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第三話 二

 あたしには好きな人がいる。

 年上で、かっこよくて、優しい、家庭教師ってやつだ。

 優しいのは、生徒だからかもしれない。

 子供だからかもしれない。


 でも、それでも

 好きなものは好きなのだ。


 毎週火曜日の、十七時。

 今日は先生の都合で、月曜日の十七時半だけど。

 この時間を、あたしはとても楽しみにしてる。


 ※


「返ってきたテストから、見直してみようか」


 直弥の言葉に、瑞葉は「はーい!」と手を上げた。

 数学のテストは平均点ぎりぎりといったところだ。

 普通なら、こんな楽し気に「はーい!」と言うような状況ではないだろう。

 だが瑞葉は、この時間が――直弥が家庭教師をしてくれるこの二時間が、とても好きなのだ。


「じゃあ、まずはこの問題から……」


 直弥は長い指で、瑞葉が間違えた問題を指し示した。

 問題文を読み上げる声は優しく穏やかで、いつまでも聞いていたくなる。

 瑞葉は答案に顔を向けたまま、右隣に座る直弥をちらと見た。

 暗めの茶髪。うつむいた目にかかるくらいの、サラサラの前髪。

 直弥はキリッとした顔立ちをしているが、柔らかい、癒し系のような印象を与える。


「センセー、ここはどうやって解くんだっけ」


 瑞葉はシャープペンシルを持ったまま、右手で計算式を指差した。


「ここは、式を直してみると、どっかで見たことある形にならないかな?」


 直弥は瑞葉が指したのと同じ部分を、左手で指し示す。

 そうしながら、机の上の別紙に、右手のシャープペンシルでヒントを書いてくれた。


「あ、そっか。こうしなきゃいけなかったんだ」


 瑞葉はいつも、こうやって何度も質問しながら、ヒントをもらって、問題を解いていく。

 そうすると、バツ印がついていた答案に、ひとつずつ新たなマルが増えていくのだ。


「全部解けたー!」


 瑞葉が、間違いがなくなった答案を、バンザイをするように両手で持ち上げた。


「おめでとう」


 無邪気に喜ぶ瑞葉の隣で、直弥が拍手をしてくれる。

 彼は、瑞葉がテストでいい点数を取れなくても、怒ったりはしない。

 いつもこうして、一緒に直して、一緒に喜んでくれる。

 質問には丁寧に答えてくれるし、休憩中なら雑談だって、嫌な顔せず聞いてくれる。

 たまにではあるが、通話で話してくれることもある。

 本当に、とても優しい先生なのだ。


 ――でも最初は、こんなに好きになるなんて思わなかった。


 直弥の笑顔に、瑞葉は思う。

 彼のことを、好きだなあと感じるたびに。


 ※


 立石直弥は、現在大学の四年生だ。二年前から、瑞葉の家庭教師をしてくれている。

 高校受験なのにこの成績はまずいと考えた瑞葉の両親が連れてきたのだ。

 中学三年生の瑞葉は、勉強が嫌いでおしゃれが好きな女の子だった。

 授業中に居眠りをすることはしょっちゅう。

 髪染めは禁止なのに茶髪にしたり、スカートの丈を規定以上に短くしたり、親から見たら、心配しかなかっただろう。


 大学二年の直弥が、勉強を教えに家に来ると知ったとき、瑞葉はまず、面倒くさいと思った。

 得意ではない勉強するよりは、部活とおしゃれだけ楽しんでいられればよかった。

 家庭教師のために時間なんて作りたくなかった。


 しかし直弥は、勉強に積極的ではない瑞葉にも、優しくしてくれた。

 いつもニコニコ笑っていて、瑞葉が「わからない」と言っても怒らず、困った顔を見せることもない。

「もう無理」と諦めそうになっても「大丈夫、瑞葉ちゃんならできるよ」と言ってくれた。


 思春期の少女が、そんな人に会いたいと思わないのは、好きにならないのは、それこそ無理な話だった。

 瑞葉はそのうち、直弥が来てくれる家庭教師の日を楽しみにするようになった。

 そして、好きという気持ちが積もり積もって、恋愛感情になって、今に至っている。


 好きな人と毎週会える、ご褒美のような時間のある二年間。

 だが、ちょっと残念なこともある。


(昔なら、頭撫でてくれたのになぁ)


 たくさんのマルがついた答案を、瑞葉は机の上に下ろした。

 直弥の長い指には、偶然触れることもある。

 だがあの大きな手のひらの感触は、もうずいぶん長い間、感じていない。


「じゃあ、少し休憩しようか」


 そう言った直弥に、瑞葉は再度、バンザイするように手を上げた。


「やったー! 休憩する!」

「ふふ」


 直弥が、少しだけ目を細めて微笑む。

 言動も表情もクラスの男子達とはまるで違う直弥は、大人で、余裕で、かっこよく――。

 瑞葉の憧れの象徴でもあった。


 ※


 休憩の会話は、勉強に関することでなくても問題ない。

 瑞葉は机に面した椅子に座ったまま、身体全体を右隣に向けて、直弥を見上げた。


「先生、ちゃんとご飯食べてる?」

「食べてるよ?」


 瑞葉の唐突な質問に、直弥はいつもどおり、優しく答えてくれた。

 目線は当然のように、瑞葉を向いている。

 しかし瑞葉が「出来合いのものばかりじゃなくて?」と聞くと、様子が少しだけ変わった。


「……うん、もちろん」


 直弥は笑顔でそう答えはしたのだが。


「あ、目逸らした! 嘘じゃん! 先生料理できるでしょ!」


 前のめりの瑞葉の突っ込みに、直弥が苦笑する。


「あはは、最近忙しくて……」

「勉強?」


 瑞葉が尋ねると、彼は「ううん」と首を振った。


「学園祭。今年で終わりだから、みんなで頑張ろうって言っててさ」


 そう話す直弥の顔は、とても優しい笑顔だった。

 きっと大学には、素敵な友達がいるのだろう。


「そっか、先生の大学この時期なんだっけ! 今年こそ行きたいなあ」


 瑞葉は交差した足をぶらつかせて言った。


「あはは、じゃあ今年はおいでね」

「うん!」


 ニッコリ元気に答える瑞葉に、直弥が「ふふ」と静かに笑う。

 その笑顔を見ながら、瑞葉も、今年で最後だと考えていた。

 なにせ、直弥は大学の四年生。

 いろいろなことが今年で最後。

 つまり、ラストチャンスなのである。


 ――去年は部活があったから仕方なかったけど、今年こそは絶対行こう。


 そう思いつつ、瑞葉は少し、ほんの少しだけ大人ぶって、子供に言い聞かせるような顔をした。


「でも、それはそれとしてご飯はちゃんと食べないとだよ!」

「ごめんごめん。気をつけるよ」


 直弥はいつも通り、穏やかな声で言った。

 が、どうにも流されているような気がする。

 そこでふと、瑞葉は思い立った。

 悪戯っ子のように笑って、直弥を見上げる。


「あ、じゃあさ、今度作りに行ってあげようか?」


 瑞葉は、直弥の顔にぐっと顔を近づけて、目を覗き込むようにして言った。

 家庭教師が始まったばかりの頃、どんなきっかけだったか、直弥に料理を振るまったことがある。

 あのとき直弥は「美味しいよ」と言ってくれた。

 しかし瑞葉の料理の腕は、当時より格段に上がっているのだ。

 いつまでも子供ではないことを見せる、いいチャンスかもしれない。


「あれからまた美味しくできるようになったんだ――」


 期待を込めて、あるいは期待をしてほしくて、瑞葉は言った。

 それなのに、直弥の顔から微笑が消える。


「瑞葉ちゃん」

「え?」


 瑞葉は、いきなり雰囲気が変わった意味がわからぬままに、直弥を見た。

 彼は言う。


「駄目だよ」


 真剣な眼差しだ。まるで瑞葉を射抜くような。

 だが、その直後。

 彼はいつものように優しく笑い、瑞葉の口元に、そっと人差し指を添えた。


「男の人に、そういうこと言わない」


 それは瑞葉にとって、見惚れるほどに綺麗な微笑で、心がぎゅっとするほどに辛い言葉だった。


「わかった?」

「……うん」


 笑顔の直弥に、真顔でうなずく。

 素直に返事をしたのは、直弥は自分を女性として見てくれていると思ったからだ。

 ただ、一方で考えてしまう。

 そう思ってくれているのなら、もうちょっと、意識してくれたらいいのに、と。


 楽しい時間が終わりを迎えた、十九時半頃。

 玄関で直弥を見送った瑞葉は、部屋に戻るなり、教科書が載っている机に突っ伏した。

 無理かなぁ。あたしそんな子供っぽいのかなぁと、直弥が紙に書いてくれた、問題のヒントを見ながら思う。


 直弥との年齢差は五歳だ。

 中学も高校も被らない。小学生ならぎりぎり被る年数だが、直弥からしたら子供と感じるかもしれない。


「……でももう、子供じゃないよ」


 瑞葉は呟き、人差し指で、直弥が書いた文字をなぞった。

 大人ではないかもしれないが、子供ではない。

 大人と子供の間の時間を、人はなんと呼ぶのだろう。


 突然、スマホの通知音が鳴った。

 机の上に左手を伸ばして確認すると、未來からだった。


『今からみっちゃんの家の近くの公園に来れる?』


 メッセージの内容に、瑞葉は目を見開いた。

 未來は普段、自分から人を誘うことはあまりないのだ。


 ――もしかして、何かあった?


 瑞葉は慌てて立ち上がった。

 テディベアの刺繍がついた白いTシャツに、黒のショートパンツとソックスを合わせ、デニムジャケットを羽織る。


「母様ー! ちょっと出かけてくるー!」


 瑞葉は、玄関でスニーカーを履きながら、キッチンで夕飯を作っている母親に声をかけた。


「どこー?」

「公園ー! ミライと会うのー!」


「気をつけてねー」と返す母親に「わかったー」と返事をして家を出た。

 瑞葉の家から公園までは、徒歩で七分ほど。

 瑞葉が走れば、四分くらいで着くだろう。


 もちろん、瑞葉は走った。

 話なんて明日学校でもできるのに、わざわざ瑞葉の家の近くの公園まで来るというのは、ただごとではない気がしたからだ。


 ※


 十九時四十三分。

 砂場と鉄棒と小さな滑り台があるだけの公園が近づくと、ベンチに座る未來が見えた。

 しかし、声をかけようと入口に差し掛かったところで、瑞葉は気付いた。

 未來のそばに、見覚えのある男――篠川煌綺が立っているのだ。


 誘いが来たのは未來からで、メッセージには煌綺のことは一文字だって書いてなかった。

 それなのに。


「何で?」


 意味がわからないまま、瑞葉は固まった。


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