翌日、未來が煌綺の夢を見ることはなかった。
「今日はあの夢見なかった」
くだんの十字路を曲がり、公園と神社の間の坂道を下りながら。
未來は、普段より少し重い口調で、少し先を行く煌綺に告げた。
「……まあ、何をきっかけに見てんのかもわかんねえしな」
「そうだけど……」
確かに、今日はたまたま予知夢を見る条件に合致しなかっただけかもしれない。
連続で夢を見てから時間がたった今、未來は冷静にそう考えることができた。
「そもそも、君は何で私にバカなんて言うの」
気持ちが落ち着いたからこそ気になったことを、煌綺に尋ねる。
もちろん、普段のことではない。
夢の中で、死んでしまう間際のことだ。
「あー?」
煌綺は視線だけを未來に向けて、気だるげに返事をした。
未來はリュックのショルダーベルトをぎゅっと握り、むーっとした顔をする。
「死んじゃうのに。そんな場合じゃないと思うの」
トラックは、ノーブレーキで交差点に突っ込んでくる。
状況的に逃げることは無理かもしれない。
それどころか、逃げようと思う気持ちさえ持てないかもしれない。
しかしそうだとしても、未來にバカなんて言ってる場合ではないと思うのだ。
煌綺は、未來に向けていた視線を外に逸らした。
「どーせお前が泣きそうだったんだろ」
いつもどおりの、つっけんどんな言い方だった。
でもだからこそ、未來はとても驚いた。
はっと顔を上げて、先を歩く煌綺を見る。
確かにあのとき、夢の中の未來はショックを受けていた。
また助けられないと、必死に手を伸ばして。
それが、届かなくて。
夢の映像が、未來の脳裏に映画のように流れていく。
立ち止まり、半身を向けて、煌綺が振り返った。
「バカって言われたくねえなら、笑っとけよ」
「人が死ぬのに、笑うなんて」
未來は足を止め、煌綺の顔を見て、頬を膨らめた。
その後は「できるわけない」と続けるつもりだった。
しかし煌綺はそれを聞かず。
「あー、そうだな」
と、また前を向いて歩きだしてしまった。
「む。君こそ言いたいことがあるなら言いたまえよー」
小走りで隣に並び、左側を歩く煌綺の顔を覗き込む。
冗談交じりの言い方に、返ってくるのは。
「あー? うっせーバカ女」
未來を一瞥もしない軽口だ。
「むっかー!」
未來は握っていたショルダーベルトを、ぐっと下に引っ張った。
そんな未來をちらと見下ろし、いつもの口調で、煌綺は。
「バーカ」
「どうせバカですよ!! バカだけど!!! 何か!?」
未來はぷうっと頬を膨らめた。
子供時代には「ハムスターみてぇ」と言われた顔だ。
その後、未來がさらに頬を丸くしたものだから、小さな煌綺は「フグみてぇ」と言った。
でもそのうちに、ぷはっと息を吐いて、急に潰れた頬がおかしくて、笑って。
そんな、懐かしいやり取り。
――今は。
未來は目を見張った。
煌綺が「ふっ」と、小さく笑ったのだ。
「泣くくれえなら怒ってるほうが良いわな」
そう言って。
煌綺が考えていることは、正直、よくわからない。
わからない、が。
――私も、笑ってるほうが嬉しい気持ちはわかる。
微かな笑みに目を奪われ、心を捕らわれ。
からかう声で、未來は告げる。
「人に言う前に、君ももう少し笑うといいと思うんだ」
「ああ?」
煌綺は不満そうに、未來を睨んだ。
クラスの女子が怯えるあの視線だ。
しかし残念ながら、十年以上幼馴染を続けている未來に、同じ効果がはあるわけはなかった。
「べーだ」
両目をつぶり、舌を出す未來。
すぐに「ガキ」と返す煌綺に。
「お互い様ですー」
そう言ってやった。
だって、コウくんも子どもみたいだ。
子どもみたいで、大人みたいだ。
優しくて、頼りになって、大きくて。
ずっと、本当にずっと、こんな時間が続けばいいのにと、未來は思った。
※
翌週火曜の登校時間。
未來は煌綺と、街路樹の舗道を歩いていた。
本来なら初夏の陽気であるはずの六月頭は、曇り空で薄ら寒い。
未來は長袖シャツの上にベストを、煌綺は今までと変わらず、長袖のワイシャツを着ている。
「今日も見なかった」
未來は煌綺を見上げ、報告するように言った。
偶然なのか、何か理由があるのかはわからない。
でもまるで、二回続けて見たときが間違いだったみたいだ。
「お前、最初俺をつけてたときは、一回しか見てないんだよな」
煌綺が未來を見下ろして聞いた。
「うん」
未來が答える。
すると煌綺は、髪をかき上げて額を押さえるようにした。
「……あー」
これは、煌綺が考え事をするときの癖だ。
「何か、わかる?」
心配になって尋ねる。
しかし煌綺は、冷静な視線と声を未來に向けた。
「わかるわけねえだろ」
「ですよね……」
たしかに、今の状況でわかるほうがすごいと未來は思った。
でも、コウくんならわかるかも、と考えてしまったのも本当だ。
「わかんねーけど」
煌綺が、額から手を離した。
「うん」
未來が、一度外した視線を煌綺に戻す。
煌綺は言った。
「次あの夢を見たときに、内容が変わったとして。俺に言わずにその後も同じ夢を見て、俺に言うことでまた見なくなるなら、当事者に言うことがきっかけなのかもしれねえ、くらいの可能性なら思いつく」
「え?」
未來は一瞬、煌綺が何を言っているのか理解できなかった。
つまり、一度目の予知夢は煌綺に話さず、その後全く同じ夢を見たなら、二度目に煌綺に話す。もしそれ以降夢を見なくなるなら、煌綺に夢の内容を話すことが、夢を変えるきっかけになっている……ということだろうか。
そして煌綺は、それをやってみようと提案している、と。
そういうこと、だろうか。
「他の可能性もある。あるけどな。豊守の件を考えると、この線が結構有力じゃねえかと思う」
真剣な顔で話す煌綺を、未來はじぃと見つめた。
正直、なんでそうなるかはやっぱりわからないが、煌綺が言うからにはきっとそうなのだろう。
そして煌綺が言うからには、きっと試してみる価値はある。
未來はそう納得したのだが。
「まあ、また同じ夢を見ることがあるなら、の話だけどな」
煌綺は、諦めたような笑ったような、なんとも言えない顔をした。
まるで、未來がまた夢を見る前に、夢が現実化する可能性もあると言っているように。
もちろん、その通りではある。
でも、そう言った煌綺の声が、未來には苦しくて。
未來は思わず、煌綺のシャツの袖口を掴んだ。
「……あんだよ」
振り返り、立ち止まった煌綺に……。
未來は、何も言えなかった。
「……ごめん、何でもない」
何を言えばいいかわからないまま、手を離す。
うつむいた顔を、上げることができない。
心臓が、ぎゅっと縮むようだった。
煌綺はいつだって冷静で、冷静すぎて。
どこかに、行ってしまいそうで。
そのときだった。
うなだれた未來の額の上端に、トン、と煌綺のチョップが当たったのは。
驚き顔を上げると、そこには、今まで見たことがない煌綺がいた。
「バーカ」
優しさと悲しさが混ざったような複雑な顔で、煌綺は言う。
「んなことで泣きそうになんな」
「そんなことって……」
痛みの欠片もない額を、未來は両手で押さえた。
そんなことなんかじゃない。
君のことなのに。
こんな毎日が、すぐにでもなくなってしまうかもしれないって、君は言っているのに。
言葉にならない思いがぐるぐる巡る。
しかし煌綺は、未來を一瞥して、歩き出してしまった。
「そんなことなんだよ。おら、行くぞ」
この前『泣くくれえなら怒ってるほうが良いわな』と煌綺は言った。
そうかもしれない。
そうだと思うよ。
でも。
切ない気持ちで、未來は煌綺の背中を見つめ、追いかける。
と、未來が隣に並んですぐ。
「つーかお前、今日数学当たるんじゃねえか」
「は!!!!!」
「どうせ予習してねえだろ」
「してないね……」
「お前帰ってから勉強くらいしろよ」
「うう……ごもっとも……」
煌綺が強引に"日常"に戻すから、未來も一緒に"日常"に帰る。
これが一番いいということは、未來にもわかっていた。
しかし、思うのだ。
煌綺は自分の死が怖くないのだろうか。
煌綺は自分の死を、どうして"そんなこと"なんて言うのだろうか。
未來は、煌綺を助けようと、十字路に飛び出したときのことを思い出した。
「大層に人の命助けようってんなら」
煌綺はポケットに手を突っ込んだまま、勢いよく、ベンチに片足をのせた。
「てめえの命ごと、一緒に生かしやがれ!!」
あのとき、煌綺は未來に生きろと言った。
――でも。
私はどうしたら、君の命を繋げるんだろう。
私の命を繋いだままで、どうしたら――。
煌綺の隣を歩きながら、未來はそう思うのだった。