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第二話 三

「あ!!!」


 数学の授業中、椅子を鳴らして、未來は立ち上がった。

 クラスメイトが未來に注目し、板書をしていた渋也が振り返る。


「……何か気付いたことでもあったか? それとも、デカい寝言か?」


 渋也は、眼鏡を光らせニヤリと笑った。


「ご、ごめんなさい。何でもないです」


 未來は赤い顔で両手を振り、笑ってごまかした。

 腰を下ろすと、隣の女子が話しかけてきた。


「ミライ寝不足ー?大丈夫ー?」

「あはは……ごめん、大丈夫」


 苦笑しながら答え、ノートに書かれた言葉に目を向ける。


 電車の色。

 ライン。


 ああ、何で私、こんなに記憶力ないんだろう。

 覚えていたら、あのとき、すぐにわかったことだったのにと、未來は落胆した。

 しかし、気づけた。

 そして気づいたからには、もう授業どころではない。

 未來は、壁の時計を見上げた。

 授業が終わるまで、あと二十分もあった。


 その二十分を、未來は、時計と黒板とノートを見て過ごした。

 何とか板書は書き写したが、集中してないため、文字ががたがただ。

 だが、授業は無難に終えることができた。


 授業終了のチャイムを聞きながら、ほっとしたのも束の間。


「おいこらてめえ行くぞ」


 未來は、後ろからやって来た煌綺に、いきなり二の腕を掴まれた。


「え、え!? 何!? 待って!! わああああ」


 ぽかんとするクラスメイト。

 教科書を片付けていた瑞葉がきょとんと、まだ教壇に立っていた渋也が真顔で見る前で。

 未來は誘拐されるかのように、煌綺に連れ去られたのだった。


 ※


 煌綺が未來を連れて向かった先は、四階の空き教室だった。

 誰もいない部屋の扉を開けて、乱雑に置かれた机のひとつに、煌綺は座った。


「ど、どうしたの?」


 未來は煌綺の前に立ったまま聞いた。


「さっき。どうせ何か気付いたんだろ」

「そ、そう」


 未來を見上げた煌綺は、無言のまま、視線で「言え」と促してくる。

 未來は両手を顔の前に合わせると、少しだけ不安げな顔をした。

 思い出したことに間違いはないはずだ。

 しかし情報は少なく、完全には程遠い。

 それでも、言っていいのだろうか。

 迷うが、煌綺は未來が話すのを待っている。


「あのね」


 観念したように、未來は口を開いた。


「まず、最初に思い出したのが電車のラインの色なの」

「ああ」


 煌綺はしっかり、未來の顔を見ている。

 未來は続けて、口を動かした。


「緑のラインが入った電車で、駅にはホームドアがなかったの」


 煌綺は無言だ。

 だが、記憶の収集に必死な未來は気にはせず、更なる情報を付け加える。


「それで、その電車、ラッピング電車だったの」

「ラッピング電車ぁ?」


 それまで平坦だった煌綺の声が、少しだけ高く跳ねた。


「そう、黒いフード被ってる、白雪物語っていうアーティストさんのラッピング電車」

「じゃあ予定調べりゃいいだろ」


 と、煌綺は言うが――。


「それが、そのラッピング電車、今日で最終日なの」


 煌綺の目が、わずかに大きくなった。


「みっちゃんが言ってたから確かだよ。昨日見に行ったの」

「駅は思い出せねえのか」

「それが全然……」


 眉尻を下げる未來に、煌綺は畳みかけるように聞いた。


「建物でも音でも何でもいい。少しでも思い出せること全部言え。あの路線はホームドアの無ぇ駅は少ねえから」

「わかった」


 未來は記憶に残るすべてのことを、煌綺に伝えた。

 線路の向こうにホームがないことや、高い所に大きな橋みたいなものが見えること。

 右側に大きなビルがあることなど、些細と思えることも、全部だ。


 未來が言い終えると、聞きながらスマホを操作していた煌綺は、納得したように顔を上げた。


「放課後空いてんのか」

「え?」

「用事ねえなら、乗り換えりゃすぐ行ける」


 煌綺は、スマホをポケットにしまって立ち上がった。


「ど、どこかわかったの?」

「二つ隣の駅から乗り換えて五駅くらい行きゃつく」


 煌綺は額に手を上げ、髪をかき上げて、何やら考える様子だ。

 その煌綺を、未來は驚き顔で見つめた。

 あの情報から、こんな短時間でわかるなんて。

 未來一人だったら、情報のひとつひとつをネットで調べたとしても、すべてを統合し、駅を特定するところまではいたらなかっただろう。


「で? どうすんだよ」


 煌綺の視線だけが、未來に向いた。


「っ……行く!!」


 未來は胸の前でこぶしを握り、力強く言ったのだった。


 ※


 目的のホームは、いったんエスカレーターで登り、通路を移動して、またエスカレーターで下った先にある。

 煌綺に事前に道筋を聞いていた未來は、駅に着いてすぐ、ひとつめのエスカレーターに飛び乗った。


 放課後、瑞葉の誘いを断って、未來は教室を飛び出した。

 先に昇降口に向かった煌綺を追いかけ、ともに電車を乗り継いで、この駅降り立ったのが数分前のことだ。


 移動の間、未來と煌綺に会話はなかった。

 未來はひどく緊張していたし、煌綺はもともと饒舌なわけではない。

 ただ傍らに、煌綺がいる。

 そのことが、未來の心を強くしていた。


 未來はエスカレーターを駆け上がった。

 人が多いので、煌綺はなかなか追いつけない。

 しかし一人になっても、未來は走った。

 必死だった。

 なぜかはわからない。

 ただ、急がなければと思った。


 上階の連絡通路を通り抜け、壁横のエスカレーターを駆け降りる。

 片端に立っている人が迷惑そうな顔をしたが、気づかなかった。

 ただ、早く早くと、何かに急かされるままに足を動かす。

 そして、これを下り切ったら目的のホームだ、というところで――。

 未來は、声なく叫んだ。


 足が止まる。

 悲鳴が、聞こえたのだ。


 続く警笛。

 ブレーキ音。

 エスカレーター横の、壁が途切れた向こう側に、人込みが見える。


 夢とは違う視点だ。

 しかし、未來はわかった。

 これが、あの予知夢の結末だと。

 声も、電車も、光景も。

 全部が、夢と同じだったから。


「間に、合わなかった……」


 未來は、流されるままにエスカレーターを降り、力なく立ち尽くした。

 追いついた煌綺が、未來の隣に立つ。

 しかしその存在に、未來は気づかない。

 ただ呆然と、人山を見ている。


 思い出すのが遅かったんだ。

 もっと早く気づけばよかった。

 そうしたら、時間まで導き出せたかも知れない。

 間に合ったところで、何もできなかったかもしれないけれど。

 それでも。

 夢を変えられたかもしれない。

 未来を変えられたかもしれない。


 自責という名の重りがのった、未來の体は動かない。

 一方的に与えられた情報を、自身のものとしてしまったがゆえに、心を焼かれている。

 ただ、諦めきれない。


 そうだ、今からだって――。


 未來は、よろりと足を踏み出そうとした。

 しかし、揺れた身体に、引力。

 煌綺の右手が、未來の左腕を掴んでいた。


「グーゼンだ」


 腕を引く力は、強くはない。

 聞こえる声だって、大きくはない。

 それなのに、喧騒を断ち切るような。


「ただのグーゼン。そう思っとけよ」


 言い聞かせるような静かな声音に、未來の顔が歪んだ。

 こんなにも同じなのに。

 こんなにも、重なるのに。

 偶然のはずはないのに。

 何を言おうにも、言葉にならない。


「お前が背負うことじゃねえ」

「でも……」


 未來は、震える声で呟いた。

 知っていたのに、と。

 私だけは知っていたのに、と。

 同じ言葉が、頭の中をぐるぐる巡る。


 だが次の瞬間、その動きが止まった。

 煌綺が言ったのだ。


「……そもそも飛び込みだ。お前に責任なんざねえよ」


 未來は息を飲んだ。


「どうして、それを知ってるの?」


 そう言おうとしたが、唇が震えて声にならない。

 煌綺の目線が、周囲に向いた。


「聞こえただろ。見てた奴らの叫び声」

「……聞いてなかった」


 いや、声は聞こえていた。

 ただ未來は、それぞれの言葉の意味を認識していなかった。

 理解しようとする余裕がなかったのだ。


 未來の腕から、煌綺の手が離れていく。

 彼に向き直り、落ち着いた表情を見るうちに、ふと。

 未來の唇から、転がり出た言葉があった。


「……コウくんが、予知夢を見れたら、よかったのに」


 その発言に、深い意味があったわけではない。

 ただ未來は、自分の無力さに絶望したのだ。


「あ?」


 煌綺が短く返す。


「だって、私じゃ、何も変えられなかった……」


 未來はうつむき、制服のスカートの裾をきゅっと握った。

 喉奥がかたくなり、声が震え、


「駅の場所だって、私だけじゃわかんなかった」


 熱くなってきた目に、じんわり涙の膜が張る。


 この間、煌綺は黙って、未來の言葉を聞いていた。

 だが未來が「私に見えたって、何の意味もなかった……」と言うと、


「あほか」


 煌綺はたった三音で、未來の言葉を一蹴した。


「俺はお前と違って、自分が頑張ることで誰かを守れるなんて思えねえし」


 呆れた声で続けた煌綺に、未來ははっと顔を上げた。


「そ、そこまで思ってないよ! ただ、できることくらい、やりたいだけだもん」


 まっすぐに煌綺を見上げ、未來にしては大きな声を出す。

 と、それまでそっぽを向いていた煌綺の視線が、未來の目線にぶつかった。


「ならその泣きそうな顔やめとけ。できることしただろ」

「でも……」


 煌綺が言うことは正しい。

 未來は、今の自分ができる限りのことをしたつもりだ。

 だが、夢の結末は変わらなかった。

 変わらなければ、意味がないのに。


 だからこそ未來は、夢を見られるのが煌綺だったらいいのにと思う。

 夢を見たって、未來には何もできないのだから。


 未來がこう思っていることすら、煌綺はお見通しなのだろう。

 再び未來から目を逸らして、彼は言った。


「そもそも俺は、誰かを守ろうなんて思わねえから、んな夢見たって何もしねえし」

「でも、こうして、一緒に」


 動いてくれたのに、と。

 呟く途中、煌綺は諦めたように未來を見、ため息とともにこう告げた。


「じゃねえと、お前がまた突っ込んでいくだろ。一人で」


 未來は目を見開いた。

 驚いた。

 煌綺は未來が、助けたいと言ったから助けてくれたのだ。

 それはつまり、煌綺は未來を心配して、一緒に動いてくれたということで。

 さらには、それだけ迷惑をかけた、ということで。


「もう少し周り見て動け。アホ」


 両手をポケットに入れたまま、諭すように、煌綺は言った。


「……ごめんなさい」


 他の人では察しえぬ煌綺の声の穏やかさに、未來の目から涙がこぼれ落ちる。

 これは、後悔でも助けられなかった人への贖罪でもない。

 煌綺への反省の証だ。


「帰んぞ」

「……うん」


 未來は、煌綺に続いて、エスカレーターにのった。

 広い背中を見て思うのはただひとつ。

 煌綺を失いたくないということだ。

 ただ、このままの自分で、煌綺を助けられるのか。

 未來は無意識に、スカートの裾をきゅっと掴んだ。


 ※


 二人は最寄りの駅から、歩いて自宅に向かった。

 十八時を過ぎた五月の空は、夕方よりは夜に近い。

 ただその闇は、住宅街の街灯が照らしてくれていた。


 路地裏の静かな道の細い歩道に、二人の足音が鳴っている。


「ねえ」


 未來は呼びかけた。


「あー?」


 煌綺は振り向かえることなく、返事をする。

 いつもの声だ。

 だが未來のほうは、いつもの気持ちにはなれない。

 帰りの電車に乗ったときから、ずっと考えている。

 今日はグーゼンで処理した夢を――処理してしまった予知夢を、変えるにはどうしたらいいかと。

 グーゼンが続くということは、煌綺も助からないということだから。

 ずっと、考えている。


「あの、今日のは、グーゼン、だったかもしれないけど」


 未來の呼びかけに、煌綺は無反応だ。

 返事があったりなかったりもいつものこと。

 そう思いながら、未來は「それでも……」と言いかけた。

 実際は、自らの意思で言いかけたわけではない。

 煌綺が、言葉を重ねたのだ。


「疑ってねえよ。”最初”から」


 いつものように、前を見たまま。

 いつもより、少しだけ大きな声で。


 未來の胸が、温かな思いで満ちていく。

 煌綺がグーゼンと言ったのは、未來の話を信じなかったからではない。

 優しさだったのだ。

 十年以上前のあのときも、今回も――。


「ありがとう……」


『グーゼンだよ、グーゼン!』と言ってくれた当時の煌綺と、目の前の煌綺に伝えるつもりで、未來はつぶやいた。

 彼の、広い背中を見つめて。


「別に」


 ちょっと強めの、声が聞こえた。


 ※


 その日の夜。

 未來がベッドの中で目を閉じると、今日の喧騒が聞こえてきた。


 叫び声。

 続く警笛。

 ブレーキ音。


「偶然、偶然、偶然」と言い聞かせ、うつ伏せの頭を、枕の下に滑り込ませる。

 それなのに、思い出される、煌綺の背中。

 電車の音にトラックの音が重なって、今日の出来事が、煌綺の未来に変じていく。

 怖くて泣きそうだ。


 そのとき。

 ――ポン、と、スマホが鳴った。


 未來はうつぶせのまま肘をついて、体を起こした。

 枕元のスマホを手に取り、画面を見て、目を見開く。


 ――早く寝ろ。


 煌綺からのメッセージだった。

 書かれたことは、たった一言。

 だがその一言を、未來は無意識に、微笑み見つめていた。

 昔みたいに煌綺が傍にいて、「大丈夫だ」と言ってくれているみたいだ。


 ――ありがとう。


 未來は一言返し、横向きに寝転がって、目を閉じた。

 叫び声が、消えている。

 代わりに夢に見たのは、


『だから言っただろ。んなことで泣くなって』


 と、少しだけ誇らしげな、煌綺の姿。

 逸らした視線も、ポケットに突っ込んだ両手も、今と同じ。

 でも今よりずっと幼い、彼、だった。


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