白い部屋、白いベッド、荒い呼吸。
茶髪の少年の細い手が、ナースコールを引き寄せた。
だが押さぬまま、少年は、苦しそうにうずくまる。
四角い窓枠、ガラスの向こう。
真っ青な空も、初夏の日差しに光るビルも、見ることはなく。
手に、白いシーツを握りしめて。
※
六月初頭である。
快晴とは言えないが気温はこの時期らしいもので、未來は半袖ブラウスにベストを、煌綺は半袖のワイシャツを着ている。
「病院?」
通学の途中、坂を下りながら、煌綺は隣を歩く未來を見た。
未來が煌綺に、昨夜見た夢の内容を、簡単に話した後のことだった。
「そうなの。個室で、窓から外が見えた」
「外には何が見えたんだよ」
「ええと」
未來は、話していた表情のまま固まった。
煌綺がそう聞いてくることは、ちょっと考えれば予想できただろう。
だが未來は質問を想定しておらず、当然、答えも用意していなかった。
煌綺の「わかってたけど」と言わんばかりの視線に、未來は慌てて予知夢の記憶をたどった。顎先でくるくる人差し指を回すのは、考えるときの未來の癖だ。
「あ、でも知ってるビルが見えた。駅の辺りかも」
「あの辺の入院できるような病院って一箇所しかねえだろ。しかも景色見えるのなんて片側だけだな」
すぐに帰ってきた返事に、コウくんは物知りだなあと感心しつつ、未來は前を見た。
中学生が歩いている。制服からして、未來の出身校だ。
――場所が特定できたなら、行ってみたら何かわかるかもしれない。
未來がそう思ったのは、今朝の夢が不思議だったからだ。
少年は、一度ナースコールを持ったのに、押さないまま放してしまった。
まるで、自分の死を受け入れたかのように。
どうして、と。
それが気になった。
※
放課後、未來と煌綺は病院に向かった。
八階建ての総合病院だ。建物自体は細長く、一階と二階が一般外来向け、それより上の階が入院病棟になっている。
この中のどこかに少年がいるのだと思い、エレベーター横のフロアマップを見上げて、未來は絶望した。
「っつって。病室なんかわかるわけねえな」
煌綺のさも当然というような言葉に「ですよね」とつぶやく。
そもそも少年の名前も診療科もわからないのに、病院に来れば何とかなると思ったことが間違いだった。
全く、自分の不甲斐なさに呆れてしまう。
「部屋番号とか覚えてねえのか」
フロアマップから目を話さず、煌綺が聞いた。
未來はうつむき、夢を思い出してみる、が――。
「中しか見えなかった……」
「ここならベッド付近に書いてあるはずだけどな」
そう煌綺が言うので、未來は自身の脳に叱咤して、さらに記憶を呼び起こしてみた。
だがやっぱりわからない。ナースコールと、そこに伸ばされた白い手のインパクトが強すぎるのだ。
「……思い出せない」
未來は、ちょっとしょんぼりした声で言った。
煌綺は目を閉じ、きっぱりと。
「期待してねえ」
「悲しい」
未來はつぶやいた。
本気で落ち込んでいるわけではないが、自分がこうも役に立たないなんてと思うと、ますますしょんぼりしてしまう。
と、うつむいた未來の後頭部に、ほとんど触るだけのような軽いチョップが降ってきた。
「次から頑張れ」
「……うん」
せめてこれくらいは、任せてもらえるくらいにはなりたい。私も。
そう思いながら、未來はうなずいたのだった。
※
「とりあえず、部屋見て回る?」
夢の内容からして、確認するのは個室だけでいいはずだ。
それならば、見て回る範囲は、フロアマップより狭くなるはず。
そう期待を込めて言えば、煌綺は上を向き「あー」と声を出した。
「まあ、七階以上だろうから少ねえかもだけど」
病室から景色が見えるのは七階より上。
つまり、七階と八階の個室だけを見ればいいということか。
さらに狭まった範囲に、未來は少しだけ明るい気持ちになった。
しかし煌綺は、視線だけで未來を見、厳しい現実を突き付けてくる。
「だとしてお前、誰もが扉開けてるわけじゃねえし、知らねえ奴入ってきたら怖いだろ」
「……本当だねえ」
固まった笑顔で未來は答えた。
言われてみればたしかに、である。少年のように身動きしづらい患者なら、尚更だろう。
煌綺は壁に寄りかかっていたのをやめて、まっすぐに未來を見た。
「そもそも、そいつ見つけてどうしようとしてんだお前は」
「……理由が、知りたいから?」
なんの、と未來は言わない。
だが煌綺には伝わったようだ。
「……俺なら知らねえ奴に教えねえな」
と返ってきた。
「やっぱり無理かな……」
煌綺が教えないと言うなら、他の人もそうなのだろう。
諦めるべきだろうか。
そう考えたとき、煌綺がエレベーターに向かって歩き始めた。
「まあ、お前だったら相手によっては平気なんじゃねーの」
と言いながら。
「え? 何で?」
未來は聞くが、煌綺は「さーな」と返すだけ。
歩くスピードは変わらない。
「あ! 待って!」
未來は慌てて煌綺を追いかけ、二人は七階へと向かったのだった。
※
病院独特の匂いが漂うまっすぐな廊下を、未來と煌綺は並んで歩いた。
当然ずらりと病室が並んでいるが、入口には部屋番号が書いてあるだけだから、どこに誰がいるかはわからない。
しかし歩きながら、未來はふと立ち止まった。
あれ、この部屋……。
何かが引っかかるのだ。
あの電車の予知夢のときのように。
問題の部屋は、立ち止まった場所から三歩くらい先にある。
扉は開いている。
少し覗けないかな。
未來は部屋の前から、こっそり中を覗こうとした。
――すると。
「――コウキと、暁さん?」
背後で突然名前を呼ばれて、未來は心臓が飛び跳ねるほどに驚いた。
「あ?」
煌綺が振り返る。
未來も一緒に後ろを向くと、そこには見知った人物が立っていた。
「の、野川くん!?」
野川草太はいつものように、ニコニコと笑っていた。
未來や煌綺と同じ制服姿で、病院の売店で何か買って来たのか、右手にビニール袋を持っている。
「二人で何してるの? 病院でデート?」
「あほか。テメェは何してんだよ」
草太のからかいに動じることなく、煌綺が尋ねた。
「僕?」
草太はきょとんとした顔をした後、口元に微笑を浮かべた。
「……弟のお見舞い」
「弟……?」
「そう、君たちが立ってるその病室」
未來の頭の中で、今朝の予知夢が蘇った。
白いシーツを握りしめた、細身の少年。
もしかして、あれは―。
「で? 入らないの?」
嫌な予想が頭を巡る中、草太が笑顔で言った
「え?」
「入るつもりだったんでしょ?」
たしかに未來は、もしこの部屋が予知夢と同じ病室なら、入ろうとは思っていた。
でも、今すぐ入ろうとしていたわけではない。
草太はニコニコと、未來の返事を待っている。
なんで、私が考えてることがわかったんだろう。
未來は、陰りも綻びもない完璧な笑顔を、不思議な気持ちで見つめたのだった――。