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聖女たちの寄宿棟に、人の気配はなかった。
誰にも姿を見られることなく、神官たちの背後を掠めても気付かれることなく自室に戻ったユフィリアは、倒れ込むように寝台にダイブする。
「ふぅぅ〜〜〜っ」
レオヴァルトとの一連のやり取りが走馬灯さながら頭の中を駆け巡る。
懲罰室から助け出されたこと、レオヴァルトの部屋に連れ込まれたこと、契約という名の結婚を持ちかけられたこと────…。
「契約婚、ねぇ……」
──承諾しちゃって良かったのかしら。
『傲慢なだけのくだらない女に、万能の私が妻になって欲しいなんて頼むと思うか。』
レオヴァルトのあの
──やだやだ、私ったら、なにドキドキしてるのよ?!
「誰だって、あの顔で迫られて『妻になって欲しい』なんて言われたら、そりゃあ驚くわよ」
あれからすぐに、レオヴァルトは神官に呼ばれ、早々に身支度を整えるとユフィリアを置いて部屋を出て行ってしまった。
その理由が『レイモンド司祭からの伝令だ』と聞けば、やはりまだ心を許すべきではないと思ってしまう。
『一時的に気配を消してやるから自室に帰れ……消すのは気配だけだ、気づかれにくくはなるが姿を消すわけじゃない。誰にも見られるなよ』
レオヴァルトはそんな事を言って片手のひらをユフィリアに翳しながら、なにやら詠唱らしきものを唱えていたが──果たしてユフィリアの気配なるものが本当に消されていたのかはわからない。
「ふんっ、どっちにしても
レイモンド卿の配下の男に《聖都から出してくれ》だなんて口にしてしまった自分の浅はかさを呪う。
──必ず叶えてやる。
それでもレオヴァルトの言葉は力強く響き、ユフィリアを見つめる双眸にも揺るぎがなかった。
ユフィリアを教会から逃すのはレイモンド司祭への背徳行為だ。
それでもこんな話を持ちかけたのは、彼の《望むもの》が彼にとってそれほど重大だということだろうか。
「そう言えば、レオ……の《望むもの》って何だったのかしら──」
《妻になってくれ》という言葉の破壊力が強すぎて、聞きそびれてしまったのだ。
── 一方的に打ち明けさせといて、自分の望みを言わないなんてずるい。あの男、やっぱりいけすかない……っ
薄桃色の二枚の花びらのような唇を尖らせる。
それでもふうっと一息つくと、ぼそりと小さく呟いた。
「でも…………地獄部屋から出してくれたのは、感謝してる」
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人の背ほどある
逆巻く疾風の中に斬られた馬の尻尾が舞う。
黒煙を思わせる巨大な鼠の周囲を、レオヴァルトはひた走る。それを追うように地表から次々と
一向に仕留められない《敵》に苛立った大黒鼠が爛々と二つの眼を光らせ、両腕を変化させた大鎌の
「ひゃぁぁ────っ!」
数メートル離れた場所で抱き合っていた二人が、降り注ぐ土の雨に叫び声をあげる。
二階建ての建物ほどある巨大な黒鼠だ。これが聖都の真ん中に姿を現してから幾分時間が経っているが被害は少ない。この場所が建物の無い広場だったのは幸いだった。
時空の裂け目に生じた異空間からこのような魔獣が飛び出すのは珍しくない。
遠巻きに恐々と眺める人々は、教会から派遣された黒騎士と魔獣の動向を身じろぎもせずに見守っている。
黒騎士が到着する前まで、ありったけの武器を装した町人たちが必死な抵抗を重ねていたのだった。すでに数名の怪我人も出ている、身体を切り裂かれた重症者もいるようだ。
「いつもなら黒騎士を呼んだって小一時間はかかるってのに」
「今日はやたら来るのが早かったよ?!」
「中央大聖堂お抱えの黒騎士だって」
「ありがてぇ……被害が少なくて済む!」
「三人来るって聞いたけど、他の二人はまだみたいだな」
「あのひと、一人で大丈夫なの?!」
高みの見物を決め込む人々が口々に囁いた。
その最中も、鼠型の魔獣とレオヴァルトの攻防戦は続いている。
疾走を続ける馬の背の上で、上半身を起こしたレオヴァルトは手綱を手放した。
両手を胸の前で重ね、瞬時に唱えられた詠唱がまばゆい閃光もたらす。手中に集められた黄金の光はレオヴァルトの胸を覆うほどの剛健な弓と矢にカタチを変えた。
『グオオオオオオオオ────ッ!』
苛立ちが限界を迎えたのか、鼠が禍々しい雄叫びをあげて自担駄を踏む。
続け様に何度も大鎌を振り下ろすが、レオヴァルトの馬は疲労の色も見せずに周囲を走り続けていた。
黄金の鋭い双眸が標的を捉える。
────ビュン!
レオヴァルトの手技は鮮やかだった。
集結させた魔力を纏った矢が放たれ、閃光と化した矢は刹那、大鼠の額の中央──急所に命中した。
ブオン、と大きな鈍い音とともに鼠の肢体が黄金の光に覆われる。
「すげえ……あの距離を一発で当てやがった」
「見てっ。あの人の魔力、
見惚れていた町人の中の誰かが、何かに気づいたふうに慌てて周囲に向かって叫んだ。
「みんな下がるんだ、《穢れ》を浴びてしまうぞ……!」
「《穢れ》が来るよ! みんな下がって」
背後で抱き合っていたふたりが急いで立ち上がり、遠巻きの人々の中に身を潜めた。
レオヴァルトが馬の足を止めて魔獣を見据える。
魔獣の動きが完全に封じられたのを確認すると、手のひらを翳して《滅びの言葉》を静かに唱えた。
「カルセロス」
魔獣の「ギャアアアアアア………」という悲鳴にも似た叫びが次第に消えていく。大鼠を覆い尽くしていた光が一瞬小さくなったかと思うと、瞬く間に大きく膨らんでいく。はち切れんばかりに巨大化した光の玉がブワッと弾けた。
黄金の光が一変し、黒い汚泥と化した
黒光りする汚泥はレオヴァルトの白磁の頬にも容赦なく散った。
馬の踵を返すと大聖堂の方角を一瞥し、一台の馬車が近づくのを確認する──怪我人の治癒のために派遣された聖女たちの馬車が、レオヴァルトに遅れて到着したのだった。
「レオヴァルト様……っ、ま、魔獣は……?」
馬車から降り立った神官が周囲を見廻し、そして黒い泥が散ったレオヴァルトの顔を見て「おっ」と息を呑む。
神官に続いて、最初に馬車を降りたのは──イザベラだった。
「重症者がいる。早く治療してやれ」
神官に怪我人の居場所を伝えると、馬の背に跨ったままのレオヴァルトは頬を汚した泥を手の甲で無造作に拭って気怠げに眉をひそめた。
「この穢れ、教会に入る為にいちいち祓わんとならんのか? ……めんどいな」
その時、ドドッ、ドドッと地鳴りのような鈍い音とともに二人の黒騎士がやってきて、惨状を前に馬の足を止めた。そして見る影も無く汚泥と化した魔獣を驚いたように眺め、さも残念そうに落胆の声をあげる。
「チッ! これじゃ金にならねぇ」
「あいつ一人で
神官に導かれながら、イザベラは遅れてやってきた黒騎士たちの声を聴いていた。
「……ふぅん」
──レオヴァルトとか言うあの男。
やっぱりクズ聖女のお相手には相応しくないようね?
内面に秘めた思惑を舐めるように、イザベラは赤く塗った唇を湿らせるのだった。