公園と神社の間の、坂道を抜けた先。
街路樹が並ぶ十字路の、青信号を渡る高校生。
きらめく金髪、白さが際立つワイシャツ姿。
そこに、まっすぐ向かう大型トラック。
伸ばした手。
「バーカ」
君は笑った。
衝撃音に、全てがかき消される前に。
※
カーテンの隙間から差し込む朝日の中で、未來は目覚めた。
ベッドに座り、布団の端を握りしめる。
見開いた目。震える唇。
蒼白の顔は、表情筋が固まってしまった彼のように動かない。
すべては、たった今まで見ていた夢のせいだ。
二日続けて同じ夢を見るのは、初めてのことだった。
しかも夢の内容は、昨日と全く変わっていない。
「なんで……」
※
快晴とは言い難い、薄い青の空の下。
街路樹が並ぶあの十字路を、未來は煌綺と並んで歩いている。
舗道の上を転がる小石。
隙間に生えた、細長い雑草。
そんなものが見えるのは、今日の未來が、煌綺と待ち合わせてからずっと、地面ばかりを見ているからだ。
いつもなら、煌綺に会ってすぐに「おはよう」と笑いかけ、楽しげに話をしている未來か、である。
伸ばした手。
煌綺が笑う。
「バーカ」
と言って。
未來の頭の中では、今朝の夢が繰り返し再生されていた。
煌綺は未來の沈黙に違和感を覚えたのだろう。
「あんだよ」
頭上から問われ、未來は泣きそうな声でつぶやいた。
「……二日連続で、同じ夢見たの」
言葉にすると、起こってしまった事実に、胸を締め付けられるようだった。
そのときが迫っているのだと言われているみたいで、こんなことコウくんに言いたくなかったと、強く思う。
でもきっと、言わなくてはいけないことでもあった。
煌綺は黙ったまま。
前を見て、続く言葉を待っている。
未來は口を開いた。
「君の夢。この間と、ちょっと変わってた。でもこの二日間は、全く同じだった」
「変わったってのは」
煌綺がいつもと変わらない声で聞く。
「本当に少しだけなんだけど……轢かれる前に、バカって言われたの」
未來はうつむいたまま答えた。
夢の根幹に関わっているでもない、小さなこと。
だからこそ未來は、二日連続で同じ夢を見たことを、恐ろしく感じた。
煌綺が、未來を向く。
「言われた……って、お前」
その声音は、いつもとは違っていた。
「え?」
未來は顔を上げた。
だが、煌綺がなぜ驚いているかがわからない。
きょとんと彼を見つめる未來に、煌綺は言った。
「その夢、お前が見てんのか」
聞かれた瞬間、未來ははっと目を見開いた。
そうだ、確かに私が"言われた"と。
夢に起こった"大きな変化"に気づいたのだ。
「夢に自分はいないって話じゃなかったか」
「うん、そう。今までは確かに……」
煌綺の真剣な眼差しを前に、未來は視線を落とした。
これまでの夢を思い返す。
しかしどんなに考えたところで、他の夢の中に未來はいなかった。
映像は人が見るような一か所の視点から見えるものではなく、高さも場所もまちまちで、どちらかといえばカメラワークに近いものだった。
しかし、今回は違う。
視点は固定されており、未來自身が伸ばした手も、こちらを見る煌綺の顔も、目の前にあった。
聞こえた声も近く、どこからわからない場所から響くことはなかった。
「あれは、私の視点……?」
未來は、言葉と同時に立ち止まった。
自ら声にし、自ら聞いたことで、そうではないかという思いが強くなる。
「そう考えると、前のときも……」
未來は、初めて変化したときの煌綺の夢を思い出した。
トラックに轢かれる前に、煌綺が笑った夢。
まだ「バーカ」という言葉がなかったときの夢だ。
あのときも確かに、伸ばした手が見えた。
今回と同じように、届かなかった手が。
「私は……」
予知夢が示す未来の中に、自分がいる。
そのことに、未來は何とも言えない感覚を覚えた。
体中に何かが張り付いているような、緩やかに動きを制限されるような、そんな感覚。
「何か、まるでリハーサルだな」
歩き出しながら、煌綺が言った。
「え?」
煌綺を追いながら、未來が問う。
「確かめてるみてえだろ。進行を」
煌綺の声は、もういつもどおりだった。
驚いているふうでも、恐れているふうでもない。
ただ淡々と、思ったままを述べている。
未來は、前を向いたままの煌綺の顔を見上げた。
「リハーサル……」
恐ろしい未来劇の登場人物は、未來と煌綺と、トラックだ。
トラックが突っ込んでくるシナリオは変わらない。
しかし、未來と煌綺の動きは少しずつ変わっている。
夢を見ることによって何かが変化するのだとしたら、確かに夢は、リハーサルと言えなくもないだろう。
「変化させる確証はまだねえけど」
「うん……」
未來はうつむいた。
夢を変えられるとわかっても、そのきっかけがわからなければ意味はない。
「まあ、連日見たなら近い日に来るのかもな」
未來がいる位置とは反対の方向に視線を向けて、煌綺が言った。
それは、未來自身も思っていた。
しかし、未來が想像する未来と、煌綺が考える未来は重みが違う。
ただなんとなく考えるだけの未來に対し、煌綺の言葉の裏には、必ず根拠があるからだ。
「予知夢の事実、俺が見てる限りじゃすぐ起きてるだろ」
「そう……だね……」
煌綺の予知夢だけが、夢のまま。
だが、夢のままで終わることはあり得ない。
煌綺の言葉が、じりじりと胸に沈んでいく。
柔らかな心は、今にも穴が開いてしまいそうだ。
それはとても怖くて辛くて、新しい言葉なんて考えられなかった。
視線の先には、枝葉の影が、暗い形を落とす並木の舗道。
ざり、と小石を踏む音がやけに大きく聞こえるのは、沈黙が続いているからか。
その重苦しい空気を、破ったのは煌綺だった。
「つーか、何で一度目の夢見た段階で言わねえんだよ」
煌綺はそっぽを向いたまま、ため息交じりにそう言った。
責めるふうではなく「仕方がねえな」と言うような声。
おそらく、今の空気を変えようとしてくれたのだろう。
それでも未來は、煌綺の顔を見ることはできなかった。
「ご、ごめん。その……。結果が、変わってなかったから……」
言いながら不安になってちらりと見れば、煌綺は、もごもごと言う未來をじっと見つめていた。
クラスの女子が怖がるような、鋭いまなざし。
はたから見たら、煌綺の目線はいつもと同じだ。
しかし未來は、胸の中を見透かされていると感じた。
こんな煌綺に、隠し事をするのは無理だ、とも。
「……嘘です」
未來は正直につぶやいた。
「本当は」
煌綺が短く聞いた。問い詰めるではない、しかし核心を突いた質問だ。
「……みっちゃんの夢、変えられたから、きっと変えられると、思ってて。それなのに、君の夢が、変わってないから、不安になって」
自分の気持ちを言葉にするのが苦手なのは、自覚している。
未来は顔を上げぬまま、よく考えながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「君に言ったら、もうずっと、変わらないんじゃないかって思って」
予知夢と言葉は関係ない。
言葉には、夢を現実に引き寄せる力も夢を消し去る力もありはしない。
そんなことはわかっていたけれど、気持ちが追い付かなかった。
だって、変わると思っていたものが、変わらなかったのだ。
それは、絶対に変化しない確定の未来を伝えているようで、怖くて。
煌綺がいなくなるという現実が、ただひたすらに恐ろしくて。
その日が、あの道を通る塾の日だったから、余計に、言いたくなくて。
胸の重しは、いつしか全身に広がってしまったかのようだった。
口を閉ざし、重い足を何とか動かして、未來は歩く。
うつむく頬は、髪のカーテンに覆われていた。
だから未來は、煌綺が少しだけ上を見たことには気づかない。
――だが。
「言わなくて何か変わったことあるかよ」
呆れたような、今にもバーカと言いそうな声が、未來の鼓膜を揺らした。
少し笑みを含んだその軽さに、未來はぱっと顔を上げる。
「ないけど!」
わかってるけど言えなかったの! と、ちょっと拗ねた心情を、表情ははっきり告げていただろう。
でも煌綺はそれ以上、未來をからかうようなそぶりは見せなかった。
それどころか、いつもより少し、優しい顔をしていて。
だからこそ、次の瞬間。
「……まあ、別にいいけどな」
いつもと同じ顔で、そう呟いたことに、胸が締め付けられる。
みっちゃんのときと同じだ、と思った。
私は、信じてくれている人を、私の不安だけで裏切ろうとしてる。
優しい人たちに、自分の想いを伝えることなく。
そう気づいたら、未來の唇は、自然と動いていた。
「あの、ごめん」
「何が」
「言わなくて」
「別に」
煌綺はいつものように、前を見たまま。
返してくる言葉も、とても短かった。
だが、怒っているわけではない。
わかっていたが、未來はどうしても言わなければと焦り、口を開いた。
「あの、君を信じなかったから言わなかったわけじゃないんだよ。ただ、その……」
怖かった。
あの夢の、結末を言うことが。
あの夢を、声という現実にしてしまうことが。
今ですら、言葉にすることを恐れるくらいに。
先を言えずに、うつむいている未來の耳に、また煌綺の声が届いた。
「わーってるよ」
いつもよりちょっとだけ大きな声に、未來は顔を上げた。
煌綺は未來の一歩前。
片方の肩にリュックを背負い、ポケットに手を入れて歩いている。
いつも通りだ。
格好も、多くを話さないのも、いつもと同じ。
それなのに、どうしてこんなに心が満たされているんだろう、と。
未來は驚いた。
驚いて、少し泣きそうになって、でも、唇には微笑が浮かんでいる。
不意に、小学生の頃、猫に懐かれてしまった日のことを思い出した。
かわいくて元気な猫だった。
でも、公園で夜遅くまで一緒にいられても、簡単に飼えるわけではない。
『お前はお前で生きていかねーと』
煌綺はそう言って、猫を追いやった。
あの頃から、煌綺は一ミリもぶれていない。
同情せず、ありのままを受け入れて、信じている。
未來を、信じてくれている。
煌綺は振り返らない。
いつものペースで、未來がついてくると疑わず、歩いている。
その横に並ぶべく、未來は少しだけ遅くなっていた足を速めた。
今、煌綺を見つめる未來の胸に満ちるものがなにかは、未來にはわからない。
温かくて優しくて、心地いいものがあるのはたしかだ。
でも、それだけではない。
重くて苦しくて悲しいことが、ずっとまとわりついて離れない。
快晴とは言い難い、薄い青の空の下。
街路樹が並ぶ十字路を、未來は煌綺と並んで歩いている――。