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27・イザベラ、砕ける。




 *┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*




『ご主人さま、だいじょうぶ?』


 ポメラの背に揺られながら、うっかり船を漕いでいたようだ。


「ああ、ごめん……寝ちゃってた」


 ユフィリアは、じゅるっと口元に垂れかけた涎を指先で拭う。


『おそくなっちゃったもんね。落ちないように、気をつけてね〜』


 数日ぶりに訪れた貧民街は、《月夜の女神》を待ちわびていた人々で溢れていた。

 ちょうど流行病が重なって、怪我人の治癒のあとも方々の家々を巡る事になった。その後も、ポメラが見つけてきた一人暮らしの病人や、怪我人の治癒に翻弄された。


 ──レオは安静にしておけって言ったけど、あの状況を見たら、そんなお気楽はとても言えなかったはずよ?


 来てくれて有難う、月夜の女神様。

 先ほど訪れた貧民街で、赤く潤んだ目で微笑んだ少年の顔を思い浮かべると、ユフィリアの頬がおのずと緩む。


 背中の傷は表面こそ綺麗に治ってはいるものの、時々、深部から疼くような酷い痛みに襲われる。

 けれど無理をしてでも貧民街に赴いて良かったと、心から思った。


「ちょっと疲れちゃったみたい。このままウトウトしてて、いいかな……」

『いいよ。ご主人さまが落ちないように、ふかふかになっててあげる』


 もふもふの被毛に覆われた背中を平らかにすると、ポメラは舌足らずな子供の声で嬉しそうに言う。

 ユフィリアに身を委ねられるのが嬉しくて、光栄で……ユフィリアからは見えないけれど、銀狼の顔は幸せそうに微笑んでいる。


「ありがと……ポメラ……いつも、手伝って、くれて……」


 唇をもごもご動かしながら銀狼の背中に顔を埋めるも、両目はすでに閉じている。


『ううん。ご主人さまだって、あのとき死にかけてたぼくを助けてくれたでしょ? ご主人さまが嬉しいと、ぼくもとっても嬉しいんだぁ』


 《月夜の女神》を背中に乗せた銀狼の巨体は、満ちかけた月を背景にして、一文字に夜空を横切るのだった。




 *




 早朝の聖なる泉は、清らかな朝陽を浴びて銀製の皿のように輝いていた。


 煌めく水面みおもに一滴の雫──刹那、真紅の波紋が広がった。

 一滴、また一滴と、次々と落ちる鮮血が聖なる泉に赤い波紋を描いていく。


「……穢れは祓えても、聖水に浸したところで傷口は塞がらぬか」


 呟きながら、肘までたくし上げていた漆黒の騎士服の袖口を下ろす。

 二の腕を滴る血液が騎士服の袖に染みていくが、レオヴァルトは気にしていない。

 血液の染みは幸い、黒色の生地と同化してさほど目立たなかった。


 ──幾ら私とて。獅子と人型の混合種ともなると、流石に苦戦したな。


 魔獣との戦いで負傷することは滅多にないのだが、今朝のように多勢に無勢では仕方なかった。


 眩しいほどの朝陽を仰ぎ見て、レオヴァルトは、ふぅ、と大きく息を吐く。


 都外れの小さな集落への奇襲は、貧しい者たちが住まう場所だった。

 被害は少なかったものの、貧村への黒騎士の派遣に消極的なレイモンド卿は、レオヴァルトの補佐として、ほとんど素人の少年騎士をひとり寄越よこした。


 実戦経験はこれが初めてだと言ったその少年は、魔獣の巨体を目の当たりにして怯えながら身を固めるだけ。三体の魔獣討伐のみならず、レオヴァルトは少年騎士を擁護しなから戦う羽目になったのだった。


 ──くそ、レイモンドの奴……あんな子供を戦場に寄越して、殺す気なのか!


 虚空を睨め付け、ぎりりと奥歯を噛み締める。

 苛立ちを抑えながら聖堂の廊下を歩いていると、正面から望まぬ顔が近づいてくる。


「あら、奇遇だこと」

 耳障りな声は、数人の聖女を従えたイザベラだ。


「聞いたわよ。一人で魔獣三体を倒したのですって?」


 この女とは一言も口をききたくないが、すれ違いついでに応えてやる。


「……私一人じゃない、チーム戦だ」


 レオヴァルトは温度を感じさせない声で言う。


「もうひとりの黒騎士は及び腰で役に立たなかったのでしょう? ほとんどあなたの功績よ」 


 無視してそのまま通り過ぎようとすると、取り巻きの二人が「行かせない」とばかりに正面に立ちはだかった。


「ユフィリアったら。今朝も寝坊して礼拝に顔を出さなかったのよ?」

「婚約者のレオヴァルト様が功績を上げている最中に、のうのうといびきをかいて寝てるなんて……信じられないわ!」

「ほんと。救いようが無いクズっぷりね」

「聖女として教会に貢献してるところなんか、ろくに見たことない」


 取り巻きの聖女たちが口々にユフィリアをくさすのを、レオヴァルトは半眼で聞いている。彼女らの悪態に続いたのはイザベラだ。


「ねぇ。いつまでユフィリアの婚約者を続けるおつもり? この婚約は馬鹿げている。あなたほどの男がただの穀潰ユフィリアしの夫におさまるなんて。考えただけでもゾッとしますわ。その魔力と実力は、筆頭聖女の夫にこそ相応しい。ねぇ、皆さんもそう思うでしょう?」


 取り巻きの聖女たちは「そうよそうよ」と頷きながら同意する。

 レオヴァルトは無言のままを進めようとしたが、聖女の一人がまた邪魔をする。


「待って。いくら実力者でも、その態度は中央大聖堂の筆頭聖女イザベラ様に対して失礼じゃなくて?」


 レオヴァルトは一度ゆっくりとまたたいた。

 正直、今はとても疲れている。レイモンド卿の非道さに辟易もしている。

 加えて、耳に煩いだけの戯言と、あからさまなユフィリアの悪口まで聞かされたのだから、もう平静ではいられない。


「聖女イザベラは、聖騎士ルグランと婚約したんじゃないのか」

「いいえ。わたくしはいつでも、常に、自分の伴侶を選べる立場にあるのよ?」


 イザベラは、手を伸ばせば届く距離に立つ黒騎士を見上げる。

 すらりと伸びた長身。芸術的な肉体美を誇る彫刻のような佇まいに、端正な面差しを乗せたレオヴァルトの横顔に見惚れた。


 ──彼はわたくしの夫にこそ相応しい。

 レイモンド叔父様の考えは知らないけど、能無しのユフィリアはルグランと交わらせればいいのよ。お母様の容態がかかってるって脅せば、あの覚束ないルグランなんかどうだって動く……そもそも元はユフィリアが好いていた男なんだから、逆に感謝してもらいたいくらいだわ。

 それでグラシアを増幅させて、ユフィリアだけをヴェルダール皇帝陛下に差し出せばいい。だって陛下が所望されているのは、戦場でも怯まずグラシアを発揮し続ける、強靭な精神力を持った《聖女》なんだから。これ以上ユフィリアにぴったりな居場所はないじゃない。

 ああ、わたくしったら、なんて頭が良いの……!


 レオヴァルトの黄金の瞳が、冷酷なまでの鋭い光を宿し、イザベラを射抜いた。


「……どうやら買いかぶりが過ぎるようだ」

「買いかぶり? あらそうかしら。このわたくし自らが実力を認めたあなたを、と言っているのです。あなたはそんな自分を誇りに思って良いのよ?」


「ふははっ、それは。勘違いが甚だしいな!」

「ふふ、なぁに? どういう事かしら」


 形良い口元から漏れた笑い声に、イザベラも頬を緩めた。

 しかし気を良くしたのも束の間、レオヴァルトの次の一句に言葉を失った。


「自分を買いかぶっているのはおまえだ、イザベラ。おまえごときでは、この私を満足させられないと言っている」


 目を眇め、レオヴァルトはきっぱりと吐き捨てる。


「顔が赤いぞ。まるで餌を横取りし損ねた猿だな」

「なっ……! なんですって?!」


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