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第五話 一

 白い部屋、白いベッド、荒い呼吸。

 茶髪の少年の細い手が、ナースコールを引き寄せた。

 だが押さぬまま、少年は、苦しそうにうずくまる。

 四角い窓枠、ガラスの向こう。

 真っ青な空も、初夏の日差しに光るビルも、見ることはなく。

 手に、白いシーツを握りしめて。


 ※


 六月初頭である。

 快晴とは言えないが気温はこの時期らしいもので、未來は半袖ブラウスにベストを、煌綺は半袖のワイシャツを着ている。


「病院?」


 通学の途中、坂を下りながら、煌綺は隣を歩く未來を見た。

 未來が煌綺に、昨夜見た夢の内容を、簡単に話した後のことだった。


「そうなの。個室で、窓から外が見えた」

「外には何が見えたんだよ」

「ええと」


 未來は、話していた表情のまま固まった。

 煌綺がそう聞いてくることは、ちょっと考えれば予想できただろう。

 だが未來は質問を想定しておらず、当然、答えも用意していなかった。


 煌綺の「わかってたけど」と言わんばかりの視線に、未來は慌てて予知夢の記憶をたどった。顎先でくるくる人差し指を回すのは、考えるときの未來の癖だ。


「あ、でも知ってるビルが見えた。駅の辺りかも」

「あの辺の入院できるような病院って一箇所しかねえだろ。しかも景色見えるのなんて片側だけだな」


 すぐに帰ってきた返事に、コウくんは物知りだなあと感心しつつ、未來は前を見た。

 中学生が歩いている。制服からして、未來の出身校だ。


 ――場所が特定できたなら、行ってみたら何かわかるかもしれない。


 未來がそう思ったのは、今朝の夢が不思議だったからだ。

 少年は、一度ナースコールを持ったのに、押さないまま放してしまった。

 まるで、自分の死を受け入れたかのように。

 どうして、と。

 それが気になった。


 ※


 放課後、未來と煌綺は病院に向かった。

 八階建ての総合病院だ。建物自体は細長く、一階と二階が一般外来向け、それより上の階が入院病棟になっている。

 この中のどこかに少年がいるのだと思い、エレベーター横のフロアマップを見上げて、未來は絶望した。


「っつって。病室なんかわかるわけねえな」


 煌綺のさも当然というような言葉に「ですよね」とつぶやく。

 そもそも少年の名前も診療科もわからないのに、病院に来れば何とかなると思ったことが間違いだった。

 全く、自分の不甲斐なさに呆れてしまう。


「部屋番号とか覚えてねえのか」


 フロアマップから目を話さず、煌綺が聞いた。

 未來はうつむき、夢を思い出してみる、が――。


「中しか見えなかった……」

「ここならベッド付近に書いてあるはずだけどな」


 そう煌綺が言うので、未來は自身の脳に叱咤して、さらに記憶を呼び起こしてみた。

 だがやっぱりわからない。ナースコールと、そこに伸ばされた白い手のインパクトが強すぎるのだ。


「……思い出せない」


 未來は、ちょっとしょんぼりした声で言った。

 煌綺は目を閉じ、きっぱりと。


「期待してねえ」

「悲しい」


 未來はつぶやいた。

 本気で落ち込んでいるわけではないが、自分がこうも役に立たないなんてと思うと、ますますしょんぼりしてしまう。

 と、うつむいた未來の後頭部に、ほとんど触るだけのような軽いチョップが降ってきた。


「次から頑張れ」

「……うん」


 せめてこれくらいは、任せてもらえるくらいにはなりたい。私も。

 そう思いながら、未來はうなずいたのだった。


 ※


「とりあえず、部屋見て回る?」


 夢の内容からして、確認するのは個室だけでいいはずだ。

 それならば、見て回る範囲は、フロアマップより狭くなるはず。

 そう期待を込めて言えば、煌綺は上を向き「あー」と声を出した。


「まあ、七階以上だろうから少ねえかもだけど」


 病室から景色が見えるのは七階より上。

 つまり、七階と八階の個室だけを見ればいいということか。

 さらに狭まった範囲に、未來は少しだけ明るい気持ちになった。

 しかし煌綺は、視線だけで未來を見、厳しい現実を突き付けてくる。


「だとしてお前、誰もが扉開けてるわけじゃねえし、知らねえ奴入ってきたら怖いだろ」

「……本当だねえ」


 固まった笑顔で未來は答えた。

 言われてみればたしかに、である。少年のように身動きしづらい患者なら、尚更だろう。

 煌綺は壁に寄りかかっていたのをやめて、まっすぐに未來を見た。


「そもそも、そいつ見つけてどうしようとしてんだお前は」

「……理由が、知りたいから?」


 なんの、と未來は言わない。

 だが煌綺には伝わったようだ。


「……俺なら知らねえ奴に教えねえな」


 と返ってきた。


「やっぱり無理かな……」


 煌綺が教えないと言うなら、他の人もそうなのだろう。

 諦めるべきだろうか。

 そう考えたとき、煌綺がエレベーターに向かって歩き始めた。


「まあ、お前だったら相手によっては平気なんじゃねーの」


 と言いながら。


「え? 何で?」


 未來は聞くが、煌綺は「さーな」と返すだけ。

 歩くスピードは変わらない。


「あ! 待って!」


 未來は慌てて煌綺を追いかけ、二人は七階へと向かったのだった。


 ※


 病院独特の匂いが漂うまっすぐな廊下を、未來と煌綺は並んで歩いた。

 当然ずらりと病室が並んでいるが、入口には部屋番号が書いてあるだけだから、どこに誰がいるかはわからない。

 しかし歩きながら、未來はふと立ち止まった。


 あれ、この部屋……。

 何かが引っかかるのだ。

 あの電車の予知夢のときのように。


 問題の部屋は、立ち止まった場所から三歩くらい先にある。

 扉は開いている。

 少し覗けないかな。

 未來は部屋の前から、こっそり中を覗こうとした。


 ――すると。


「――コウキと、暁さん?」


 背後で突然名前を呼ばれて、未來は心臓が飛び跳ねるほどに驚いた。


「あ?」


 煌綺が振り返る。

 未來も一緒に後ろを向くと、そこには見知った人物が立っていた。


「の、野川くん!?」


 野川草太はいつものように、ニコニコと笑っていた。

 未來や煌綺と同じ制服姿で、病院の売店で何か買って来たのか、右手にビニール袋を持っている。


「二人で何してるの? 病院でデート?」

「あほか。テメェは何してんだよ」


 草太のからかいに動じることなく、煌綺が尋ねた。


「僕?」


 草太はきょとんとした顔をした後、口元に微笑を浮かべた。


「……弟のお見舞い」

「弟……?」

「そう、君たちが立ってるその病室」


 未來の頭の中で、今朝の予知夢が蘇った。

 白いシーツを握りしめた、細身の少年。


 もしかして、あれは―。


「で? 入らないの?」


 嫌な予想が頭を巡る中、草太が笑顔で言った


「え?」

「入るつもりだったんでしょ?」


 たしかに未來は、もしこの部屋が予知夢と同じ病室なら、入ろうとは思っていた。

 でも、今すぐ入ろうとしていたわけではない。

 草太はニコニコと、未來の返事を待っている。


 なんで、私が考えてることがわかったんだろう。

 未來は、陰りも綻びもない完璧な笑顔を、不思議な気持ちで見つめたのだった――。

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