目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報
22・レイモンド・ラーリエの黒い策略



*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*





「レイモンド司祭様!」


 真新しい聖衣を纏った神官が、勢い良く扉を開けて転がり込んだ。

 中央大聖堂の筆頭司祭・レイモンド・ラーリエ卿は、自室で教会の収支報告書を睨みつけている最中であった。


「なんだ、騒々しい」


 短く切り揃えた白髪混じりの黒髪から覗く、睨みを効かせた薄灰色の瞳はそのままに、レイモンド卿は収支報告書から神官へと視線を移す。


「そっ、それが……大変申し上げにくいのですが、聖女ユフィリア様が……」

「ユフィリア?」


 その名を聞いた途端、レイモンドの双眼が憎々しげに眇められた。


「いっ、いらっしゃらないのです……ちょ……懲罰、室に……」


 管理の不行き届きを咎められるとでも思ったのだろう。新人らしき神官は青ざめた顔でぶるぶると震えている。

 緊張で今にも漏らしてしまいそうなおびえ方だが、レイモンド卿といえば一度でも粗相をすれば挽回不能、聖職に就いていると言えども赦される事はなく、底辺の扱いを受けると神官の間で噂されていた。


「なんだと」

「でっ、ですから……聖女ユフィリア様が……ちょ、」


 神官が言い終わらぬうち、レイモンド卿は手に持っていた紙の束をバンと音を立てて机上に打ちつけた。


「あいつ、逃げたのか」

「は……はぁ、そのようで……ございます」


 レイモンドは顎に手をあて、思案する。

 ユフィリア一人の力であの頑丈な鍵を外せるわけがない。


 ともすれば──恐らく。

 レイモンド卿の脳裏には、婚約者としてあてがった黒騎士レオヴァルトの傍若無人な横顔が浮かんでいた。


「……まぁ良い。あの部屋を抜け出したとて教会の敷地から外へは出られんのだ。差し詰め自室にでも逃げ込んだのだろう」


 ここ数日教会の収入が思わしくなく、ちょうど気分が荒んでいたところだ。


 ──今夜あたり呼び出して、《罰》を与えねばならぬな。


 子憎たらしいあの少女が白い肌を血まみれにするのを想像すると、による身震いが腹の奥から湧き上がってくる。

 レイモンド卿はいわゆる《ヘモフィリア》──血液性愛者であった。


「……こちらに、連れて来ますか?」


 自分はお咎め無しだと安心した神官が、ようやく落ち着いた呼吸をし始める。


「いや、今は良い。代わりに伝えておけ。夕食が済んだら私の部屋を訪ねるようにとな」


 上目遣いに頭を下げ、神官が退室するのとほぼ同時だった。


「レオモンド叔父様……ッ」


 神官と入れ違いにレイモンド卿の部屋を訪れたのは、彼の姪の筆頭聖女イザベラだ。

 神官ほど慌ててはいないが、今にも泣き出しそうにワインレッドの瞳を涙で潤ませている。


「おお……イザベラではないか。ウン……?! そのはどうしたのだ。泣いておるじゃないか」


 先ほどの神官とのやりとりが嘘のようなニヤけた表情と猫撫で声である。

 イザベラはこれみよがしに肩をすくめると、レイモンド卿の部屋に置かれた肘掛け椅子に頼りなげに腰掛ける。


「ねえ、叔父様ならわかってくださるわよね? わたくしの、このやるせない気持ちを……」

「どうしたのだ、言ってごらん」

「ユフィリアよ。あの女、聖騎士ルグラン様よりもいい男の婚約者をあてがわれたからって、わたくしに見せつけてくるの……マウントを取ってくるのよ。自分たちは心が繋がってるとか何とか言っちゃって、このわたくしを見下して」


「それは不愉快であったな。そうかそうか。だが安心なさい。あの娘には後で私がよく言い聞かせておこう……」


 ──今夜はより太いムチを振るってやろう。

 レイモンドの目の裏には、苦痛で顔を歪ませるユフィリアが映っていた。


「違うの、叔父様。そんなのを望んでるんじゃないの」

「ならば何を望むのだ? 咎めることは出来るが、ここは教会だ。罰を受けさせるにも限界がある」


 ──やりすぎると殺してしまうからな。絶妙な《手加減》が必要なのだ。


 ほとばしる鮮血を想像すれば、自然と笑みが漏れる。

 危うく性衝動に駆られそうになり、己を自制するのに手こずった。


「欲しいものがあるの」

「言ってごらん、可愛いイザベラ。わたしの手に及ぶものならば、なんでも手に入れてやるぞ」


「あの黒騎士が欲しいの」


 何を言われたのか理解が及ばず、レイモンド卿の動作が止まる。


「レオヴァルトとかいう、あの男が欲しいの。彼の魔力は素晴らしいわ、今日、この目で見たのよ。数人がかりで駆除する魔獣をたった一人で、一撃で倒した。彼がわたくしの夫となって《交われ》ば、わたくしのグラシアは他を圧倒するものになる。結婚してもわたくしがあの黒騎士と一緒にこの中央大聖堂に残れば、今よりもっと大勢の貴族を治癒できるし教会も助かるでしょう? ねぇ叔父様……っ、とっても良い案だと思わない?」


 これまでレイモンド卿は、亡き妹の娘イザベラの望みならどんな難題でも叶えてきた。だがしかし──今度ばかりは叶えてやれない特別な《事情》がある。


「イザベラ……そなたの言うことは理解できるが彼らはすでに婚約済みだ。それにあの黒騎士をユフィリアと婚約させたのには、その、複雑な事情があってな。そう簡単にはいかないのだよ」

「複雑な事情って?! 何なの、そんなの叔父様の力で何とでもなるじゃない」


 レイモンド卿をキッと睨みつけたイザベラが食い下がる。


「イザベラや。ヴェルダール皇帝陛下が有能な聖女をご所望なのは知っているな?」

「あの冷酷非道で名高い恐ろしい方よね。知っているわ」

「ここ数年、前任の聖女を失ってからと言うもの、皇帝のそばに仕える聖女が不在となっている。陛下はイザベラ……そなたをご所望になったのだ。だがしかし」


「なんですって?! わっ、わたくしは嫌よ! あんな恐ろしい男のそばに仕えるなんて。だって前任の聖女も戦地に何度も駆り出されて散々こき使われた挙句、敵の刃に討たれたって聞いたわ。戦場に出て死ぬのなんて、まっぴらごめんよっ」


「そう慌てなくても良い、はなからそなたを皇帝に差し出す気はない。あのクズ聖女と黒騎士がおるのだ」


「……ぇ……?」


 レイモンドの思惑は、暗雲のごとく渦巻いている。


 ──ヴェルダール皇帝陛下にこびを売る。

 グラシアを強大化させたユフィリアとあの黒騎士とを一緒に差し出せば、私の大きな手柄となるだろう。何せ陛下にとっては、有能な聖女と黒騎士の魔力という《戦力》を同時に得られるのだからな……


 そしてこの陰謀にも似た策略は、レイモンド卿の圧倒的勝利を迎えるだろう。


 ──皇帝陛下のお力添えさえあれば、あの老耄おいぼれルグリエットを聖職から引きずり下ろし、この私が次の大司祭となる。教会の富と権威を欲しいままにするのも夢でなくなるのだ。その日のために私は、これほどまで必死に金を集めているのだ……!


 やはり疼くような性衝動が襲ってくる。

 眼前で目を丸くする姪のイザベラが──血まみれになりながら「助けて」と懇願するあの娘、ユフィリアに見える。


 レイモンド卿は、油断すれば垂涎が垂れそうになる濡れた唇を、おもむろに舌先で舐め取った。






 教会の敷地の外れにある『聖水の泉』に漆黒の騎士服のまま全身を浸すと、衣服が水を吸って濡れそぼっているはずの身体がすっと軽くなる。

 全身に浴びた《穢れ》というものは、どうやら物質的なものとは別の《重み》を伴っているらしい。


 ──これで穢れが祓えるというのだから、不思議なものだな。


 神が住まう場所は名ばかりではなく、こうした聖水の存在によっても『神域』の意味を得ている。


 泉から上がったレオヴァルトが目を閉じて詠唱を唱えれば、金色の光と風が身を包む。光が消えれば一瞬で全てが乾いた状態に戻った。


 ──ユフィリアは、どうしているだろうか。


 懲罰室を抜け出している。

 気づいた神官がレイモンド卿に告げているだろう。

 更なる罰を受けていないだろうかと案じていたその時だ。


「いたっ、レオヴァルト様ぁぁ……っ!」


 見れば、ユフィリアの友人の下級聖女が息を弾ませながら駆け寄ってくる。

 確か名前はグレースだ。

 その必死の形相に、ただ事ではないと悟った。


「やっぱり、こちらでしたか……、良かった、見つかって……」

「慌ててどうしたんだ? 何があった」


 グレースは「はあ、はあ」と荒い吐息を必死でなだめようとしている。


「ユフィーを……助けてください……ユフィーは……ああっ」

「ゆっくりでいい、落ち着いて話してくれ。ユフィリアがどうした?」


 おさげに結った赤毛が呼吸のたびに揺れている。

 縋るような視線は、しっかりとレオヴァルトの双眸を捉えていた。


「ユフィーがレイモンドに、また……虐待されようとしてるの……っ」

「虐待……?」


 レオヴァルトの秀麗な面輪に浮かんでいた戸惑いは──その意味を噛み砕くうち、みるみる怒りの色へと変わっていった。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?