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第五話 五

 彼女が言ったのは、事実だ。

 僕は、目を逸らしてた。

 自分のせいだって思って、向き合うこともしなかった。

 本人から言われるのが怖かったから。


 ※


 蒼陽との、いつもどおりの会話の途中。

 草太は突然、言葉を切って黙り込んだ。

 数秒間の沈黙の後。

 草太の表情は、それまでとはまるで違っていた。


「……蒼陽」


 いつもは見せないような、少しだけ苦しそうな、覚悟を決めたような顔で、弟を呼ぶ。


「どうしたの?」


 リンゴを食べながら、適当に聞き流している蒼陽は気づかない。

 ――が。


「兄弟喧嘩しようか」


 そう言うと、蒼陽はぽかんと兄を見た。


「……え?」

「僕、怒ってるんだ」

「兄ちゃん……?」


 困惑顔で、リンゴを皿に戻す蒼陽。

 草太はうつむいた。


 こんなことを言うなんて、自分らしくないとわかっている。

 "兄ちゃんなんていなければ"

 そう言われたらどうしようと思うと、いつものような、余裕の態度もとれやしない。


 それでも、草太は聞いた。

 顔を見る勇気はなくて、視線を下げたまま。

 震えそうになる声を、抑えて。


「蒼陽、何で最初に相談してくれなかったの?」


 顔を見なくても、蒼陽が驚いているのがわかった。


「僕が、あの人たちの言う通り、君のことを抱えきれないとでも思った?」

「そ、そんなことないよ!」


 草太の自嘲を含んだ物言いを、蒼陽は焦ったように否定した。

 だが草太は、蒼陽の言葉を信じることができない。

 蒼陽が、草太に嘘をつく可能性がゼロではなくなってしまったと、知っているからだ。


「蒼陽が、僕を大切にしてくれてることは知ってる。気を遣ってくれたこともわかってる」


 そのために嘘をつくのは、仕方ないことかもしれないと、草太は思っている。

 ただ……。

 心の端では、蒼陽が草太を信用していないような、そんな気もしていて。


「でも、それって、僕が望んだことじゃない。僕はこんな風になんかなってほしくなかった。もっと頼ってほしかった」

「……うん、ごめん」


 聞こえる蒼陽の声から、いつもの元気がなくなっていた。

 きっとうつむいているのだろう。

 おそらくは、自分を責めるかのように。

 今までの全てを、後悔しているかのように。

 ああ、だから蒼陽は、命を手放したのだろうと。

 草太は未來に聞いた夢の内容を思い出した。


 違うんだよ、蒼陽。

 蒼陽は、勘違いをしているんだ。

 今までの感情も、今の言葉も、全部。

 君の存在や行動を責めているわけじゃない。

 そう、伝えたくて。


「僕の幸せは、蒼陽が生きることにあるんだよ」


 草太は、数年ぶりかというくらい、本気で微笑んだ。


 だから、蒼陽が一番優先すべきは、自分のことなんだ。

 僕に気を遣って、我慢をすることじゃなくて。

 君が笑顔でいられるように、君が自分を責めなくていいように。

 そういう道を選ぶことなんだ。

 たとえ蒼陽が僕をどう思っていたとしても。

 それは、変わらないから。


 少ない言葉に想いを込めて、草太は告げる。


「僕のために蒼陽がいなくなるなんて、絶対に許さない」


 顔を上げて蒼陽を見つめれば、蒼陽もまた、草太をまっすぐに見上げていた。


「兄ちゃん……」


 呟く表情は、草太の言葉が響いたと、はっきり言っているようだ。

 草太はさらに言葉を重ねた。


「勝手なんだよ。我慢とか。自己満足だよ。僕は何も嬉しくない。蒼陽の中の僕は、そんなに冷たいの?」


 蒼陽は驚いた顔をしている。

 でも、もっと知ってほしくて。


「僕は、欲張りなんだよ」


 草太は、蒼陽を見たままつぶやいた。

 何かを失って、何かを手に入れるつもりなんて少しもなかった。

 蒼陽のことを犠牲にして手に入れるものなんて、草太には何の価値もないのだ。


「知ってる」


 蒼陽は小さく呼吸をして呟き、切なげに微笑んだ。


「兄ちゃんは自分勝手で、強情で、強引で、腹黒くて、自分勝手で」

「僕そんなに自分勝手?」


 二回も言われている。

 思わずふっと笑うと、蒼陽がじっと草太を見た。


「そうだよ! いっつも周りのこと置いてきぼりにして、何だって有言実行してさ、実力があってさ、人に有無を言わせなくて」


 まるで唯我独尊とでも言いたげだ。

 が、大きく不満げだった蒼陽の声は、段々と、小さく優しくなっていく。

 ――そして。


「でも、周りのことよく見てて、立ち回りがすごくて、俺のこと全部わかってて」


 そう語る蒼陽の表情は、とても穏やかなものだった。


「頭良くて。何でも、できて」


 ぽつり、ぽつり。ゆっくりと零れる言葉が、蒼陽の本心を示す。


「自慢の、兄ちゃんだから、平気だってわかってても、黙ってたかった」


 蒼陽が言ったことは、草太が初めて聞くことばかりだった。

「やっぱり兄ちゃんはすげーよ」と笑う蒼陽はたくさん見てきた。

 だが、不満も、尊敬も、蒼陽がはっきりと言葉にしたことはなかったのだ。


 ――平気なら、言ってしまうほうが合理的なのに、と。

 蒼陽の発言を聞いた草太は思う。

 言わないことで出る不利益は多い。

 現に、それが二人を苦しめてきた。

 ゆえに、聞いた。

「どうして?」と。


「わかんないよ!」


 蒼陽は大きな声を出した。


「兄ちゃんが俺のこと嫌うとか、迷惑に思うとか、そんなこと思ってなかったけど、それでも」


 それでも、なんだろう。

 言葉は急に止まってしまった。

 しかし、急かすことはなく。

 続く想いを教えてくれる瞬間を、草太は黙って静かに待っている。


 蒼陽は言った。


「それでも、俺は、兄ちゃんに迷惑かけたくなかったんだ」

「……結果的に僕に心配かけてるのに?」


 実際は、迷惑だなんて思っていない。

 でも毎日、蒼陽を案じて暮らしてきたのは本当だ。

 言わないことが、こんな結果を引き起こすのは、蒼陽だってわかっていたのではないだろうか。

 そう思いつつ蒼陽を見れば、蒼陽は「あのね!」と少しだけ声を荒げた。


「人間ってそう単純じゃないの!! 自分ができないことでも、できたいと思うし、できてるように見せたいものなの! 頭がよくて何でもできる兄ちゃんにはわかんねーよ!」


 この発言には草太も驚いた。

 なにせ、草太"には"わからない、なんて言われたのは初めてなのだ。


「兄ちゃんいっつもそういうところがわかってない! 俺だってかっこつけたいときくらいあるの!! あがくの! 兄ちゃんにとって自慢の弟でいたいって思うんだよ!!」


 まさに怒涛だった。それほどの勢いと強さのある言い方だった。

 しかし、こんなに大きな声で話したら息苦しいだろう。

 気持ちの激流がやっと収まったと思ったとき、蒼陽は肩で息をしていた。


「蒼陽……。大丈夫?」


 病気なのにしょうがない弟だ、と思いながら、草太は声をかけた。

 蒼陽はゆっくり深呼吸をし、息を整え、言葉を紡ぐ。


「……兄ちゃんから見たら、非合理的でも、馬鹿げてても、人間ってそういうところがあるものなの」


 それは草太には、理解しがたいことだった。

 ただ理解はできずとも、蒼陽が考えていることがどういうことか、知ることはできた。


「そっか。わかった」


 草太は優しく微笑み、蒼陽を見た。

 蒼陽には、蒼陽なりの生き様がある。

 それは蒼陽の人格を形成しているもののひとつでもあるだろう。

 だとしたら草太は、非合理とも思える生き様ごと蒼陽を受け入れ、蒼陽の笑顔を守ればいい。


「君の矜持、ちゃんと受け止めるよ」


 草太が言うと、蒼陽は驚いたようだった。

「兄ちゃん……」とつぶやく蒼陽に、草太は心外だな、と思う。

 僕はそんなに小さくないよ、と。

 大切なもののためなら、草太は何だってできるのだ。

 草太が持つ力は、きっとそのためにあるのだろう。

 今ならはっきり、そう言える。


「でも、無理はしないで。僕にも頼ってね。僕は、君を失うのが、一番嫌なんだから」

「……うん、わかった」


 素直に返し、にっこり笑う蒼陽を見て。

 ああ、もう大丈夫だ、と。

 草太もまた、嬉しい気持ちになったのだった。


 ※


 ――という兄弟の会話を、未來は病室の外でこっそり聞いていた。

「喧嘩をしようか」と始まったわりに、とても静かで平和で冷静なやり取りは、さっき未來に怒った草太とは、まるで違う。

 草太は本当に、蒼陽を大切にしているのだ。

 ただ未來は、草太よりも、蒼陽の気持ちのほうがわかる気がした。


 扉の隣の壁によりかかっている、煌綺を見つめる。


「あ?」


 未來の視線に気づいた煌綺は、「何だよ」と言いたげに未來を見た。

 煌綺と草太は似ていると、未來は思う。

 性格は少しも似ていないが、頭が良くて、運動ができて、何だってできてしまいそうなところがそっくりだ。


 ――ということは。

 もしかしたら、コウくんは、野川くんの気持ちを理解できるのかもしれない。

 理解だけじゃない。

 野川くんの意見のほうが、コウくんの感情に近いのかもしれない。


 返事をしない未來から、顔を上げた煌綺の表情はいつもと同じ。

 その横顔を、未來は見つめて。

 ……だから、私とコウくんも。少しだけ、すれ違っているのかもしれない。

 そんなことを、思った。


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