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〈純太〉第16話

 特等席で身を潜める。耳をつんざくほどの熱狂と歓声。俺は耳ではなく、鼻を手で隠していた。サピエンスだと気付かれないためにだ。

 フィールドに目を遣りながら、俺はこれまでの状況を整理した。

 凛空と別れて闘技場に入った俺は、まず観客席に向かおうとした。だけど大事なことを忘れていたんだ。それは、昨日闘技場の職員と乱闘騒ぎになったことだ。

 そのことを思い出した瞬間、一匹の職員が近寄ってきた。「珍しい、サピエンスのお客様ですね。特等席はいかがですか?」

 凛空の助言によると、特等席は危ないらしい。断るために首を横に振る。

「まあ、まあ。そう仰らずに」

 やけに押しが強い。ちらりと職員の顔を見てみると、昨日戦ったその職員だったんだ。同時に、腰に妙な感覚を覚える。尖ったもので押されている感覚。すぐに気が付いた。俺はナイフを突きつけられていたんだ。

「進め」ナイフで押される。脅迫されているようだ。

 ここは素直に従うことにした。変に抵抗すれば、観客のルプスが加勢してくるかもしれない。仮に立ち向かうとしても、誰もいない場所に向かってからだ。まずは我慢。反撃の機会を窺うんだ。

 二階への階段を無視して、その横にある鉄の扉に歩み寄る。指示された通りに扉を開けると、薄気味悪い雰囲気の漂う空間が現れた。昨日、凛空と魔導士がいた場所だ。

「進め」職員が呟いた。

 俺は通路に足を踏み入れる。続いて入ってきた職員は、扉を閉めるために、俺に背中を向けた。

 今だ。俺は走り出す。そして振り向く。職員が慌てて追ってくる。だけど油断したのか、俺たちの間には充分な距離があった。ここなら誰もいない。抵抗できる。

 俺は足を止めて、腰のスパーダを引き抜いた。体ごと振り返り、職員に向けて構えた。

「来いよっ」俺が怒鳴る。「先にナイフを抜いたのはお前だ」

「昨日といい今日といい、闘技場に何の恨みがあるのやら。知ったこっちゃないが、おれにはサピエンスを淘汰する権利がある」

「理屈はどうでもいいんだよ。刺せるものなら、刺してみろ」

 ところが、職員は微動だにしない。俺と目を合わせたままだ。

「本当にいいのか。おれと戦って」

 職員が意味ありげに喋る。肩を揺らして笑っている。通路が薄暗いこともあって、かなり不気味だ。スパーダを持つ手がわずかに緩む。

「通路から帰ってこないおれを捜しに、沢山の追っ手が来るかもしれないぜ」

「何が言いたい」俺はスパーダを下に向ける。

「どう足掻いても助からないんだよ、お前は」

 緩んだ手を、もう一度握る。脅しじゃない。現に、こいつは魔導士の命を奪ったんだ。油断するな。一瞬の隙さえ見つかれば、自ずと活路を見出せる。

「ここで死ぬか、特等席で死ぬか。選ぶ権利はあるぜ」

「くだらんな」俺は唾を吐いた。「三つ目の選択肢。天寿を全うする」

 危険なことは承知の上。スパーダを構えて、ゆっくりと前進する。職員がナイフを向けてきた。鋭利な刃物。心臓が縮むような思いだ。冷静になれ、俺。あんな短いナイフで何ができるというんだ。スパーダの方が長い。俺が勝つに決まっている。

「まあ、まあ。一旦落ち着けよ」職員がからかうように笑う。「おれたちが戦っても、どうにもならないじゃないか。それより、目的があるんだろ。言ってみろよ」

 俺は足を止めた。目的を喋るためじゃない。職員の態度に心底腹を立てていたからだ。俺には分かっていた。この職員は、ナイフを向ければ誰でも怯えると思っているんだ。そのくせして、いざ立ち向かうとなれば、途端に腰を抜かす。反吐が出る。凶器を握った以上、逃げることは許されない。

 こんなやつが、魔導士の命を奪ったというのか。凛空の大切な存在を消したというのか。スパーダを握る手が、次第に力を強めていく。

 怒りに任せて、勢いよくスパーダを振り下ろした。

 当たった、職員の腰に。

 職員はナイフをその場に落として、喚き叫ぶように痛みを訴えた。

 俺は我に返って、職員に「ごめん」と頭を下げた。いくら自分の敵とはいえ、感情任せに暴力を振るうのはいけない。剣道の先生にもそう教わった。

「なんだよ。ひ、皮肉かよ」職員の声が裏返る。

 職員を無視して、俺は落ちていたナイフに目を向けた。こんなものがあるからいけないんだ。俺はナイフに向けて、何度も何度もスパーダを打ちつけた。地面が振動して、そのたびに、ナイフは形状を変えて醜くなった。しまいには、誰も傷付けられないような形になってしまった。

 ナイフを遠くの方に蹴飛ばしてから、俺は扉とは反対の方向に駆け出した。やっと気付いたんだ。観客席は二階だけど、特等席は通路の奥だから一階にあるはずだ。もしも観客席にいたら、決闘を止めようにも大声を張り上げるしかない。力づくで止めるには、特等席で待機するべきだった。

 いくら特等席が危険だろうと、特等席に行かなきゃいけなかったんだ。

 でも大丈夫。今までが順調だっただけだ。俺がちゃんとしていれば、きっと上手くいく。

 そうして辿り着いた特等席。俺は身を潜めながら、フィールドの様子を窺っているわけだ。チロルとマロンは、まだ姿を現さない。それなのに、観客席は大盛り上がり。ムギの演説と匹敵するほどの熱を感じる。

 特等席に着いてから、結構時間が経っている。もしかしたら、自警団が間に合うかもしれない。作戦を練る時間もあるだろうけど、あんな大勢のファミリアがいるなら、数で押し切ることも充分に可能だろう。

 とはいえ、個々が好き勝手に暴れていたら、チロルやマロン、観戦に来ただけのファミリアまで巻き込まれてしまうかもしれない。そのためにも統率は必要だ。

 チロルか、マロンか、それとも自警団か。誰が一番最初に姿を見せるだろうか。

 俺はスパーダを握りしめて、じっと待つ。

 ふと歓声が止む。何か動きがあったんだろうか。フィールドに目を向けると、一匹のファミリアが現れた。赤色のローブを着ている。遠くからでも分かる。あれはチロルだ。しきりに辺りを見渡している。俺やムギを捜しているんだろうか。

 続いて、反対側からもファミリアが現れる。青色のローブだ。こっちはマロンだろう。ただ真っ直ぐ、チロルだけを視界に捉えている。

 どちらもスパーダを携えている。痛みを増幅させる武器。決闘にはもってこいなんだろう。ルプスは嫌な趣味をしているものだ。

「赤色、怯えてんなよっ」観客の一匹が叫んだ。

 笑い声が四方八方から聞こえる。チロルは気まずそうに前屈みになった。それを見てか、観客はチロルを指をさして、ケラケラと笑い転げた。

「チロル。あなたも不憫なものですね」

 マロンですら、同情的な眼差しを向けている。俺から見ても、どちらが勝利するかなんて明白だった。

 一方は、俺の飼っている犬。もう一方は、俺と稽古をしたファミリア。

 どちらとも密接な関係にある俺は、一体どちらの肩を持てばいいか分からなかった。仮に「決闘なんかやめろ」とフィールドに飛び出したとして、俺はどちらを庇う仕草をすればいいんだろうか。

 もしかして、俺が引き受けた仕事というのは、とてつもなく大変なものなんじゃないか。そう思い始めてきたところだった。

「不憫、ですよ」チロルが呟く。「もう、誰を恨めばいいか、分かりやしません」

 一緒に稽古をした俺が思うのもよくないけど、仮に二匹の決闘が始まったとしても、チロルが勝てるとは到底考えられなかった。ただでさえマロンは連戦連勝中。相手が悪いといえばそれまでだけど、それ以前に、チロルは武術に向いていなかった。

 スパーダの振り方も、速度も、威力も、ほとんど成長していなかった。

「ですけど」

 だから俺は、チロルに構え方を教えた。我慢と、冷静でいることの大切さを説いた。確かに勝てはしない。だけど、負けることもない。

 常に冷静でいること。それが、チロルの唯一にして最大の武器。

「このままじゃ、ぼくの師匠に、顔向けできないもので」

 チロルは、ゆっくりと姿勢を正して、静かにスパーダを構えた。誰も笑わなかった。

「師匠、ですか」マロンがスパーダを握り直す。「私には弟子がいましてね。それも、サピエンスの弟子なのですが」

 チロルはきゅっと口を結んでいる。

「その弟子は構え方がどうにも下手なものでして。少しでも構えが崩れたら、私が吠えたものですよ」

 マロンは、ふっと笑みをこぼした。

「あなたの構え方に、そっくり」

 チロルが、ゆっくりとスパーダを下ろした。彼も察したんだろう。その弟子が俺だということを。マロンに弟子呼ばわりされるのは気に食わないけど、ここはぐっと堪えよう。

「あのっ」チロルが口を開いた。「その弟子さんは、今どこに?」

「今は分かりません。なんせ、昨日久しぶりに会ったものですから。それなのに『二日しかアムネルにいなかった』なんて言うので、つい機嫌を損ねてしまって。今は行方知らずです」

 チロルが目を見張った。「もしかして、純太さんのことですか?」

「よくご存じですね。そう、純太。純太のことです」

「純太さんは、ぼくの師匠ですよ」

 マロンは唖然としたのか、口を開けたまま何も言わなくなってしまった。

 当の俺はというと、かなり焦っていた。お互いに、お互いの関係性が露呈してしまったんだ。浮気がバレたとか、横領が見つかったとか、そういう罪よりは全然軽いけど、でも極力知られたくなかった。あとで俺や自警団が止めるとはいえ、二匹はこれから決闘をする相手。しかも魔導士が決まるかもしれない重要な一戦だ。

 俺は考えた。もしも二匹が「決闘を中止したい」と言い出したら、ルプスたちが黙っちゃいないはずだ。なぜなら決闘の放棄は、闘技場の権威を損ねることだから。闘技場の権威が損なわれれば、ルプスの地位も低くなる。

 この決闘は、アムネルにとっても、ルプスにとっても、大事な決闘なんだ。

 決闘を強行するためなら、ルプスが武力行使に出るかもしれない。そうなった場合、自警団が来るまで、俺とチロルとマロンだけで戦わなければならないだろう。

 決闘は中止したい。だけど、今じゃない。

 もうちょっと揉めてくれないだろうか、と矛盾した要求を突きつけたい。今すぐ乱入したいという欲求に駆られる。

 まだ耐えろ。まだ分からない。これから雰囲気が悪くなるかもしれない。

「純太は、闘技場に来てくれると思っていたのです」

 マロンが語り出した。スパーダを片手に、チロルを見据えている。

「私がアムネルに来たとき、純太はいませんでした。いくら待っても来ません。もしかしたら、既に丘を下っているのかもしれない。そう考えた私は、アムネルの市街地を目指して歩き続けました」

 一向に始まらない決闘。観客たちの苛立ちが目に見える。

「そこで闘技場を見つけた私は、こう思いました。純太も私も、剣の腕には自信がある。それなら、純太も闘技場を訪れるはずだ。純太は好奇心旺盛だから、と」

「まさかっ」チロルが声を大きくする。「この一週間戦い続けたのは、純太さんにアピールするためだけだったのですか」

「そうですよ。一匹では不安ですもの。だから、勝者が敗者のマテリカを受け取るのにも全然興味が湧きませんでした。純太が来てくれれば、それだけでよかったのですから」

 飼い犬に自分のことを語られると、どうにも恥ずかしい。マロンに見られていないのは分かっているけど、無性に顔をそむけたくなった。

「純太が来たのは、一週間後。さすがに遅いと思った私は、純太を問い詰めました。されど、返ってきたのは『二日しかいなかった』という言葉。後悔していますよ。アムネルの存在すら不可思議なのに、純太の言葉を言い訳と判断してしまったことを」

 観客の一匹が「早く戦え」と声を荒げる。それを皮切りに、観客たちは、次々と二匹に罵詈雑言を浴びせた。チロルもマロンも俺の大事な存在だ。

 怒りに震える。でも我慢だ。

 二匹を救うために、俺が我慢しなくちゃならないんだ。

「提案があるのです」マロンが胸に手を当てる。

「提案。それは、一体……」

 まずい。俺が思うに、その提案は事態を悪化させる可能性がある。

「決闘を中止しましょう」

 ああ、言いやがった。最悪だ。俺は頭を抱えた。

 今頃ルプスは怒り心頭だろう。力づくで決闘をさせるかもしれない。あるいは、二匹もろともルプスにされるかもしれない。

 だけど、闘技場の様子は変わらない。観客たちは暴言を吐き続けているし、二匹は向かい合ったまま突っ立っている。そうか、観客たちの声が大きくて、マロンの提案は聞こえなかったんだ。

 まだ大丈夫だ。俺はそっと胸をなでおろす。

「賛成です。できることなら、ぼくも戦いたくない」

 今度こそ空気が凍った。観客も静まり返ったタイミングだった。

 チロル、取り返しがつかないんだぞ。飛び出したくなる気持ちをぐっと堪えて、闘技場の様子を窺う。

 観客たちは、当然面食らったような表情をしていた。中には「ルプスにしちまえ」と叫び出す者も現れる始末だ。どうしようか。スパーダ一本で、二匹を守れる自信はない。

 やがて、フィールドに三匹の職員が乗り込んでくる。手にはスパーダ。決闘を再開させるまで、マロンたちを痛みつける気だ。

 仕方がない。こんな形になるとは思わなかったけど、俺も加勢しよう。

 俺は特等席を飛び出して、フィールドに乱入した。途端に、また観客たちが騒ぎ出す。「サピエンスだ」「生かして帰すな」と物騒なことばかり喋っている。

 俺はチロルたちの元に駆け寄った。「命知らずだよ、お前たち」

「純太さん、どうしてここにっ」チロルが、たいそう驚いたような表情を浮かべる。

「あとで話す。それよりも、背中合わせになって三角形を作るんだ」

 フィールドの中央に立った俺たちは、背中合わせになって、外側を向きながらスパーダを構えた。これなら隙を突かれる心配はない。職員たちも積極的には動けないようだ。俺たちに冷たい視線を浴びせながら、ゆっくりと近付いてくる。

「まさか、弟子に背中を預ける日が来るとは」

「飼い主の間違いだろ」俺はスパーダを握り直した。手汗で滑ってしまうんだ。

 そのとき、一匹のルプスが突撃してきた。チロルに向かってだ。俺が「チロル!」と叫ぶと、あいつは悲鳴のような声を上げながら、スパーダをぶんぶん振り回した。まるで駄々っ子だ。稽古の成果が充分に出せていない。

 続いて、二匹目が雄叫びを上げた。そしてマロンに飛びかかる。二匹目がスパーダを振りかぶり、勢いよく振り下ろした。物と物がぶつかる音。マロンは見事に防御してみせた。そのまま鍔迫り合い。力は互角だ。

「純太っ」マロンが叫ぶ。「援護しなさい!」

 俺は背中合わせから外れて、マロンと鎬を削るルプスの背後に回る。顔だけを向けるルプス。遠慮はできない。太ももを狙って、スパーダを振るった。

 そいつは唸り、膝から崩れ落ちた。仕留めてみせた。まずは一匹。

 マロンの元に戻ろうとすると、丁度、チロルが襲われているところだった。チロルはスパーダを振るだけで、ルプスこそ近付けないものの、何の解決にもなっていない。

 俺はそのルプスに近付いて、スパーダを思い切り横に振った。足元を狙うつもりだった。だけど、ぴょんと跳ばれて空振り。ルプスの標的が俺に移る。

「マロン、奥の一匹を引き受けてくれ」

「分かってますってば」マロンが駆け出した。

 目の前のルプスが、俺にスパーダを向けて、そのまま突進を始めた。突きのつもりだ。間一髪で左に避けた。俺は勢いのまま、スパーダを横に向けて回転する。剣の先端が、ルプスの脇腹に当たった。痛がる素振りは見せるけど、決定打じゃないらしい。

 もうひと踏ん張りだ。俺はスパーダを構え直す。指を動かして、握り直す。

 すると、チロルが雄叫びを上げながら、そのルプスに向かって突っ込んだ。倒れ込む両者。チロルが覆い被さる形だ。俺はチロルを手で押しのけてから、ルプスの腹めがけて斬撃を繰り出した。ルプスは腹を抑えて、悶え苦しむように暴れ出した。

 チロルに「助かった」と声をかけて、手を差し伸べる。彼の体を持ち上げながら、俺はマロンの方に目を向けた。

 熾烈と呼ぶには静かな争いだった。というのも、マロンはその場に立ち止まり、ルプスの斬撃をいなすだけだったからだ。さすがマロンだ。十六歳とはいえ、動きは衰えていない。

「助けに入るべきでしょうか」チロルが怪訝そうな表情をする。

「いや、かえって邪魔になるだけだ。マロンのやつ、隙を窺っているんだよ」

 ルプスの足がもつれた。ほんの少しの間だった。

 次の瞬間、マロンは機敏な動作でルプスの背後に回り、同時にルプスの手首を叩いてみせた。ルプスがスパーダを手放す。手首を掴み、大声で痛みを訴えた。

 観客たちがまくし立てる。歓声だったり、罵声だったり、とにかく感情をぶつけてくる。観客席を眺めていると、さっきよりも空席が目立っているように思えた。決闘の中止を聞いて帰ったんだろうか。それとも。

「決闘せざる者は、もはや決闘者にあらず……」

 俺たちを囲う、更なるルプス。

「ファミリアに死を! サピエンスに死を!」

 フィールドは、十匹、ニ十匹、いやそれ以上のルプスによって囲まれている。俺たちは中央に固まり、もう一度背中合わせになった。

「数の利ですね。こればかりは、どうしようもありません」

 臆病なチロルはもちろん、マロンも自信を失っている。まだ自警団は来ない。最大のピンチだ。俺ができることは、ルプスを無力化することか、逃げ道を探すことか。

 全部ダメだ。俺には何ができるんだ。どうすれば、事態が好転するんだ。

 そのとき、俺はこう思った。まずはマロンを励ます必要がある。マロンが立ち上がってくれるだけで、自警団が来るまでの時間稼ぎができるかもしれない。

「マロン」名前を呼ぶ。「こんなときに、話すことじゃないかもしれないけどさ」

「なんですか。一週間も迎えに来なかったことの謝罪ですか」

「まあ、それもある。ごめんなさい。だけど、その一週間の弁明がしたい」

 どうしても、この誤解を解いてもらいたかった。

 それは俺自身のためかもしれないけど、きっとマロンのためにもなるはずだ。だって、飼い主が一週間も迎えに来なかったと勘違いしたままなら、今だけじゃなくて、今後も気まずくなってしまう。

 それとなく、凛空と交わした会話を思い返していた。

「なるほど。一週間か。だいぶ経ってるよな」

「そうなんだよ。これを解き明かさない限り、マロンは帰ってこない気がするんだ」

「僕は多分、その答えを知ってる。それも、純太から聞いた気がするんだ」

 勉強のできる凛空が知らなくて、からっきしダメな俺が知っていること。

 勉強のことは絶対に違う。犬のことは、凛空も飼っていたから同じくらいの知識量だろう。剣道は俺の方が知識があるけど、剣道と時間が関係するとは思えない。

 答えがないように思える。でも、ちょっとした前提条件を思い出せば、すぐに分かることだった。

 その前提条件は、凛空は昨日まで犬を飼っていたことを思い出せなかったってこと。

 となると、昨日以前なら、俺の方が犬について詳しいはずだ。ただ、剣道と同じように、犬と時間が関係するとも思えない。

 そこで、人間の時間と犬の時間を比較しようとした。

 そうして思い出したんだ。俺が凛空に「犬は人間よりも早く歳を取る」と話していたことを。俺たちの一分は、マロンの一週間。こんなことも喋った気がする。

「日本とアムネルで時間の流れが違うのは、当然なんだよ」

「と、言いますと」マロンが眉をひそめる。

「日本はサピエンスが治める国で、アムネルはファミリアが治める国。ファミリアはサピエンスよりも早く歳を取る。それなら、アムネルが日本より時間の流れが早いってのも、否定できなくはないんじゃないかな」

 マロンの顔色を窺う。まだいくぶん不満げだ。こじつけに近かっただろうか。俺なりに考えたつもりなんだけど、もうちょっと練るべきだっただろうか。

「本当に、摩訶不思議な話です。マテリカといい、アムネルといい」

 マロンがため息をついて、スパーダを構え直す。

 口角が上がっているのを、俺は見逃さない。

「とっとと日本に帰りましょう」

 よかった。なんとか信じてもらえたみたいだ。これで説得は成功。あとは闘技場から逃げるだけだ。それが最大の難所だなんて、俺は思いもしなかったけど。

 状況は変わらないどころか、悪化している。溢れんばかりのルプスがフィールドを囲い、じりじりと俺たちを追い詰めていく。チロルとマロンと背中を合わせる。体温を共有する。汗がにじんで、床に垂れる。

 今日は快晴。こぼれ落ちた汗の雫は、瞬く間に乾いてしまった。

「どうしましょうか、これ」チロルが、また前屈みになっている。

「姿勢を正しなさい。隙を窺うのです」

 隙を窺うといっても、一匹の隙程度ではこの危機を乗り越えることはできない。もっと大勢が、それも腰を抜かすレベルの隙じゃないといけない。

 かなりの苦難。打開するのがあまりにも困難な事態だ。

 だけど、俺たちにも希望はあった。ルプスたちの奥に、なにやら見覚えのあるファミリアが見えたんだ。チロルもすぐに気付いた。

 俺とチロルは顔を見合わせて、深く頷いた。

 ムギだった。

 ムギが闘技場に来た。それはつまり、自警団が到着したということ。マロンにもそのことを伝えると、「助かったのですね」と胸をなでおろしていた。

 ルプスが道を開ける。ムギが俺たちに近付いてくる。なんだか様子がおかしい。自警団の姿が見当たらないんだ。それどころか、ルプスたちも困惑する素振りを見せない。

 おかしい。俺はともかく、チロルがムギを見間違えることはない。それなら、どうしてこうも胸騒ぎがするんだろう。スパーダを握る手を、緩められない。

 ムギが最前列に到達する。その隣には、ルプス。

 ムギは、首にナイフを突きつけられていた。

 チロルが獣のように叫び、ルプスに飛びかかろうとする。俺が手首を掴んで制止した。

「なぜ止めるのですか! ムギが、ムギが危ないというのに……」

「だから冷静にならなきゃいけないんだ」そう諭すように話す俺も、内心穏やかじゃない。

 チロルが足を止めると、ルプスたちが肩を揺らして笑った。

「今すぐに決闘を再開しなければ、このファミリアをルプスに変えてやるぞ」

 チロルが目を見開く。「ムギは関係ないだろう」と怒鳴る。彼の震えが、俺にも伝わってくる。

「申し訳ありません、皆様」ムギが俯いた。「自警団を連れてくる途中、ルプスの襲撃にあったのです。それで、わたくしが連れて行かれてしまって……」

 観客席の空席が目立っていたのは、フィールドに下りるだけじゃなくて、自警団に応戦するためでもあったらしい。頼みの綱が、ブチブチと切れかけている。

「チロル様、わたくしのことは見捨ててください」

「見捨ててなるかっ」チロルが肩を震わせる。「ムギが連行されないために、ぼくがルプスからの招集に応じたのだぞ」

 ムギが顔をそむける。地面には丸いシミができている。「お願いです。わたくしは、チロル様の召使いなのですよ」

「身分なんか関係あるか。もうこれ以上、家族を失うわけにはいかない」

 緊迫した空気が流れる。俺たちは選択を迫られている。ムギを見捨てるか、決闘を再開するか。どちらを選ぼうと、部外者の俺は酷い目に遭うだろうけど、自分の身は自分で守るつもりだ。それよりも、全員が助かる方法を考えるのが先だろう。

 ムギを見捨てた場合、ムギはルプスとなる。チロルは誰もかれも失って、万が一無事に戻ってこれたとしても、今まで通りの生活は送れないだろう。そもそも、ムギがルプスになっても、決闘が再開されないという保証はない。数で圧倒されている以上、ムギもマロンもチロルも失うという最悪の事態すら考えられる。

 決闘を再開した場合、計画が破綻する。マロンは連れて帰れるだろうけど、それでみんな幸せかといわれたら、気持ちよく頷くことはできない。チロルはルプスにされるだろうし、ムギが無事に解放されるという保証もない。

 一番の問題は、決闘が一度中断されたという前例を作ってしまったことだ。アムネルの国会議員たちは、ルプスの支持を集めるために、決闘の妨害を罰則とする法律を作るかもしれない。そうなれば、ファミリアは更に立場を追いやられることになる。

 第三の選択肢を作るとなれば、大量のルプスを相手にするということ。正直、これは現実的じゃない。ムギの命がルプスに握られている以上、チロルは冷静じゃいられない。だから、まともに戦えるのは俺とマロンだけになる。

 一人と一匹で、数十匹のルプスを相手にはできないだろう。俺たちはヒーローでも勇者でもない。ましてや、魔導士でもない。

 どの選択肢も、悲惨な結末が予想される。それに、容易く選べるわけでもない。ムギを見捨てるのはチロルが許さないだろうし、決闘を再開するならムギが黙っちゃいない。どちらも承諾すると思われるのは、最も望みが薄い三番目の選択肢。

 ダメだ。一発逆転の奇策なんかありゃしなかった。もう逃げられない。もう時間がない。自警団はまだ来ない。ムギが捕らえられて、生きるか死ぬかの瀬戸際。

 マロンが、俺の手を握る。耳元でささやいてくる。

「純太、今までありがとう」

「おい、まだ諦めるなよ」

 俺は声を荒げた。それが虚勢だなんて、俺が一番分かっていた。

 俺たちの希望を閉ざすかのように、地面が暗くなる。太陽の光が遮られたらしい。大きな雲でも浮かび上がっているんだろうか。

 そう思っていると、また日差しが照りつけた。間もなくして、また日陰になる。そして再び光が訪れる。

 おかしい。異常気象だ。こんなに早く日向と日影が入れ替わるなんてありえない。ルプスたちも、不思議そうに辺りを見渡していた。

 ふと、さっき床に垂らした汗のことを思い出した。こぼれ落ちた汗の雫は、瞬く間に乾いたんだ。なぜなら、今日は快晴だから。

 考えてみろよ。快晴なのに、雲があるわけないじゃないか。

 そのとき、俺の頭に突拍子もないことが浮かんだ。アムネルの国民ならまず信じない。マロンですら信じるかどうかだ。だけど俺は確信していた。

「チロル」俺は声を弾ませる。「前に言っていたよな。『アムネルには、乗り物の類は一切存在しない』って」

「ええ、そうです。ファミリアは走るのが大好きな種族ですから」

 質問の意図が掴めないと言わんばかりに、チロルは眉をひそめた。「それが、どうかなさいましたか」

「教えてやる。乗り物ってのはな」俺は空を指さす。「あれのことを言うんだよ」

 日陰が訪れたそのとき、闘技場の上に、巨大な飛行物体が現れた。

 観客たちは慌てふためき、周りのルプスも逃げ惑っている。その隙を見計らって、チロルは素早くムギの手を掴み、ルプスから解放してみせた。

「あれは、なんなのですか」ムギは震えながら、チロルにしがみつく。

「分からない。だけど、きっとぼくたちの味方だ」

 不安げに空を見上げる二匹とは対照的に、マロンは腕を組んで微笑んでいる。

「良い友達を持ちましたね」マロンが声を弾ませた。

「最高の親友だよ」俺はマロンと肩を組み、何度も左右に揺すった。

 実は、心のどこかで確信していたのかもしれない。本当に危ないときは、あいつが来てくれるんだって。あいつが助けてくれるんだって。

 それが今、行動となって証明されたんだ。

「助けに来たぞお!」

 分かっている。そんな馬鹿みたいな声出さなくたって、充分に伝わっている。

 俺はスパーダを高く掲げて、無事だという合図を送った。飛行物体の上から、誰かが顔を出して、両手で大きな丸を作った。それが誰かなんて、言うまでもないだろう。

 まったく、本当に最高の親友だ。

 だって、見てみろよ、あの飛行物体。土と泥だらけで、両翼も所々折れている、あの物体。見るだけで笑いが止まらない。でも、あいつらしいなって思う。

 無茶しやがるよ。

 凛空のやつ、でっかい紙飛行機に乗ってきやがった。

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