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第五話 三

 ――僕は、昔から弟が大好きだった。


 勉強を教えてあげれば、テストで満点が取れたと見せてくる。

 一緒にブロックで、ロボットや車も作った。

 ブロック全部を使った大きなお城ができたときは、二人で喜んだものだ。


『俺たち頑張ったねえ、兄ちゃん!』


 そう言って笑う素直な弟が、僕は大好きだった。


 ※


 小さい頃から、僕は何でも簡単にできてしまうほうだった。

 そのせいで両親から溺愛されていたけれど、僕はそんな両親の期待やプライドが大嫌いだった。


 でも四人家族のうち、ずっと、弟だけは大切にしていた。

 たった一人の、本当の家族だとすら思っていた。


 両親の自分勝手な期待に蒼陽が壊されないよう、僕だけが期待されるように仕向けてもきた。

 両親二人の夢は、僕が叶えると言って。

 そうすれば両親は、僕を大切にするのと同じように、弟も大切にしてくれると思っていたんだ。


 実際、そうしているようにも見えていた。

 あの日、弟が倒れるまでは。


 ※


 中学三年の夏。日曜のことだ。

 草太が帰宅すると、廊下の奥に、蒼陽が倒れていた。


「蒼陽!」


 鞄を放り投げて慌てて駆け寄り、傍らに膝をつく。

 紫色の唇。

 体育で全力疾走をした後でも聞かないような、荒い呼吸音。

 あきらかに、様子がおかしい。


「どうしたの?」


 草太が必死に声をかけていると、リビングの扉が開いて、母親が現れた。

 母親は、蒼陽を見るなり「あら、やだ」と眉を顰める。


「こんなところで寝転んで。最近お兄ちゃんが構ってくれないから、寂しかったのかしら」

「床で寝ると風邪引くぞ」


 父親はパソコンのディスプレイから顔を上げることもなく、リビングで仕事を続けていた。

 見栄とプライドが固まった人間は、自分たちの期待にそぐわないなら、息子の命すら捨てるのか。

 大きな苛立ちとともに、草太はスマホを取り出した。

 もちろん、救急車を呼ぶためだ。


「救急車なんて呼ばなくて大丈夫よ。寝ていれば直るわ」

「そうだ、蒼陽のことなんて気にしないで、自分の時間に充てなさい」


 口調は普段通り。でも必死に止めようとする両親を、草太は思い切り睨みつけた。

 今までにこんなに人を憎んだことなんてなかった。

 強烈な怒りと憎悪が混じった目つきに、両親は黙り込んだ。


 蒼陽は病院に着くなり、救急救命室に運ばれて行った。

 それを草太は、生気を失った目で見送った。


 蒼陽が治療を受けている中。

 草太が親を問い詰めて聞いた真実は、反吐が出るようなものだった。

 なんと両親は、蒼陽に症状を訴えられても、ただの風邪だと無視していたというのだ。

 草太が蒼陽を誰より大事にしていることを知るがゆえに。

 受験生の草太の邪魔にならぬよう。

 蒼陽が具合が悪いことを、草太に気付かせないように、ずっと我慢させていたと。

 ……そう、言ったのだ。


「ごめんなさい、草太、許してちょうだい。あなたのためだと思ったのよ。ああ、本当に悪かったわ。どうか怒らないで」

「父さんたちは、受験生のお前が余計なことを気にしないですむようにだけなんだ。頼むから、そんなに怒らないでくれ」


 ――余計なこと? 蒼陽の体調不良が、余計?


 泣き崩れる両親を、草太は冷たい眼差しで見下ろした。

 二人は、蒼陽のことは一言も言わなかった。

 謝罪は、自分たちの正当化と、優秀な息子の機嫌を損ねないための懇願にすぎない。


 ※


『また満点! さすが草太ね!』

『苦手教科なしか! 向かうところ敵なしだな、草太は』


 草太の両親は、"成績"を何よりも優先し、草太が満点や一位を取るだけで喜んだ。

 二人にとって大事なのは、周囲の人間から認められ、褒められること。

 誰よりも優れた子どもを産み育てた自分たち、という優越感に浸ることだった。


 ――あの人たちは、"それ"でしか自分を認められない、かわいそうな人たちだから。

 だから、僕に比べて劣って見える弟を、僕の見えないところで否定して、ないがしろにしてたんだろう。


 蒼陽が運ばれた救急救命室のドアを見ながら、草太はそう結論付けた。


 ※


 蒼陽は、無事一命をとりとめた。


 病院の白いベッドに横たわる弟の姿に、草太は自分の浅はかさを知った。

 あんなに泣いて詫びたくせに、見舞いにすら来ない両親の愚かさを、欲望を、把握しきれていなかった。

 世間知らずの自分を痛感した。


 眠る蒼陽を、一人、見守る。

 草太は、自分も、両親も、許せなかった。


『すごいわねえ、お宅の息子さん、また学年トップなんでしょう? うちの子が言っていたわよ。どんなふうに育てたらそんな優秀な子になるか、教えてほしいわ』

『特別なことは何もしてないのよ。あの子は自主的に勉強してくれて』


 得意げに話す母親の声が、脳裏に蘇る。


 ――子どもは、お前らのための飾りじゃない。


 本当は、そう言葉にしたかった。

 でも、飲み込んだ。

 蒼陽が、両親を嫌っていないことを、知っていたからからだ。

 それどころかあんな"くだらない"両親のことすらも、蒼陽は許して、愛していた。

 文句ひとつ言わず、苦しいのも我慢して。


 ※


 蒼陽は、入退院を繰り返している。

 主治医は、治療が長引いてしまうのは、精神的なものもあると言った。


 きっと、僕がいるからだ。

 草太は思った。

 僕を大切になんて思うから、蒼陽は苦しむんだ。

 両親を大切になんて思うから、蒼陽は苦しむんだ。

 苦しんで、病気を悪化させて、それでまた自分を追い詰めて。

 一人で、弱い身体で、全部背負って。


 でも、草太や両親がいなくなったら、蒼陽は酷く悲しむだろう。

 それがわかっているから、草太はどう動くこともできない。

 子供だから、何の力も持っていないというのもあるけれど。


 僕は、どうしたらいいんだろう。

 病室で、蒼陽に会うたび、草太は思う。

 僕は、何もできないと。


 兄弟ですら、価値観が違う。

 考えを、苦しみを、愛情を、完全に知ることはできない。


 ※


 病院からの帰り道。

 草太は一人、空を見上げた。


 何もかも、自分勝手だよ、蒼陽。

 本当に、僕はこれ以上、どうしたらいいんだろう。

 君が、許せない……。



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