彼女が言ったのは、事実だ。
僕は、目を逸らしてた。
自分のせいだって思って、向き合うこともしなかった。
本人から言われるのが怖かったから。
※
蒼陽との、いつもどおりの会話の途中。
草太は突然、言葉を切って黙り込んだ。
数秒間の沈黙の後。
草太の表情は、それまでとはまるで違っていた。
「……蒼陽」
いつもは見せないような、少しだけ苦しそうな、覚悟を決めたような顔で、弟を呼ぶ。
「どうしたの?」
リンゴを食べながら、適当に聞き流している蒼陽は気づかない。
――が。
「兄弟喧嘩しようか」
そう言うと、蒼陽はぽかんと兄を見た。
「……え?」
「僕、怒ってるんだ」
「兄ちゃん……?」
困惑顔で、リンゴを皿に戻す蒼陽。
草太はうつむいた。
こんなことを言うなんて、自分らしくないとわかっている。
"兄ちゃんなんていなければ"
そう言われたらどうしようと思うと、いつものような、余裕の態度もとれやしない。
それでも、草太は聞いた。
顔を見る勇気はなくて、視線を下げたまま。
震えそうになる声を、抑えて。
「蒼陽、何で最初に相談してくれなかったの?」
顔を見なくても、蒼陽が驚いているのがわかった。
「僕が、あの人たちの言う通り、君のことを抱えきれないとでも思った?」
「そ、そんなことないよ!」
草太の自嘲を含んだ物言いを、蒼陽は焦ったように否定した。
だが草太は、蒼陽の言葉を信じることができない。
蒼陽が、草太に嘘をつく可能性がゼロではなくなってしまったと、知っているからだ。
「蒼陽が、僕を大切にしてくれてることは知ってる。気を遣ってくれたこともわかってる」
そのために嘘をつくのは、仕方ないことかもしれないと、草太は思っている。
ただ……。
心の端では、蒼陽が草太を信用していないような、そんな気もしていて。
「でも、それって、僕が望んだことじゃない。僕はこんな風になんかなってほしくなかった。もっと頼ってほしかった」
「……うん、ごめん」
聞こえる蒼陽の声から、いつもの元気がなくなっていた。
きっとうつむいているのだろう。
おそらくは、自分を責めるかのように。
今までの全てを、後悔しているかのように。
ああ、だから蒼陽は、命を手放したのだろうと。
草太は未來に聞いた夢の内容を思い出した。
違うんだよ、蒼陽。
蒼陽は、勘違いをしているんだ。
今までの感情も、今の言葉も、全部。
君の存在や行動を責めているわけじゃない。
そう、伝えたくて。
「僕の幸せは、蒼陽が生きることにあるんだよ」
草太は、数年ぶりかというくらい、本気で微笑んだ。
だから、蒼陽が一番優先すべきは、自分のことなんだ。
僕に気を遣って、我慢をすることじゃなくて。
君が笑顔でいられるように、君が自分を責めなくていいように。
そういう道を選ぶことなんだ。
たとえ蒼陽が僕をどう思っていたとしても。
それは、変わらないから。
少ない言葉に想いを込めて、草太は告げる。
「僕のために蒼陽がいなくなるなんて、絶対に許さない」
顔を上げて蒼陽を見つめれば、蒼陽もまた、草太をまっすぐに見上げていた。
「兄ちゃん……」
呟く表情は、草太の言葉が響いたと、はっきり言っているようだ。
草太はさらに言葉を重ねた。
「勝手なんだよ。我慢とか。自己満足だよ。僕は何も嬉しくない。蒼陽の中の僕は、そんなに冷たいの?」
蒼陽は驚いた顔をしている。
でも、もっと知ってほしくて。
「僕は、欲張りなんだよ」
草太は、蒼陽を見たままつぶやいた。
何かを失って、何かを手に入れるつもりなんて少しもなかった。
蒼陽のことを犠牲にして手に入れるものなんて、草太には何の価値もないのだ。
「知ってる」
蒼陽は小さく呼吸をして呟き、切なげに微笑んだ。
「兄ちゃんは自分勝手で、強情で、強引で、腹黒くて、自分勝手で」
「僕そんなに自分勝手?」
二回も言われている。
思わずふっと笑うと、蒼陽がじっと草太を見た。
「そうだよ! いっつも周りのこと置いてきぼりにして、何だって有言実行してさ、実力があってさ、人に有無を言わせなくて」
まるで唯我独尊とでも言いたげだ。
が、大きく不満げだった蒼陽の声は、段々と、小さく優しくなっていく。
――そして。
「でも、周りのことよく見てて、立ち回りがすごくて、俺のこと全部わかってて」
そう語る蒼陽の表情は、とても穏やかなものだった。
「頭良くて。何でも、できて」
ぽつり、ぽつり。ゆっくりと零れる言葉が、蒼陽の本心を示す。
「自慢の、兄ちゃんだから、平気だってわかってても、黙ってたかった」
蒼陽が言ったことは、草太が初めて聞くことばかりだった。
「やっぱり兄ちゃんはすげーよ」と笑う蒼陽はたくさん見てきた。
だが、不満も、尊敬も、蒼陽がはっきりと言葉にしたことはなかったのだ。
――平気なら、言ってしまうほうが合理的なのに、と。
蒼陽の発言を聞いた草太は思う。
言わないことで出る不利益は多い。
現に、それが二人を苦しめてきた。
ゆえに、聞いた。
「どうして?」と。
「わかんないよ!」
蒼陽は大きな声を出した。
「兄ちゃんが俺のこと嫌うとか、迷惑に思うとか、そんなこと思ってなかったけど、それでも」
それでも、なんだろう。
言葉は急に止まってしまった。
しかし、急かすことはなく。
続く想いを教えてくれる瞬間を、草太は黙って静かに待っている。
蒼陽は言った。
「それでも、俺は、兄ちゃんに迷惑かけたくなかったんだ」
「……結果的に僕に心配かけてるのに?」
実際は、迷惑だなんて思っていない。
でも毎日、蒼陽を案じて暮らしてきたのは本当だ。
言わないことが、こんな結果を引き起こすのは、蒼陽だってわかっていたのではないだろうか。
そう思いつつ蒼陽を見れば、蒼陽は「あのね!」と少しだけ声を荒げた。
「人間ってそう単純じゃないの!! 自分ができないことでも、できたいと思うし、できてるように見せたいものなの! 頭がよくて何でもできる兄ちゃんにはわかんねーよ!」
この発言には草太も驚いた。
なにせ、草太"には"わからない、なんて言われたのは初めてなのだ。
「兄ちゃんいっつもそういうところがわかってない! 俺だってかっこつけたいときくらいあるの!! あがくの! 兄ちゃんにとって自慢の弟でいたいって思うんだよ!!」
まさに怒涛だった。それほどの勢いと強さのある言い方だった。
しかし、こんなに大きな声で話したら息苦しいだろう。
気持ちの激流がやっと収まったと思ったとき、蒼陽は肩で息をしていた。
「蒼陽……。大丈夫?」
病気なのにしょうがない弟だ、と思いながら、草太は声をかけた。
蒼陽はゆっくり深呼吸をし、息を整え、言葉を紡ぐ。
「……兄ちゃんから見たら、非合理的でも、馬鹿げてても、人間ってそういうところがあるものなの」
それは草太には、理解しがたいことだった。
ただ理解はできずとも、蒼陽が考えていることがどういうことか、知ることはできた。
「そっか。わかった」
草太は優しく微笑み、蒼陽を見た。
蒼陽には、蒼陽なりの生き様がある。
それは蒼陽の人格を形成しているもののひとつでもあるだろう。
だとしたら草太は、非合理とも思える生き様ごと蒼陽を受け入れ、蒼陽の笑顔を守ればいい。
「君の矜持、ちゃんと受け止めるよ」
草太が言うと、蒼陽は驚いたようだった。
「兄ちゃん……」とつぶやく蒼陽に、草太は心外だな、と思う。
僕はそんなに小さくないよ、と。
大切なもののためなら、草太は何だってできるのだ。
草太が持つ力は、きっとそのためにあるのだろう。
今ならはっきり、そう言える。
「でも、無理はしないで。僕にも頼ってね。僕は、君を失うのが、一番嫌なんだから」
「……うん、わかった」
素直に返し、にっこり笑う蒼陽を見て。
ああ、もう大丈夫だ、と。
草太もまた、嬉しい気持ちになったのだった。
※
――という兄弟の会話を、未來は病室の外でこっそり聞いていた。
「喧嘩をしようか」と始まったわりに、とても静かで平和で冷静なやり取りは、さっき未來に怒った草太とは、まるで違う。
草太は本当に、蒼陽を大切にしているのだ。
ただ未來は、草太よりも、蒼陽の気持ちのほうがわかる気がした。
扉の隣の壁によりかかっている、煌綺を見つめる。
「あ?」
未來の視線に気づいた煌綺は、「何だよ」と言いたげに未來を見た。
煌綺と草太は似ていると、未來は思う。
性格は少しも似ていないが、頭が良くて、運動ができて、何だってできてしまいそうなところがそっくりだ。
――ということは。
もしかしたら、コウくんは、野川くんの気持ちを理解できるのかもしれない。
理解だけじゃない。
野川くんの意見のほうが、コウくんの感情に近いのかもしれない。
返事をしない未來から、顔を上げた煌綺の表情はいつもと同じ。
その横顔を、未來は見つめて。
……だから、私とコウくんも。少しだけ、すれ違っているのかもしれない。
そんなことを、思った。