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〈凛空〉エピローグ

 必死に生きていたのに、いつの間にか社会人になっていた。

 いくつもの挫折を経験した。私立の中学校には、僕よりも優れたやつがごまんといた。高校はもっとだ。僕が一歩進む間に、あいつらは三歩も進んでいる。手ですくったら砂のようにこぼれる努力を、僕は努力だと思っていた。だから適うわけがなかったんだ。

 第一志望の国立大学があった。でも届かないと分かって、もっと下の大学を受験した。結局、その大学にも落ちた。僕が進学したのは、東京にある私立の中堅大学だった。

 あんなに頑張って、中堅大学。悔しかった。人生終わったって思った。

 だけど僕は決意した。受験で失敗したからには、大学生活で巻き返してやろうって。

 ひたむきに努力した。それなのに、あまりにも時の流れが早すぎた。僕の一歩は、みんなの三歩。必死に生きていたのに、いつの間にか社会人になっていた。

 この日も、僕は電車に乗って、午後五時の夕景を眺めていた。仕事が早く終わったんだ。それだけで嬉しかった。僕は、もう何もしたくなかった。

 電車はいつも以上に混み合っていて、僕は端の席に座っていた。なんだか肩身が狭い。僕なんかが座っていいんだろうか、と卑屈になってしまう。

 電車が停まる。最寄り駅まで、まだ五駅もある。プシュウと音を立てて、また電車が走り出した。これを五回も繰り返すのか。退屈だなあ。うんざりしつつ、僕は座席にもたれかかった。

 秘密基地。あの頃は、退屈なんてしなかった。大人になりたくないと、子供ながらに大人ぶっていた。懐かしいな。もう何年前になるんだろうか。純太とも連絡を取り合っていない。あいつのことだから、きっと元気にやっているんだろうけど。

 足が圧迫される。誰かが僕の足を踏んだらしい。

「ごめんなさい」子供の声だ。

 顔を上げると、小さな男の子が立っていた。まだ小五くらいだろうか。横には、もっと小さな女の子。不安そうな顔をしている。きっと妹だろう。

 僕は電車の中を見渡す。席はもう空いていない。となると、つり革に掴まるのがいいだろうけど、あの女の子の身長だと手が届かない気がする。

 居た堪れなくなって、僕は立ち上がった。「座ってください」

 女の子は顔を明るくして「ありがとう」と口に出した。礼儀正しい子だ。

「あの」男の子が話しかけてくる。「本当にいいの?」

「うん、いいよ」僕は笑顔を浮かべる。

「でも……」

 子供が遠慮するものじゃない。咄嗟に嘘をつくことにした。「次の駅で降りるから」

 僕の言葉を聞いてか、男の子は何度も頭を下げた。女の子にも、もう一度お礼を言うように要求している。そこまでしなくていいのに、とこちらまで申し訳なくなる。

 すると、女の子が、ポケットをガサゴソと漁り出した。

「はい、お礼」手渡されたのは、紙飛行機。

 出されたものを受け取らないわけにはいかない。僕は素直に受け取った。

 しばらくして、再び電車が停まる。男の子に「次の駅で降りるから」と嘘をついた手前、ここで降りないわけにはいかない。二人の「ばいばい」に見送られながら、僕は電車を降りた。

 時刻表を確認する。次の電車が来るまで、まだ時間があった。

 ちょっと寄り道でもしていこうか。

 改札を出ると、目の前に土手が広がっていた。夕焼け色が川に反射して、街を茜色に染め上げる。夕方なんて、久しぶりだ。いつもなら夕方に帰れやしないから。

 土手の階段を上ると、河川敷が目に入る。川を挟んだ場所では、子供たちが走り回っていた。この光景、前にもどこかで見た気がする。

 少し考えて、思い出した。アムネルだ。アムネルの公園でも、子供たちが走り回っていた。

 結局、あの不思議な国は本当にあったんだろうか。今考えると、あれは夢だったんじゃないか。だって、あまりにも奇天烈だったんだから。犬が擬人化したり、思いやりの力で空を飛んだり、もうめちゃくちゃだった。

 でも、夢だなんて思いたくはない。

 アムネルには、パンナコッタがいたんだから。

 僕は思い返していた。闘技場の通路で、パンナコッタと交わした最後の言葉を。

「子供に戻りたくなったら、どうすればいい?」

「思いっきり走るといい」

 思いっきり走る、か。

 女の子から受け取った紙飛行機が、夕焼け色に輝いている。

 投げてみよう。久しぶりに。

 手に持っていた紙飛行機を、対岸めがけて投げた。僕は夢中で追いかけた。坂を下る。足がもつれる。転びそうになって、でも立て直した。力の限り走り続けた。

 紙飛行機は、高度を下げずに、川の上に突入した。一切減速してくれなかった。

 もう追えない。昔のままじゃいられない。肩で息をしながら、紙飛行機の行方を見守る。

 川のせせらぎが聞こえる。子供たちが紙飛行機を指さす。

 その紙飛行機は、両翼をピンと伸ばして、川を越えた。風が吹き、高度を上げた。夕日の方向に、ただ真っ直ぐと向かった。随分と遠くまで行ってしまった。

 子供たちは、声を弾ませながら、紙飛行機を追いかけていく。

 たとえ、届かないと分かっていたとしても。

 自分の手を見つめた。随分と大きな手だ。

 もう受け取る側じゃないな。苦笑いを浮かべる。

 顔を上げて、遥か彼方に飛んでいった紙飛行機を見つめた。丁度、日が沈みかけていた。

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