい、何すか?」


 呼ばれてやって来たのは、よく日に焼けた二十代前半くらいのツナギ姿の男性。彼が〝天野〟さんだろう。


「このお嬢さんが、今日から一ヶ月ウチで面倒を見ることになった相川愛美ちゃんだ。天野君には、この子の荷物を二階の部屋まで運ぶのを手伝ってやってほしいんだ」


「相川愛美です。よろしくお願いします」


 天野という青年は、愛美から見るとちょっと取っつきにくいタイプの人みたいに見えるけれど。


「よろしく。――運ぶのコレだけ? じゃ、行くべ」


 はにかんだ顔でペコリと愛美に会釈すると、段ボール箱を三つともヒョイッと抱えて階段を上っていく。

 愛美もスーツケースと折りたたんだスチール製のキャリーだけを持って、彼の後をついて行った。


「――天野さんって、いつからここで働いてらっしゃるんですか?」


「んー、もう三年になるかな。親父さんもおかみさんもいい人でさ、居心地いいんだよな。ちなみにオレ、下の名前は〝恵介けいすけってんだ」


 ちなみに、年齢は二十三歳だという。


「ここが、愛美ちゃんの部屋だ。眺めは最高だし、ここは何て言っても星空がキレイなんだ」


「へえ……。わ、ホントだ! すごくいい眺め」


 窓から見渡せる限り山・山・山。とにかく自然が多い。それに、冷房もついていないのに涼しい。

 山梨の山間部で育った愛美には、確かに居心地がよさそうな環境である。


「もうちょっと中心部まで行けば観光地で、店もいっぱいあるし。冬はスキー客でにぎわうんだけど、夏場はホタルを見に来る人くらいかな」


「ホタル? 近くで見られるんですか? ロマンチック……」


「うん。オレも夏になったら、よく彼女と見に行くんだ」


「彼女……いらっしゃるんですか?」


 愛美がギョッとしたのに気づいた天野さんは、ちょっと気まずそうにプイっと横を向いた。


「あー……、うん。ここで一緒に働いてる、平川ひらかわおりっていうコ。――まあいいじゃん、その話は。荷物置いとくから、適当に片付けて。じゃ、オレはまだ畑での仕事残ってっから」


「あ、はい。ありがとうございました」


 ぶっきらぼうに言い置いて、愛美の部屋を出ていく天野さん。


(もしかして、照れてる……?)


 愛美は彼の態度の理由をそう推測した。見かけによらず、シャイな青年なのかもしれない。


「――さて、と。荷物片づける前に」


 愛美はスポーツバッグから、レターパッドとペンケースを取り出し、部屋の窓際にあるアンティークの机に向かった。


「あしながおじさんに、『無事に着きました』って報告しよう。あと、さっきのことも確かめないとね」


 レターパッドの表紙をめくり、そのページにペンを走らせる。



****


『拝啓、あしながおじさん。


 お元気ですか? わたしは今日も元気です。

 ついさっき、長野県の千藤農園に着きました。まだ荷ほどきもしてないんですけど、ここに無事に着いたことをおじさまに知らせたくて。

 ここは自然がいっぱいの場所で、昼間の今でも冷房なしですごく涼しいです。横浜の暑さがウソみたい。同じ日本の中とは思えません。

 ここで三年働いてる天野さんのお話によると、中心部は観光地で、スキー場に近いので冬はスキー客で賑わうそうです。でも、夏場はホタルの見物客くらいしか来ないみたいです。あと、星空もキレイなんだそうです。

 すごくロマンチックでしょう? わたしもいつか、純也さんと一緒にホタルが見られたらいいな……。

 あ、そうそう。〝純也さん〟で思い出しました。わたし、おじさまにお訊きしたいことがあって。

 おじさまはどうやって、この農園のことをお知りになったんですか? もしくは、秘書さんかもしれませんけど。

 どうして知りたいかというと、こういうことなんです。

 この農園の土地と建物は元々、辺唐院グループの持ち物で、純也さんの別荘だったそうです。

 で、千藤さんの奥さまの多恵さんは昔、辺唐院家で家政婦さんとして働いていらっしゃって、家政婦さんをお辞めになる時に純也さんからこの家と土地をプレゼントされて、ご夫婦でこの農園を始められたそうなんです。

 まさか、ここに来て純也さんの名前を聞くとは思わなかったんで、わたしは本当にビックリして。「もしかして、純也さんが〝あしながおじさん〟!?」とか思っちゃったりもしたんですけど……。まさか違いますよね? だってそれじゃ、『あしながおじさん』の物語そのままですもんね?

 とにかく、自然がいっぱいのここの環境は、山で育ったわたしには居心地がよさそうです。千藤さんご夫妻が、農業のこととか色々教えて下さるそうで、わたしはそれがすごく楽しみです。

 おじさま、こんなステキな夏をわたしにプレゼントして下さって本当にありがとうございます! 感謝の気持ちを込めて。     かしこ


                  七月二十一日    愛美』


****



 ――荷解きをしているうちに、夕方の六時を過ぎていた。


「愛美ちゃん、ゴハンにしましょう!」


 多恵さんが二階の部屋まで、愛美を呼びに来た。


「はーい! 今行きます!」


 すっかりお腹がペコペコの愛美が一階のダイニングキッチンに下りていくと、キッチンでは多恵さんの他に若い女性も料理の盛り付けをしているところ。

 肩にかかるくらいのセミロングの髪をした、身長百六十センチくらいの女性。――彼女が佳織さんだろうか?


「――あの、わたしも何かお手伝いしましょうか?」


 愛美が声をかけると、多恵さんがニコニコと指示を出してくれた。


「あらそう? じゃあ、盛り付けたサラダとスプーンとフォークをテーブルまで運んでもらえる? ――佳織ちゃん、食器のある場所、愛美ちゃんに教えてあげて」


「はい、おかみさん」


 〝佳織ちゃん〟と呼ばれたその女性が、こころよく返事をした。


「愛美ちゃん、食器棚はコレ。スプーンは左の引き出し、フォークは真ん中ね」


「はい。――えっと、平川佳織さん……ですよね? 天野さんとお付き合いしてるっていう」


 人数分のカトラリーを取り出しながら、愛美がそれとなく訊いてみると。


「……んもう。あの人ってば、もう愛美ちゃんに喋っちゃったんだ?」


 佳織さんは、顔を真っ赤に染めてそう言った。どうやら、天野さんの話は本当らしい。


「あたしと彼の関係は、ご主人とおかみさんには内緒なの。……まあ、気づいてらっしゃるかもしれないけど。彼はあたしより三つ年上なんだけど、農業に対する姿勢とか、そういうところがステキだなって思ったんだ」


「それで恋しちゃったんですね。天野さんも、佳織さんも」


 佳織さんは照れながらも、「うん」と頷いた。


「恋する気持ちだけは、誰にも止められないからね。――愛美ちゃんは、好きな人いるの?」


「……はい。実は、純也さんなんです。ここの元の持ち主だった」


「えっ!? そうなの? うーん、そっか。頑張ってね」


「はいっ!」


 まさかこの場で、ガールズトークが盛り上がるとは。愛美は佳織さんのことを、この短時間で身近に感じられるようになった。


「――さて、早く夕飯の支度終えないと。テーブルでウチの腹ペコどもが騒ぎ出しちゃうね」


「そうですね。じゃあサラダとコレ、お盆に載せて運びます」


「うん、お願い」



   * * * *



 ――夕食のメニューは夏野菜たっぷりのカレーライスとサラダ、デザートにはこの農園の果樹園で採れたフルーツ入りのヨーグルト。

 そして、農業が初体験の愛美のおかしな質問によって、とても賑やかで楽しい食卓となった。 


「――多恵さん。昔の純也さんのお話、もっと聞かせてもらえませんか?」


 多恵さんと佳織さんと一緒に、食後の洗いものの片付けを手伝いながら、愛美は多恵さんに頼んでみた。


「えっ、坊っちゃんの話?」


「はい。わたし、大人になってからの純也さんのことしか知らないから。もっとあの人のこと知りたいんです。多恵さんなら色々ご存じなんじゃないかと思って」


 好きな人のことなら、何でも知りたい。そして、ここには昔のあの人のことをよく知っていそうな元家政婦さんがいる。


「いいわよ。じゃあ、ここが片付いたら私について来てちょうだいな」


「いいんですか? ありがとうございます!」


 多恵さんは愛美の頼みを快諾してくれた。彼女に聞こえないように、佳織が声をひそめて愛美にささやく。


「よかったね、愛美ちゃん。純也坊っちゃんのお話、聞かせてもらえて」


「はい。――あ、このお皿、どこにしまったらいいですか?」


 愛美は張り切って、水切りが終わったカレー皿を取り上げた。



   * * * *



 ――愛美が多恵さんに連れられて来たのは、この家の屋根裏部屋だった。


「純也坊っちゃんはね、子供のころ喘息ぜんそくわずらってらして。十一歳くらいの頃の夏に、ここでご静養なさってたの。私も一緒にここに滞在して、坊っちゃんのお世話をしてたのよ」


「えっ? 喘息……」


 つい最近会った純也さんからは、そんな様子は感じ取れなかったけれど。


「今はもう何ともないそうよ。それに、発作さえ起きなければ、普段はお元気そうだったし。冒険好きのお子さんでね、ほとんど毎日外を走り回ってらしたわ。それで、泥だらけになって帰ってらしたの」


「へえ……、そうなんですか。子供らしいお子さんだったんですね。……っていうのもヘンな言い方ですけど」


 愛美の言い方は、ある意味的をていたのかもしれない。

 お金持ちのお坊っちゃん、それも辺唐院家の子息なら、もっとツンケンしていて大人びている子供でもおかしくなかったはずなのに。珠莉を知っているから、余計にそう思うのだろうか。


「そうね。正義感もお強かったし、それでいていたずらっ子なところもおありだったわ。でも、そこが憎めないのよ。私も、母親になったみたいな気持ちで坊っちゃんのお世話をさせて頂いてたわ」


「フフフッ。多恵さん、純也さんが可愛くて仕方なかったんですね」


 愛美は微笑ましくその話を聞いていた。これが実の母親だったら、なんという親バカだろうか。


(なんか、今でもここに純也さんがいそうな感じがする。それも、無邪気な子供時代の)


 ――泥んこになるまで遊びまわって、帰ってきたら多恵さんに「お腹すいたー! おやつま~だ~?」とねだっている純也少年の姿が、愛美ののうに浮かんだ。


「中学を卒業されてからは、ここにはあまり来られなくなったんだけど。最近はきっと、お仕事がお忙しいのかしらねえ」


「そうですか……。でも、連絡は来るんでしょう?」


 彼はきっと、情に厚い人のはず。昔お世話になった恩人に連絡をしないわけがない。


「ええ。毎年、夏になるとお電話を下さるわよ。でも今年はまだだわね」


「そうなんですか。――多恵さん、色々教えて下さってありがとうございました」


 これだけ話を聞かせてもらえれば、愛美は満足だ。彼の幼い頃を知ったおかげで、彼のことをもっと好きになれる気がしたから。


「いえいえ、どういたしまして。――ねえ愛美ちゃん、もしかして坊っちゃんに恋してるんじゃないの?」


「……はい。でも、どうして分かったんですか?」


「フフッ。だって、私もオンナだもの。この年齢トシになってもね」


 多恵さんにも、愛美の彼への恋心はバレバレだったらしい。自分では、うまく隠していたつもりだったのだけれど。


(は~~~~、もうヤダヤダ! なんでこんなにダダ漏れなの!?)


 初恋ってこんなものだろうか? 「好き」という気持ちがうまく隠せなくて、思いっきり顔に出ているとか。 


(もうちょっとオトナになって、感情をうまく隠すスキルを身につけないと……)


 愛美はそう固く決心した。――それはさておき。


「多恵さん、わたしはもうちょっとここに残っててもいいですか? 多恵さんは先に下りて休んで下さい」


 愛美は彼女にそう言った。

 幼い頃の純也さんと、もう少し〝二人きりで対話〟したくなったのだ。彼の人となりをもっと知りたい。そして持ち前の想像力で、自分なりにその頃の彼のイメージを膨らませたい。


「ええ、どうぞ。じゃあ、私は先に休ませてもらうわね。愛美ちゃん、おやすみなさい」


 ――多恵さんが下の階に下りていくと、愛美は広い屋根裏部屋の隅から隅まで歩き回ってみた。


「……ん? 何だろ、コレ? 本……かなあ」


 手に取ったのは、ホコリを被った小さなテーブルの上にぞうに置かれていた一冊のハードカバーの本。タイトルは聞いたことがないけれど、どうも海外の冒険小説の日本語翻訳版らしい。


 表紙を開き、見開きの部分に見つけたおかしな落書きに、愛美は思わず笑ってしまった。

 そこには、子供が書きなぐったような字でこう書かれていた。


『この本が迷子になってたら、ちゃんと手をひいてぼくのところに連れて帰ってきてほしいです。辺唐院じゅんや』


「やだ、なにコレ? 可愛い」


 ここで静養していた頃に、純也が気に入って読んでいた本らしい。もうページはどこもクタクタだし、あちこちに小さな手形がついている。


「純也さんって、子供の頃から読書好きだったんだ……」


 初めて学校で愛美に会った時に、彼は「読書好きだ」と言っていたけれど。その原点がここにあったとは。


 この屋根裏に残されている彼の痕跡こんせきは、これだけではない。

水鉄砲、飛行機の模型、野球のボールやグローブ……。男の子が外で喜んで遊びそうなものがたくさんある。


(わたしも、子供の頃の純也さんに会ってみたかったな……。そうだ! 今度会った時、ここのこと彼に話してみようかな)


 彼はどんな顔をするんだろう? 照れ臭そうにするかな? それとも得意そうに微笑むのかな……?

 愛美は本を手にしたまま、自分の部屋に戻った。彼が夢中になって読み耽っていた本。その面白さを共有したいと思った。


 ――そしてその夜、愛美が昼間に書いた手紙には続きが書き足された。



****


『おじさま、今は夜の九時です。

 この手紙は午後に一度書き上げてましたけど、あのあと書きたいことが増えたので少し書き足します。

 夕食の後、多恵さんから純也さんの子供の頃のお話を聞かせて頂きました。

 彼は昔喘息があって、十一歳くらいの頃にここで静養してたそうです。でも発作が起きない時はお元気だったそうで、ほとんど毎日泥んこになるまで外で遊び回ってたらしいです。

 この家の屋根裏には、彼のお気に入りの本や遊び道具がたくさん残ってます。きっと、雨降りで外で遊べない時に、そこで過ごしてたんじゃないかな。

 彼は子供の頃から読書好きだったみたい。そして無邪気で素直で、正義感も強かったんだと多恵さんは教えて下さいました。

 わたし、彼の幼い頃のことを知って、ますます彼のことが好きになりました。お金持ちの御曹司で青年実業家の純也さんではなく、〝辺唐院純也〟という一人の男性として。決して打算なんかじゃありません!

 今度こそ、これで失礼します。おじさま、おやすみなさい。      』


****



 ――夏休みが始まって約一ヶ月が過ぎた。


 愛美も農作業にすっかり慣れ、夏野菜の収穫や採れた野菜での簡単なピクルスの作り方などをマスターした頃。千藤家に一本の電話がかかってきた。


「――はい、千藤でございます」


『もしもし、多恵さん? 僕だよ。純也だよ』


「純也坊っちゃん! お元気そうで何よりです。――あ、今こちらに相川愛美さんがいらしてるんですよ。ちょっと代わりますね」


 多恵さんは大はしゃぎで答えたあと、キッチンで手伝いをしていた愛美を手招きした。


「愛美ちゃん、純也坊っちゃんから。ハイ」


 リビングで彼女から受話器を受け取った愛美は、嬉しさと緊張半々で電話に出た。


「……も、もしもし。愛美です。あの、お久しぶりです」


 何せ、彼と言葉を交わすのは五月以来のことなんだから。


『うん、久しぶり。元気そうだね。そっちでの夏休みは楽しい?』


「はい! すごく楽しいし、色々と勉強になってます。千藤さんも多恵さんもよくして下さってるし」


 電話に出るまでは緊張していたのに、彼の声を聞いた途端にそれはすぐにほぐれてしまう。


『そっか、それはよかった。――あのさ、愛美ちゃん。僕は今年の夏も仕事が立て込んでてね。悪いけどそっちには行けそうもないんだ。そう多恵さんに伝えてもらえるかな? 申し訳ないんだけど』


「……はい、お忙しいんじゃ仕方ないですよね。分かりました。伝えておきます。――もう一度、多恵さんに代わりましょうか?」


 すぐそばで、多恵さんがまだ話したそうにソワソワと待っている。


『うん、そうしてもらえる? 悪いね』


「いえいえ。――多恵さん、純也さんがもう一度多恵さんに代わってほしいそうです」


 愛美は受話器の通話口を押さえ、多恵さんに受話器を差し出したのだった。 

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