「あ!!!」
数学の授業中、椅子を鳴らして、未來は立ち上がった。
クラスメイトが未來に注目し、板書をしていた渋也が振り返る。
「……何か気付いたことでもあったか? それとも、デカい寝言か?」
渋也は、眼鏡を光らせニヤリと笑った。
「ご、ごめんなさい。何でもないです」
未來は赤い顔で両手を振り、笑ってごまかした。
腰を下ろすと、隣の女子が話しかけてきた。
「ミライ寝不足ー?大丈夫ー?」
「あはは……ごめん、大丈夫」
苦笑しながら答え、ノートに書かれた言葉に目を向ける。
電車の色。
ライン。
ああ、何で私、こんなに記憶力ないんだろう。
覚えていたら、あのとき、すぐにわかったことだったのにと、未來は落胆した。
しかし、気づけた。
そして気づいたからには、もう授業どころではない。
未來は、壁の時計を見上げた。
授業が終わるまで、あと二十分もあった。
その二十分を、未來は、時計と黒板とノートを見て過ごした。
何とか板書は書き写したが、集中してないため、文字ががたがただ。
だが、授業は無難に終えることができた。
授業終了のチャイムを聞きながら、ほっとしたのも束の間。
「おいこらてめえ行くぞ」
未來は、後ろからやって来た煌綺に、いきなり二の腕を掴まれた。
「え、え!? 何!? 待って!! わああああ」
ぽかんとするクラスメイト。
教科書を片付けていた瑞葉がきょとんと、まだ教壇に立っていた渋也が真顔で見る前で。
未來は誘拐されるかのように、煌綺に連れ去られたのだった。
※
煌綺が未來を連れて向かった先は、四階の空き教室だった。
誰もいない部屋の扉を開けて、乱雑に置かれた机のひとつに、煌綺は座った。
「ど、どうしたの?」
未來は煌綺の前に立ったまま聞いた。
「さっき。どうせ何か気付いたんだろ」
「そ、そう」
未來を見上げた煌綺は、無言のまま、視線で「言え」と促してくる。
未來は両手を顔の前に合わせると、少しだけ不安げな顔をした。
思い出したことに間違いはないはずだ。
しかし情報は少なく、完全には程遠い。
それでも、言っていいのだろうか。
迷うが、煌綺は未來が話すのを待っている。
「あのね」
観念したように、未來は口を開いた。
「まず、最初に思い出したのが電車のラインの色なの」
「ああ」
煌綺はしっかり、未來の顔を見ている。
未來は続けて、口を動かした。
「緑のラインが入った電車で、駅にはホームドアがなかったの」
煌綺は無言だ。
だが、記憶の収集に必死な未來は気にはせず、更なる情報を付け加える。
「それで、その電車、ラッピング電車だったの」
「ラッピング電車ぁ?」
それまで平坦だった煌綺の声が、少しだけ高く跳ねた。
「そう、黒いフード被ってる、白雪物語っていうアーティストさんのラッピング電車」
「じゃあ予定調べりゃいいだろ」
と、煌綺は言うが――。
「それが、そのラッピング電車、今日で最終日なの」
煌綺の目が、わずかに大きくなった。
「みっちゃんが言ってたから確かだよ。昨日見に行ったの」
「駅は思い出せねえのか」
「それが全然……」
眉尻を下げる未來に、煌綺は畳みかけるように聞いた。
「建物でも音でも何でもいい。少しでも思い出せること全部言え。あの路線はホームドアの無ぇ駅は少ねえから」
「わかった」
未來は記憶に残るすべてのことを、煌綺に伝えた。
線路の向こうにホームがないことや、高い所に大きな橋みたいなものが見えること。
右側に大きなビルがあることなど、些細と思えることも、全部だ。
未來が言い終えると、聞きながらスマホを操作していた煌綺は、納得したように顔を上げた。
「放課後空いてんのか」
「え?」
「用事ねえなら、乗り換えりゃすぐ行ける」
煌綺は、スマホをポケットにしまって立ち上がった。
「ど、どこかわかったの?」
「二つ隣の駅から乗り換えて五駅くらい行きゃつく」
煌綺は額に手を上げ、髪をかき上げて、何やら考える様子だ。
その煌綺を、未來は驚き顔で見つめた。
あの情報から、こんな短時間でわかるなんて。
未來一人だったら、情報のひとつひとつをネットで調べたとしても、すべてを統合し、駅を特定するところまではいたらなかっただろう。
「で? どうすんだよ」
煌綺の視線だけが、未來に向いた。
「っ……行く!!」
未來は胸の前でこぶしを握り、力強く言ったのだった。
※
目的のホームは、いったんエスカレーターで登り、通路を移動して、またエスカレーターで下った先にある。
煌綺に事前に道筋を聞いていた未來は、駅に着いてすぐ、ひとつめのエスカレーターに飛び乗った。
放課後、瑞葉の誘いを断って、未來は教室を飛び出した。
先に昇降口に向かった煌綺を追いかけ、ともに電車を乗り継いで、この駅降り立ったのが数分前のことだ。
移動の間、未來と煌綺に会話はなかった。
未來はひどく緊張していたし、煌綺はもともと饒舌なわけではない。
ただ傍らに、煌綺がいる。
そのことが、未來の心を強くしていた。
未來はエスカレーターを駆け上がった。
人が多いので、煌綺はなかなか追いつけない。
しかし一人になっても、未來は走った。
必死だった。
なぜかはわからない。
ただ、急がなければと思った。
上階の連絡通路を通り抜け、壁横のエスカレーターを駆け降りる。
片端に立っている人が迷惑そうな顔をしたが、気づかなかった。
ただ、早く早くと、何かに急かされるままに足を動かす。
そして、これを下り切ったら目的のホームだ、というところで――。
未來は、声なく叫んだ。
足が止まる。
悲鳴が、聞こえたのだ。
続く警笛。
ブレーキ音。
エスカレーター横の、壁が途切れた向こう側に、人込みが見える。
夢とは違う視点だ。
しかし、未來はわかった。
これが、あの予知夢の結末だと。
声も、電車も、光景も。
全部が、夢と同じだったから。
「間に、合わなかった……」
未來は、流されるままにエスカレーターを降り、力なく立ち尽くした。
追いついた煌綺が、未來の隣に立つ。
しかしその存在に、未來は気づかない。
ただ呆然と、人山を見ている。
思い出すのが遅かったんだ。
もっと早く気づけばよかった。
そうしたら、時間まで導き出せたかも知れない。
間に合ったところで、何もできなかったかもしれないけれど。
それでも。
夢を変えられたかもしれない。
未来を変えられたかもしれない。
自責という名の重りがのった、未來の体は動かない。
一方的に与えられた情報を、自身のものとしてしまったがゆえに、心を焼かれている。
ただ、諦めきれない。
そうだ、今からだって――。
未來は、よろりと足を踏み出そうとした。
しかし、揺れた身体に、引力。
煌綺の右手が、未來の左腕を掴んでいた。
「グーゼンだ」
腕を引く力は、強くはない。
聞こえる声だって、大きくはない。
それなのに、喧騒を断ち切るような。
「ただのグーゼン。そう思っとけよ」
言い聞かせるような静かな声音に、未來の顔が歪んだ。
こんなにも同じなのに。
こんなにも、重なるのに。
偶然のはずはないのに。
何を言おうにも、言葉にならない。
「お前が背負うことじゃねえ」
「でも……」
未來は、震える声で呟いた。
知っていたのに、と。
私だけは知っていたのに、と。
同じ言葉が、頭の中をぐるぐる巡る。
だが次の瞬間、その動きが止まった。
煌綺が言ったのだ。
「……そもそも飛び込みだ。お前に責任なんざねえよ」
未來は息を飲んだ。
「どうして、それを知ってるの?」
そう言おうとしたが、唇が震えて声にならない。
煌綺の目線が、周囲に向いた。
「聞こえただろ。見てた奴らの叫び声」
「……聞いてなかった」
いや、声は聞こえていた。
ただ未來は、それぞれの言葉の意味を認識していなかった。
理解しようとする余裕がなかったのだ。
未來の腕から、煌綺の手が離れていく。
彼に向き直り、落ち着いた表情を見るうちに、ふと。
未來の唇から、転がり出た言葉があった。
「……コウくんが、予知夢を見れたら、よかったのに」
その発言に、深い意味があったわけではない。
ただ未來は、自分の無力さに絶望したのだ。
「あ?」
煌綺が短く返す。
「だって、私じゃ、何も変えられなかった……」
未來はうつむき、制服のスカートの裾をきゅっと握った。
喉奥がかたくなり、声が震え、
「駅の場所だって、私だけじゃわかんなかった」
熱くなってきた目に、じんわり涙の膜が張る。
この間、煌綺は黙って、未來の言葉を聞いていた。
だが未來が「私に見えたって、何の意味もなかった……」と言うと、
「あほか」
煌綺はたった三音で、未來の言葉を一蹴した。
「俺はお前と違って、自分が頑張ることで誰かを守れるなんて思えねえし」
呆れた声で続けた煌綺に、未來ははっと顔を上げた。
「そ、そこまで思ってないよ! ただ、できることくらい、やりたいだけだもん」
まっすぐに煌綺を見上げ、未來にしては大きな声を出す。
と、それまでそっぽを向いていた煌綺の視線が、未來の目線にぶつかった。
「ならその泣きそうな顔やめとけ。できることしただろ」
「でも……」
煌綺が言うことは正しい。
未來は、今の自分ができる限りのことをしたつもりだ。
だが、夢の結末は変わらなかった。
変わらなければ、意味がないのに。
だからこそ未來は、夢を見られるのが煌綺だったらいいのにと思う。
夢を見たって、未來には何もできないのだから。
未來がこう思っていることすら、煌綺はお見通しなのだろう。
再び未來から目を逸らして、彼は言った。
「そもそも俺は、誰かを守ろうなんて思わねえから、んな夢見たって何もしねえし」
「でも、こうして、一緒に」
動いてくれたのに、と。
呟く途中、煌綺は諦めたように未來を見、ため息とともにこう告げた。
「じゃねえと、お前がまた突っ込んでいくだろ。一人で」
未來は目を見開いた。
驚いた。
煌綺は未來が、助けたいと言ったから助けてくれたのだ。
それはつまり、煌綺は未來を心配して、一緒に動いてくれたということで。
さらには、それだけ迷惑をかけた、ということで。
「もう少し周り見て動け。アホ」
両手をポケットに入れたまま、諭すように、煌綺は言った。
「……ごめんなさい」
他の人では察しえぬ煌綺の声の穏やかさに、未來の目から涙がこぼれ落ちる。
これは、後悔でも助けられなかった人への贖罪でもない。
煌綺への反省の証だ。
「帰んぞ」
「……うん」
未來は、煌綺に続いて、エスカレーターにのった。
広い背中を見て思うのはただひとつ。
煌綺を失いたくないということだ。
ただ、このままの自分で、煌綺を助けられるのか。
未來は無意識に、スカートの裾をきゅっと掴んだ。
※
二人は最寄りの駅から、歩いて自宅に向かった。
十八時を過ぎた五月の空は、夕方よりは夜に近い。
ただその闇は、住宅街の街灯が照らしてくれていた。
路地裏の静かな道の細い歩道に、二人の足音が鳴っている。
「ねえ」
未來は呼びかけた。
「あー?」
煌綺は振り向かえることなく、返事をする。
いつもの声だ。
だが未來のほうは、いつもの気持ちにはなれない。
帰りの電車に乗ったときから、ずっと考えている。
今日はグーゼンで処理した夢を――処理してしまった予知夢を、変えるにはどうしたらいいかと。
グーゼンが続くということは、煌綺も助からないということだから。
ずっと、考えている。
「あの、今日のは、グーゼン、だったかもしれないけど」
未來の呼びかけに、煌綺は無反応だ。
返事があったりなかったりもいつものこと。
そう思いながら、未來は「それでも……」と言いかけた。
実際は、自らの意思で言いかけたわけではない。
煌綺が、言葉を重ねたのだ。
「疑ってねえよ。”最初”から」
いつものように、前を見たまま。
いつもより、少しだけ大きな声で。
未來の胸が、温かな思いで満ちていく。
煌綺がグーゼンと言ったのは、未來の話を信じなかったからではない。
優しさだったのだ。
十年以上前のあのときも、今回も――。
「ありがとう……」
『グーゼンだよ、グーゼン!』と言ってくれた当時の煌綺と、目の前の煌綺に伝えるつもりで、未來はつぶやいた。
彼の、広い背中を見つめて。
「別に」
ちょっと強めの、声が聞こえた。
※
その日の夜。
未來がベッドの中で目を閉じると、今日の喧騒が聞こえてきた。
叫び声。
続く警笛。
ブレーキ音。
「偶然、偶然、偶然」と言い聞かせ、うつ伏せの頭を、枕の下に滑り込ませる。
それなのに、思い出される、煌綺の背中。
電車の音にトラックの音が重なって、今日の出来事が、煌綺の未来に変じていく。
怖くて泣きそうだ。
そのとき。
――ポン、と、スマホが鳴った。
未來はうつぶせのまま肘をついて、体を起こした。
枕元のスマホを手に取り、画面を見て、目を見開く。
――早く寝ろ。
煌綺からのメッセージだった。
書かれたことは、たった一言。
だがその一言を、未來は無意識に、微笑み見つめていた。
昔みたいに煌綺が傍にいて、「大丈夫だ」と言ってくれているみたいだ。
――ありがとう。
未來は一言返し、横向きに寝転がって、目を閉じた。
叫び声が、消えている。
代わりに夢に見たのは、
『だから言っただろ。んなことで泣くなって』
と、少しだけ誇らしげな、煌綺の姿。
逸らした視線も、ポケットに突っ込んだ両手も、今と同じ。
でも今よりずっと幼い、彼、だった。