その夜、僕は初めて手を握った。
無機質で冷たい肌。ずしりとした重み。柔らかな肉の下に感じる硬度。花に彩られた機械油の香り。
僕の初めて握った手は、ガシャガシャと音を立て、大口径の銃へと変形した。
「ありがとうございましたー」
クラス全員の声に合わせてそれっぽく口を開いた。放課後を迎えた教室は、瞬く間にガヤガヤとした音に溢れる。どこにこうか。なにをしようか。部活動に急ぐ足音も聞こえる。
青春と喧騒の中で、僕は淋しく鞄を閉じた。
この公立安達太良高校に転校してきて一ヶ月が経つが、まだ友達は出来ていない。部活にも入ろうかと考えたが、もう二年生だし、大して得意な物もないしと、部活動にすら入っていない。
サッと帰って、まだまだ散らかっている家の掃除でも――。
「もう帰っちゃうの? アキナシくん」
ぼっちに対して発せられるには上等すぎる声が、僕を引き止めた。
「もうやることもないしね。三井さんは?」
「私はこれからみんなに商店街を紹介してもらおうと思って。アキナシくんもどうかな?」
三井麗華。僕と同時期の転校生だが、僕と彼女では比べることもおこがましい差が存在する。かたや目立った特徴もない男子。かたや才色兼備の女子ときた。彼女がクラスのカースト上位に居座るまでに少しも時間はかからなかったし、本当に同じ人間かと疑うようなコミユニケーション力を持ち合わせている。
「いいよ、僕は」
「そんなこと言わないでよー」
三井さんは猫撫で声で迫ってくる。思わずぎょっと仰け反るほどの美貌を振りかざされれば、思春期の男子はイチコロだろうが……僕は耐えた。頑なに耐えた。
「ごめんね。じゃあ、また明日」
「アキナシくんのいけずー」という声を背に、僕は学校を後にした。
この街――安達太良町はこの付近ではそこそこの町になる。人情味豊かな商店街、リニューアルされたばかりの小さな駅、少し外れれば山に囲まれた住宅街だ。
商店街にある通い慣れ始めた小さなスーパーで、今晩と明日の朝の分のカップラーメンを手にした。
「いらっしゃいませ!」
店員の明るい返事と抑揚のある声。元気が行き過ぎて、もはや人間味を感じさせないが、それは正しい。
目の前で袋にカップラーメンを詰めている店員は、アンドロイドだ。
第三世代アンドロイド。戦闘用の第二世代をベースにつくられてはいるが戦闘能力は皆無に等しく、第二世代と同じく人間性は持ち合わせていない。ただ外見だけでは人間と区別がつかないので、いま単純な接客をアンドロイドに任せる店は少なくない。
温かく、けれど無機質な「またのお越しを」を背にしてスーパーを抜け出す。少し歩けば、安達太良高校の生徒のほとんどが居を構えているらしい住宅街に着くが、僕はさらに歩く。
高校を出て、商店街で買い物をし、住宅街を抜け、山道に入り、さらにその奥へ。
『この先、
僕が父親にあてがわれた家、というより洋館という方が適切な大きさの家は、ネットでは心霊スポットとして紹介されていた。僕が住み始めてからも何回か肝試しグループが訪れてきた試しがあったので、道中に「住んでますよ」のサインとして表札を立てている。
一ヶ月をかけて掃除はしたが、それでも未だに壁にはツタが張り付き、庭は雑草の不法入居が激しい。雑草からすれば僕が不法入居者なのかもしれないが……。心霊スポットだと言われてしまえば、否定は出来ない様相だ。
「ただいま」
一応の挨拶をしながらドアを開けると、積もったガラクタの山が僕を迎え入れた。元々は何かの施設だったことを想像させる無駄に豪華な装飾も埃が被ってしまっている。
これは父親の嫌がらせなのか。
引っ越しや転校をした回数はもう覚えていない。父親から『新しい家』の案内が送られてくれば、それが僕の移動の合図だ。根無し草のように定期的に住む場所を変えている。理由は分からない。物心がつくまえからそうした生活だったから、操り人形のように従っている。
大方、父親の職業が関係しているんだと察してはいるけれど。
一階の適当な部屋に鞄を放り投げ、キッチンへと向かう。買い物袋からカップラーメンを取り出し、お湯を注いだ。
買ったばかりの時計の秒針の音を、呆けた頭で聞きながら思い出すのは、帰り際の三井さんのことだった。
三井麗華。名前に恥じない可憐さだと思う。雑誌で見るような美貌に子犬のように人懐っこい態度は、思春期の僕には刺激が強すぎる。僕と同時に転校してきて一ヶ月。どれだけの男子が彼女に振られたのだろう。危うくその一人になりかけたことが、何度あっただろうか。同じ転校生だからと気にかけてくれるのは嬉しいけれど、仲良くなった所で僕はすぐに引っ越してしまう。
壊すためになにかを作るのは、明らかな罪だ。
――コンコン。
ノックの音がした。
「はーい」
保険屋か宗教勧誘か。それとも人の家に肝試しをしに来た罰当たりな人間か。面倒くさいなあと思いながらドアを開けると……そこにはメイドがいた。
メイド。
メイドだ。
黒のワンピースに白いエプロン。秋葉原とか創作で見るあれだ。古びて雑草だらけの洋館には、とてもじゃないが似合わない。
それに容姿もだ。肩口で切り揃えられた黒髪。少しつり上がった目元と、引き絞った弓のような口元は、大和撫子というには攻撃性を感じさせる。まるで刃のような美しさ。
風景とのミスマッチに、一瞬、幽霊だと本気で思った。
「え、えっと……」
言葉が出ない。困惑の渦にのまれて溺れる僕を見てか、メイドは深々と一礼をした。
「今日から御奉仕させていただきます、イチと申します。よろしくお願いいたします」
「は? なにを言ってるんだ」と喉まで出かかった。
これは新手の詐欺なのではないだろうか。それとも性的なサービスを悪戯でけしかけられたのか……。
「頼んでないんですけど」
「うちの息子をよろしくと、春夏冬シキミ様からのお申し付けです」
春夏冬キシミ。その名前が頭の中をぐるぐるした。それは紛れもなく憎たらしい父親の名前だ。
「帰ってもらえますか?」
続けて言う。
「うちの父親がどういうつもりでアナタをよこしたのかは興味もありませんし、迷惑ですので」
そう言い切って扉を閉めようとした、その隙間に白い手袋を嵌めた指が差し込まれる。
「春夏冬ヒイラギ様、お開けください」
「いっ、嫌です! ちょっと!」
力を込めて扉を引くが嘘のように動かない。両手で思いっきり引っ張っても、メイドの細い指はピクリともせず、それどころかこじ開けてきた。
「ようやく入れてくださいましたね」
違う。勝手に入って来たんだ。
「これからよろしくお願いいたします、ご主人様」
笑顔のつもりなのだろうか。
メイドは、刃先のように美しい顔を不器用に歪ませた。