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第四話 二

 公園と神社の間の、坂道を抜けた先。

 街路樹が並ぶ十字路の、青信号を渡る高校生。

 きらめく金髪、白さが際立つワイシャツ姿。

 そこに、まっすぐ向かう大型トラック。


 伸ばした手。


「バーカ」


 君は笑った。

 衝撃音に、全てがかき消される前に。


 ※


 カーテンの隙間から差し込む朝日の中で、未來は目覚めた。

 ベッドに座り、布団の端を握りしめる。

 見開いた目。震える唇。

 蒼白の顔は、表情筋が固まってしまった彼のように動かない。


 すべては、たった今まで見ていた夢のせいだ。

 二日続けて同じ夢を見るのは、初めてのことだった。

 しかも夢の内容は、昨日と全く変わっていない。


「なんで……」


 ※


 快晴とは言い難い、薄い青の空の下。

 街路樹が並ぶあの十字路を、未來は煌綺と並んで歩いている。


 舗道の上を転がる小石。

 隙間に生えた、細長い雑草。

 そんなものが見えるのは、今日の未來が、煌綺と待ち合わせてからずっと、地面ばかりを見ているからだ。

 いつもなら、煌綺に会ってすぐに「おはよう」と笑いかけ、楽しげに話をしている未來か、である。


  伸ばした手。

  煌綺が笑う。


「バーカ」


  と言って。


 未來の頭の中では、今朝の夢が繰り返し再生されていた。

 煌綺は未來の沈黙に違和感を覚えたのだろう。


「あんだよ」


 頭上から問われ、未來は泣きそうな声でつぶやいた。


「……二日連続で、同じ夢見たの」


 言葉にすると、起こってしまった事実に、胸を締め付けられるようだった。

 そのときが迫っているのだと言われているみたいで、こんなことコウくんに言いたくなかったと、強く思う。

 でもきっと、言わなくてはいけないことでもあった。


 煌綺は黙ったまま。

 前を見て、続く言葉を待っている。

 未來は口を開いた。


「君の夢。この間と、ちょっと変わってた。でもこの二日間は、全く同じだった」

「変わったってのは」


 煌綺がいつもと変わらない声で聞く。


「本当に少しだけなんだけど……轢かれる前に、バカって言われたの」


 未來はうつむいたまま答えた。

 夢の根幹に関わっているでもない、小さなこと。

 だからこそ未來は、二日連続で同じ夢を見たことを、恐ろしく感じた。


 煌綺が、未來を向く。


「言われた……って、お前」


 その声音は、いつもとは違っていた。


「え?」


 未來は顔を上げた。

 だが、煌綺がなぜ驚いているかがわからない。

 きょとんと彼を見つめる未來に、煌綺は言った。


「その夢、お前が見てんのか」


 聞かれた瞬間、未來ははっと目を見開いた。


 そうだ、確かに私が"言われた"と。

 夢に起こった"大きな変化"に気づいたのだ。


「夢に自分はいないって話じゃなかったか」

「うん、そう。今までは確かに……」


 煌綺の真剣な眼差しを前に、未來は視線を落とした。

 これまでの夢を思い返す。

 しかしどんなに考えたところで、他の夢の中に未來はいなかった。

 映像は人が見るような一か所の視点から見えるものではなく、高さも場所もまちまちで、どちらかといえばカメラワークに近いものだった。


 しかし、今回は違う。

 視点は固定されており、未來自身が伸ばした手も、こちらを見る煌綺の顔も、目の前にあった。

 聞こえた声も近く、どこからわからない場所から響くことはなかった。


「あれは、私の視点……?」


 未來は、言葉と同時に立ち止まった。

 自ら声にし、自ら聞いたことで、そうではないかという思いが強くなる。


「そう考えると、前のときも……」


 未來は、初めて変化したときの煌綺の夢を思い出した。

 トラックに轢かれる前に、煌綺が笑った夢。

 まだ「バーカ」という言葉がなかったときの夢だ。


 あのときも確かに、伸ばした手が見えた。

 今回と同じように、届かなかった手が。


「私は……」


 予知夢が示す未来の中に、自分がいる。

 そのことに、未來は何とも言えない感覚を覚えた。

 体中に何かが張り付いているような、緩やかに動きを制限されるような、そんな感覚。


「何か、まるでリハーサルだな」


 歩き出しながら、煌綺が言った。


「え?」


 煌綺を追いながら、未來が問う。


「確かめてるみてえだろ。進行を」


 煌綺の声は、もういつもどおりだった。

 驚いているふうでも、恐れているふうでもない。

 ただ淡々と、思ったままを述べている。


 未來は、前を向いたままの煌綺の顔を見上げた。


「リハーサル……」


 恐ろしい未来劇の登場人物は、未來と煌綺と、トラックだ。

 トラックが突っ込んでくるシナリオは変わらない。

 しかし、未來と煌綺の動きは少しずつ変わっている。

 夢を見ることによって何かが変化するのだとしたら、確かに夢は、リハーサルと言えなくもないだろう。


「変化させる確証はまだねえけど」

「うん……」


 未來はうつむいた。

 夢を変えられるとわかっても、そのきっかけがわからなければ意味はない。


「まあ、連日見たなら近い日に来るのかもな」


 未來がいる位置とは反対の方向に視線を向けて、煌綺が言った。

 それは、未來自身も思っていた。

 しかし、未來が想像する未来と、煌綺が考える未来は重みが違う。

 ただなんとなく考えるだけの未來に対し、煌綺の言葉の裏には、必ず根拠があるからだ。


「予知夢の事実、俺が見てる限りじゃすぐ起きてるだろ」

「そう……だね……」


 煌綺の予知夢だけが、夢のまま。

 だが、夢のままで終わることはあり得ない。


 煌綺の言葉が、じりじりと胸に沈んでいく。

 柔らかな心は、今にも穴が開いてしまいそうだ。

 それはとても怖くて辛くて、新しい言葉なんて考えられなかった。

 視線の先には、枝葉の影が、暗い形を落とす並木の舗道。

 ざり、と小石を踏む音がやけに大きく聞こえるのは、沈黙が続いているからか。

 その重苦しい空気を、破ったのは煌綺だった。


「つーか、何で一度目の夢見た段階で言わねえんだよ」


 煌綺はそっぽを向いたまま、ため息交じりにそう言った。

 責めるふうではなく「仕方がねえな」と言うような声。

 おそらく、今の空気を変えようとしてくれたのだろう。

 それでも未來は、煌綺の顔を見ることはできなかった。


「ご、ごめん。その……。結果が、変わってなかったから……」


 言いながら不安になってちらりと見れば、煌綺は、もごもごと言う未來をじっと見つめていた。

 クラスの女子が怖がるような、鋭いまなざし。

 はたから見たら、煌綺の目線はいつもと同じだ。

 しかし未來は、胸の中を見透かされていると感じた。

 こんな煌綺に、隠し事をするのは無理だ、とも。


「……嘘です」


 未來は正直につぶやいた。


「本当は」


 煌綺が短く聞いた。問い詰めるではない、しかし核心を突いた質問だ。


「……みっちゃんの夢、変えられたから、きっと変えられると、思ってて。それなのに、君の夢が、変わってないから、不安になって」


 自分の気持ちを言葉にするのが苦手なのは、自覚している。

 未来は顔を上げぬまま、よく考えながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「君に言ったら、もうずっと、変わらないんじゃないかって思って」


 予知夢と言葉は関係ない。

 言葉には、夢を現実に引き寄せる力も夢を消し去る力もありはしない。

 そんなことはわかっていたけれど、気持ちが追い付かなかった。

 だって、変わると思っていたものが、変わらなかったのだ。

 それは、絶対に変化しない確定の未来を伝えているようで、怖くて。

 煌綺がいなくなるという現実が、ただひたすらに恐ろしくて。

 その日が、あの道を通る塾の日だったから、余計に、言いたくなくて。


 胸の重しは、いつしか全身に広がってしまったかのようだった。

 口を閉ざし、重い足を何とか動かして、未來は歩く。

 うつむく頬は、髪のカーテンに覆われていた。

 だから未來は、煌綺が少しだけ上を見たことには気づかない。


 ――だが。


「言わなくて何か変わったことあるかよ」


 呆れたような、今にもバーカと言いそうな声が、未來の鼓膜を揺らした。

 少し笑みを含んだその軽さに、未來はぱっと顔を上げる。


「ないけど!」


 わかってるけど言えなかったの! と、ちょっと拗ねた心情を、表情ははっきり告げていただろう。

 でも煌綺はそれ以上、未來をからかうようなそぶりは見せなかった。

 それどころか、いつもより少し、優しい顔をしていて。


 だからこそ、次の瞬間。


「……まあ、別にいいけどな」


 いつもと同じ顔で、そう呟いたことに、胸が締め付けられる。


 みっちゃんのときと同じだ、と思った。

 私は、信じてくれている人を、私の不安だけで裏切ろうとしてる。

 優しい人たちに、自分の想いを伝えることなく。

 そう気づいたら、未來の唇は、自然と動いていた。


「あの、ごめん」

「何が」

「言わなくて」

「別に」


 煌綺はいつものように、前を見たまま。

 返してくる言葉も、とても短かった。

 だが、怒っているわけではない。

 わかっていたが、未來はどうしても言わなければと焦り、口を開いた。


「あの、君を信じなかったから言わなかったわけじゃないんだよ。ただ、その……」


 怖かった。

 あの夢の、結末を言うことが。

 あの夢を、声という現実にしてしまうことが。

 今ですら、言葉にすることを恐れるくらいに。

 先を言えずに、うつむいている未來の耳に、また煌綺の声が届いた。


「わーってるよ」


 いつもよりちょっとだけ大きな声に、未來は顔を上げた。

 煌綺は未來の一歩前。

 片方の肩にリュックを背負い、ポケットに手を入れて歩いている。


 いつも通りだ。

 格好も、多くを話さないのも、いつもと同じ。

 それなのに、どうしてこんなに心が満たされているんだろう、と。

 未來は驚いた。

 驚いて、少し泣きそうになって、でも、唇には微笑が浮かんでいる。


 不意に、小学生の頃、猫に懐かれてしまった日のことを思い出した。

 かわいくて元気な猫だった。

 でも、公園で夜遅くまで一緒にいられても、簡単に飼えるわけではない。


『お前はお前で生きていかねーと』


 煌綺はそう言って、猫を追いやった。

 あの頃から、煌綺は一ミリもぶれていない。

 同情せず、ありのままを受け入れて、信じている。

 未來を、信じてくれている。


 煌綺は振り返らない。

 いつものペースで、未來がついてくると疑わず、歩いている。

 その横に並ぶべく、未來は少しだけ遅くなっていた足を速めた。


 今、煌綺を見つめる未來の胸に満ちるものがなにかは、未來にはわからない。

 温かくて優しくて、心地いいものがあるのはたしかだ。

 でも、それだけではない。

 重くて苦しくて悲しいことが、ずっとまとわりついて離れない。


 快晴とは言い難い、薄い青の空の下。

 街路樹が並ぶ十字路を、未來は煌綺と並んで歩いている――。



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