幼馴染が死ぬ夢を見た。
またあの日と同じ夢だった。
公園と神社の間の、坂道を抜けた先。
街路樹が並ぶ十字路の、青信号を渡る高校生。
きらめく金髪、白さが際立つワイシャツ姿。
近づいてくるトラック。
スピードは落ちないまま。
君に、手が届かない。
最後に。
最後に、君は――。
※
カーテンの隙間から、春の朝日が差し込んでいる。
庭にやって来た小鳥の鳴き声が聞こえた。
いつもと同じ朝。
起き上がり、未來は呆然とした。
夢の中の煌綺が、"微笑って"いたように見えたからだ。
――あのときの君は微笑っていなかったのに。
もしかして、今回は予知夢じゃないの?
一瞬思う。だが未來の感覚は、これは予知夢だと告げていた。
――じゃあ、どうして夢が変わったの?
未來の記憶違いではない。
感覚違いでもない。
そこまで考えて、未來は気づいた。
――もしかして。
未来は、変わるの?
※
「岡田のあの顔、怖いったらない」
昼休み。二年A組の教室にて。
未來は机の上を片付けながら、友人の豊守瑞葉とお喋りをしていた。
「あはは、大変だったね」
「何も授業中まであんな顔しなくてもさぁ」
瑞葉は口を尖らせた。
くるんと丸い猫目と外はね茶髪のショートヘア。
快活な性格で、はっきりと意見を言う瑞葉は、未來の憧れでもあった。
「ミライも苦手でしょ? 岡田」
「あはは……」
未來は曖昧に笑った。
「顔怖いもんね」と呟く瑞葉に苦笑する。
岡田渋也は数学教師で、二年A組の副担任だ。
長身痩躯。波打つような黒髪で、四角い黒淵眼鏡をかけている。
いつも眉間にしわが寄っていて、時々ニヤリと笑うのだが、今朝、担任の代わりにホームルームにやって来たときは、教室にいる間中、ずっと渋い顔をしていた。
いかにも嫌々な様子を、瑞葉は「一応副担任なんだっけ」といじっていたけれど。
とはいえ未來は、岡田の顔つきや言動が怖いわけではない。
未來は、岡田に敵意を持たれているように感じているのだ。
なぜ、と考えても答えは出ない。
そのときだ。
「人の悪口を言う暇があったら、宿題の一つでもやるんだな」
突然聞こえた声に、未來と瑞葉は勢いよく顔を上げた。
見れば、教室の入り口に岡田が立っている。
「岡田先生!? 何で戻ってきたの!? 授業終わったのに」
「悪かったなぁ、戻ってきて。 忘れ物したんだよ」
立ち上がった瑞葉を横目に、岡田は教壇からノートを取り出し、ふと未來を見た。
「お前も、そんなわかりやすい顔してると、悪いのに騙されるぞ」
驚きに未來の肩が跳ねる。
そんなに顔に出ていたのだろうか。
未來は両頬を手のひらで包み込んだ。
一方瑞葉は、腕を組み、口を尖らせる。
「何それー! あたしが悪い奴みたいじゃん!」
「陰で教師の悪口言う奴が良い奴か?」
「先生の意地が悪いからだもんねーだ」
「あーはいはい」
岡田は呆れ顔で、ひらひら手を振って去っていった。
二人とも本気で嫌いあっているわけではないからこそ、穏やかな時間を感じられるやり取りだ。
そこに、聞き慣れた声が。
「コウキー。お昼ー」
後ろの扉から聞こえた声に視線を向けると、さらさらストレートの頭がひょこりと飛び出した。
煌綺の友達の野川草太だ。
彼は一年のときに煌綺と仲良くなったらしく、C組からA組まで毎日、お昼の誘いにやって来る。
人付きのする笑顔は、煌綺とは正反対だ。
草太は、けだるげに入口にやって来た煌綺を、十センチ下から見上げて言った。
「何食べる? たまには食堂行く?」
「だるい。購買でいい」
「じゃあ僕もいつものパンにしよ」
草太と並んで教室を出て行く煌綺の様子は、未來が夢の話をする前と変わらない。
――やっぱり、信じてるわけない、のかな。
昨日。
自分を生かして助けるなどと難しいことを、煌綺は言った。
運動も勉強もできる煌綺が避けられないトラックを、未來がどうにかできるわけなどないのに。
どうしたらいいんだろう、と思う。
その思考を止めたのは、瑞葉の声だった。
「ミライー? 購買行かないのー?」
いつの間にか廊下に出ていた瑞葉が、不思議そうな顔で教室を覗き込んでいる。
「行く行く!」
未來は慌てて立ち上がった。
「今日はしらたきたらこパン食べるんだ」
「あれ食べるの!? しらたきだよ!?」
などと話しつつ、瑞葉の隣を歩く。
たとえこのまま煌綺と話せないとしても、こうして過ごす日常が、ずっとずっと続けばいい。
あんな未来、こなければいいと、この安らかな昼の時間に、未來は心の底から思ったのだった。
※
ただ、日常にも変化が起こる。
放課後、帰る準備をしている未來に、瑞葉が聞いた。
「ミライは今日も用事があるの?」
「あ、うん……」
未來は困惑した。
昨日までは、煌綺を事故から守るため、彼の後をつけるのが日課だった。
だが今日は、それができない。煌綺にバレているからだ。
あれだけ怒られた以上、強行突破するわけにもいかない。
リュックに詰めた教科書を見ながら、未來はどうしたものかと考えた。
――そのとき。
「おいコラ帰んぞ」
「へ?」
未來は振り返った。
が、一拍あいた反応の遅さに焦れたのか。
「あぁ?」
リュックを背負った煌綺は、顔を斜めに傾け、睨むような視線で未來を見た。
「あ、か、帰る! 帰ります!」
未來は急いで残りの荷物をリュックに詰め込んだ。
それを背負って教室を出ようとすると、ニコニコ笑顔の瑞葉と目があう。
「何ー? デート?」
「違う違う。ちょっと用事があるの!」
「へえ〜頑張ってね〜!」
「何を!?」
瑞葉はニヤニヤと笑った。
一緒に帰るというだけで、一体何を頑張るのか。
未來には、全く意味がわからない。
煌綺は二人の会話を無視して、さっさと廊下を歩いていく。
未來は瑞葉にバイバイと手を振って、慌てて煌綺を追いかけた。
※
学校を出てすぐは生徒も多いが、公園と神社の間の坂を登る頃には、まばらになっている。
片側一車線の道の、神社側にだけある舗道を、煌綺は歩く。
春の温かな陽気が心地いい。
坂の下の方は、公園の石垣や植物、神社から伸びる木の枝葉で、少しだけ木陰になっていた。
「あの、何で一緒に帰るの?」
未來は煌綺の隣に並べるよう、早歩きしながら尋ねた。
煌綺は前を向いたまま「作戦会議に決まってんだろ」と言う。
「作戦会議……?」
怪訝な声で、未來の心情がわかったのだろう。
「そうしねえとまた突っ込んでくるだろ。一緒に考えてやるから、もっと予知夢についてわかってること詳細に教えろ」
続けた煌綺に、未來は驚いた。
煌綺は、相談しろと言っているのだ。
「うん!」
未來は、予知夢についてわかっていることを、思いつくままに説明した。
過去に見た夢の内容も、夢の中では自分という存在がなく、映像が流れるかのように見えることも、夢はすべて不幸な結末を迎えていることも、全部伝えた。
それを、煌綺は無表情で聞いていた。
本当は、思い出したくもないし、言いたくもなかったが――。
「あとね、昨日も、同じ夢見たの」
最後に、未來はうつむき、大事なことを付け加えた。
煌綺は黙って前を見て、話の続きを待っている。
「でも、最後、君が笑ってた」
伝えなければと思うのに、言葉にしたら、恐怖が溢れた。
「二回も同じ夢見たの初めてなの。同じ夢なのに、内容は少し変わってるの」
初めてのことばかりで、それがいいことか悪いことなのかもわからなくて、未來は次第に早口になっていった。
不安を抱えた未來に、煌綺が告げる。
「そりゃ、お前の予知がガチってことなんじゃねーの」
「……何で?」
煌綺の言うことは、意味がわからない。
しかも未來が尋ねても、煌綺は「さーな」と言うばかりだ。
未來は、また無言になってしまった煌綺の半歩後ろを、黙って歩いた。
最近の煌綺はずっとわからない。
もしかしたら元々わかっていたわけじゃないのかもしれないと。
わかったつもりでいただけなのかもしれないと。
未來は悲しくなった。
だって未來は思いもしなかったのだ。
あんな……あんな、本気で怒った顔を、煌綺がするなんて。
煌綺とは小さい頃からふざけてばかりで、冗談ばかり言っていて、本音なんて、知らなくてもよかったから。
「君が、遠い」
少しだけうつむいて、未來は胸の内で呟いた。
※
公園と神社の間の、坂道を抜けた先。
街路樹が並ぶ十字路に、未來と煌綺はやって来た。
「制服で一人でこの十字路、な」
「うん」
車が通る道を見ながら確認した煌綺に、未來はうなずいた。
夢ではここでコウくんが、と思うと怖い。
だが煌綺は平然とした顔のまま「だとしたら塾だな」と言う。
「塾……?」
「多分な。他に一人で行く用事ねえよ」
「塾……」
たったひとつの単語に、頭を殴られたようだった。
未來は煌綺が塾に行っていることを、知らなかったのだ。
交差点を無事に通過するところを見届けたら、いつも家に帰っていたから。
「何だよ」
呟いたきりの未來に、煌綺が言った。
「ううん。君は頭良いのになって、思って」
ショックを受けたことを言いたくなくて、嘘をつく。
「野川には勝ってねえだろ」
「そうかもだけど……。すごいね……」
なんでもないことのように言う煌綺に、未來は、そうとしか返せなかった。
未來は自分の将来について、あまり考えてはいない。
目の前のテストを無事に終えられればいいと、それだけだ。
だが煌綺は高みを目指している。
それは未來にとって、煌綺の知らない姿だった。
いつの間にこんなに遠くに行ってしまったのだろう。
ううん、もともと、遠くにいたのかもしれない。
せっかくこうして普通に話しているのに、わからない、なにも。
沈黙が落ちる。
「つーかな、一回通ったくらいで満足してんじゃねえよ」
唐突に、投げるように聞こえた言葉に、未來は顔を上げた。
きょとんと煌綺を見た未來に、煌綺はぶっきらぼうに言う。
「万一もう一度あそこを渡るようなことがあったらどうすんだ」
「あ」
未來の喉から予期せぬ声が出た。
その事実を、全く想定してなかったのである。
呆れた声で「アホか」とこぼす煌綺の正論が突き刺さる。
自分のあまりの間抜けさを実感し、未來は落ち込んだ、が。
「で?」
「え?」
「お前はどうしたいんだよ」
「……私?」
まさかここで聞かれると思わず、未來は困惑した。
黙った未來に、煌綺は、この交差点を通らないこともできるが、状況によっては通らざるを得ない可能性があることを説明した。
「そもそも、夢変わったんだろ。つーことは、何かの拍子に別の状況に変わるかもしれねえ。そしたら予測も何もできねえ」
そう続いた言葉に、未來は愕然とした。
胸が苦しい。
だって、それではまるで、どう足掻いても無理だと言われているようではないか。
それでも、煌綺は問いかけてくる。
「それで、お前はどうしたいんだよ」
そんなの、そんなの一つしかない。
「私……、私は……」
君を助けたいのだと言おうとして、未來は言いよどんだ。
できるかわからない、と思ったのだ。
だって、私はただ、君が――と。
うまく言葉にならない想いが、未來の頭の中をぐるぐる巡る。
未來の混乱に、煌綺は気づいたのだろう。
彼は言葉を変え、再び未來に尋ねた。
「お前は、何がしたくて昨日みたいな行動をしたんだ」
未來はやっとの思いで口にする。
「……君に、死んでほしくなくて」
「それで?」
「私に、できること、あるのかな」
煌綺はそっぽを向いて、「んなこと知るわけねえだろ」と言った。
冷たく、見放すようにも聞こえる言葉だ。
だが、未來にはわかる。
それは間違いだと。
煌綺は予知夢の話を信じてくれた。
今度歩み寄るべきは、未來なのだ。
だから未來は、勇気を出して、口を開いた。
「っ……一緒に、帰ってもいい?」
「いつだよ」
煌綺はそっぽを向いたまま言った。
視線は合わない。でも、すぐに戻った声に鼓動が跳ねる。
――伝えたい。この気持ちを、コウくんに。
言っていいんだという安心感が、未來の声を大きくする。
「――できるだけ。 できるだけ、一緒に!!」
未來は、煌綺の顔をまっすぐ見上げ、目を見つめて、はっきり告げた。
こんなに強く何かを望んだことも、伝えることも初めてで、必死だった。
「理由は」
「君に生きててほしいから」
断言して初めて、本気で思う。
煌綺を心の底から守りたい、と。
守れないかもしれないのではない。
なにがあっても守るのだ。自分が、煌綺を。
数秒間、未來を見たまま、煌綺は沈黙した。
それから、視線を外して、
「……もう二度とアホなことしねえって約束すんならいい」
「うん!! 約束する!!」
未來は破顔した。
煌綺が、受け入れてくれた。
それだけで、充分だった。
大輪の花が咲いたような笑顔を、煌綺は黙って見つめている。
その口元にはかすかな笑みが浮かんでいたが、自身の喜びに夢中な未來は気づかない。
「帰るぞ」
「あ、待ってよー!」
死なせないように。
死なないように。
この日常を、守るために。
いつものようにポケットに手を入れて歩く煌綺の隣に、未來は並んでいる。
「あの、本当に未来が変わるんだと思う?」
未來は煌綺を見上げて聞いた。
煌綺は前を見たまま、平然と。
「変わったんだろ。夢」
「でも、君は死んじゃって」
ちょっとは変わったけれど、結末は変わってないのだと、未來は不安な声を出した。
それでも煌綺は、前を見ている。
「だから合ってんだよ。それで」
「何で……?」
「何でも」と答える煌綺の横顔は、相変わらずの無表情だ。
そのくせきっぱり断言するから、意味がわからない。
合ってるのに、未来は変わるの? と、未來の頭は混乱中だ。
だが、煌綺がそうもはっきり言うのなら、未來は信じたいと思う。
未来は変わるということを。
――ううん、信じたいんじゃない。
煌綺の顔を見つめて、未來は確信した。
未来はぜったいに変わる。
――だって、他でもない君が笑ったんだから。