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──はいけい、つきよのめがみさま。
『これは、もじがかけないぼくのかわりに、がっこうにかよっているひとに、いっしょうけんめいたのんで、かいてもらいました。よごれたかみしかなくて、ごめんなさい』
まるで水の中にいるように、何も聞こえない。
ぼやけた視界に目を凝らす気力も、すでに失われている。
『つきよのめがみさま。このまえは、ぼくのおとうさんをたすけてくれて、ありがとうございました。めがみさまのおかげで、おとうさんはげんきになりました。ぼくや、いもうとたちに、またわらってくれるようになりました。しごとにも、またいけるようになりました。すごくうれしいです』
大きな黒い影が、目の前をゆったりと動くのがわかる。
その影が何か言葉を発しているけれど、無意識に耳をふさいだユフィリアには聞こえていない。
「……あうぅっ!」
痛みに堪えきれず漏らした声も、背中を打ちつける鞭の音に掻き消されてしまった。
けれど、名前も知らない貧民街の少年にもらった手紙の文言だけが、ひっそりと、ユフィリアの消えてしまいそうな精神力を支えていた。
『めがみさまに、おねがいがあります。ぼくがおとなのおとこになったら、ぼくとけっこんしてくれますか?』
このまま、消えてしまいたいとさえ思う。
こんな苦痛と屈辱に耐えねばならぬのなら、いっそ死んでしまった方がいい。
……けれど。
『もしもめがみさまがおよめさんになってくれたら、おとうさんや、いもうとや、となりのやさしいおばさんのけがやびょうきを、いつでもなおしてくれるよね?』
──私を……待ってる、人たちが、いる……から……
『へんじは、つぎにきたときにおしえてください。くるのを、まってます』
──今はまだ、終われ、ない…………。こんなところで、終われない。私は……《鳥篭》の外に出る……まだ見たことがない鳥篭の外の世界が見たい。そして……もっと多くの人たちと出逢うんだ……。
せめて《痛み》という感覚を消し去れたらいいのに。
自分を万能だと言った、あの魔法使いなら──レオヴァルトなら。この痛みすらも消せるのだろうか。
そんなことを、ふと思った。
「アアアッ!!」
堪えても堪えても、激痛に悶える背中と声はどうしようもなく。
『くるのを、まってます』
『くるのを、まってます』
・
・
・
少年の手紙の文言を、ユフィリアはただひたすら頭の中に巡らせていた。
どれくらいの時間が経ったろう。
とても長かったように思えるし、それほどでもないのかも知れなかった。
バン、と大きな音がして、施錠されているはずの部屋の扉が乱暴に蹴り開けられた。ユフィリアの背後に立っていた黒い影──レイモンド卿が、鞭を握ったまま振り返る。
辿々しい足音がしたと思えば、ゴスッ、と鈍い音とともに黒い影が床に倒れ込む。突然侵入してきた人物に殴りつけれたのだ。
──レ、オ……?
不思議だった。
ユフィリアはもう、おそらく自分を救うために駆けつけたこの人物が、
──レオ……? 来て、くれたの?
しっかりと両目が開かなくても、視界の端に映る姿と気配でそれがわかる。
蹴破られた扉を背にして、血相を変えたレオヴァルトが殴りつけた拳をそのままに、猛然と立っていた。
「レイモンド、ここで何してる! 仮にも貴様は聖職者じゃないのか、無抵抗な女ひとりを相手に何を……」
レイモンドの背中が眼前から消えた途端、レオヴァルトは二つの
そこにあるものの状態がすぐには把握できない。しかし、想像を逸脱した光景が目に飛び込んできたのは確かだった。
「ユフィ、リア……」
吐息にも似た、言葉にならない声が漏れる。
切り裂かれたような聖衣をかろうじて纏い、鮮血に染まった背中を天井にさらして弱々しく横たわる
──酷い傷だ……!
そっと両手を伸ばしたものの、彼女の苦痛と痛みを想像すれば安易に触れることさえも躊躇われる。
狼狽して言葉を失うレオヴァルトのすぐそばで、床に突っ伏していたレイモンド卿が含み笑いをしながらゆっくりと起き上がった。
「ふっ、安心しろ。この程度の傷、グラシアですぐに治る。それより、よくここがわかったな? 差し詰め聖女の誰かがおまえに密告でもしたのだろうが」
気狂いの戯言など耳に入らなかった。
意を決したレオヴァルトは、痛めつけられたユフィリアの身体を慎重に抱え上げる。
「痛むだろうが、少しの間だけ我慢してくれ」
「ううっ……!」
ユフィリアが苦痛に顔を歪めるのを気遣いながら、扉を出ようとするレオヴァルトをレイモンドが呼び止めた。
「わたしを殴った事を後悔するがよい。口外は自由だ。だが……おまえはわたしに《二つの命の手綱》を握られていると言う事を、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
勝ち誇ったような彼の口調は、レオヴァルトの怒りを逆撫でするものだ。
レイモンドに背を向けたまま立ち止まったその刹那、レオヴァルトは形良い眉をこれでもかと歪めた。
──私とて、こんな暴挙を甘んじて許すものか。あまつさえここは救いを求める者を擁護するはずの教会じゃないか。護るどころかこんな形で傷つけ、痛めつける行為を見捨てておけるはずがない。だが今は、ユフィリアの傷をどうにかするのが先だ……!
湧き上がる怒りを腹の奥に押しやりながら肩越しに目を向け、レオヴァルトが地を這うような低い声色で宣言する。
「貴様こそ覚えておけ。ユフィリアは私の妻になる人だ。貴様は勿論、もう誰にも指一本触れさせはしない」
急いで廊下に出たレオヴァルトの背後で腐った男の高笑いが聞こえる。
だがそんなもの、今はどうでもいい。
──ユフィリア、すまない。私がもっと早く駆けつけていれば……!
「グレースが君の部屋で待機している。痛いな……だがもう少しだけ頑張るんだ」
なるべく傷に触れないようにと配慮するレオヴァルトの両腕が、ユフィリアを優しく包むように横抱きにしている。
『くるのを、まってます』
『くるのを、まってます』
「…………レ、オ……来て、くれて……ありが、と……」
「いいから、今は喋るな」
『くるのを、まってます』
『くるのを、まってます』
──私……レオが助けに来てくれるのを、待ってたのかもしれない
レオヴァルトの体温のぬくもりを感じる。
揺れる感覚と傷の痛みに朦朧としながらも、ユフィリアは何度も反芻するあの声を、耳の奥で聴き続けていた。