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〈純太〉第14話

 魔導士が暗殺されたというニュースは、瞬く間にアムネル中のファミリアが知ることとなったみたいだ。

 俺が魔導士の死を知ったのは、自警団を連れて闘技場に戻ったときだった。急いで魔導士の元に駆けつけたけど、もう手遅れだった。凛空が、顔中をぐしゃぐしゃにしながら「パンナコッタ」とむせび泣いていたんだ。

 俺とはぐれてから丸一日、凛空は魔導士と過ごしていたんだろう。軽率な同情なんかしたくないけど、親友を守ってくれた魔導士にお礼が言いたくて、俺はそっと手を合わせた。

 脇腹の刃物さえなければ、寝ているんだと勘違いしてしまうほど、魔導士は綺麗な状態で亡くなっていた。だから俺も、あまり動揺しなかったんだろうと思う。

 俺は一旦その場を離れた。凛空を邪魔したくなかったのもあるけど、マロンを捜す必要もあったからだ。これ以上、凛空が悲しい思いをしないためにも、一刻も早くマロンを捜し出して、日本に帰らなきゃいけない。使命感に駆られる。

 通路から出て、観客席に通ずる階段を上る。一段飛ばしで駆け上がり、踊り場に足を着ける。「魔導士が死んだ」という叫び声が、至る所から聞こえてくる。数え切れないほどのルプスが、階段を下りてくる。俺には目も暮れずに、「本当か」「こっちだ」「やったぞ」と歓声を上げた。

 寒気がする。だけど引き返したら、俺は臆病者だ。チロルに大口を叩いた手前、恐怖を理由に逃げちゃいけない。

 腰に差したスパーダに手をやり、今度は一段ずつ階段を上る。

 二階に着くと、すぐに観覧席に入れる。さっきのルプスたちが出ていったからか、席はすっからかんだ。俺はそっと胸をなでおろし、今度はフィールドに目を遣った。

 すぐに見つけた。青色のローブを着たファミリア。フィールドの中央に立って、空を見上げている。遠くからじゃ確認しにくいけど、きっと髪は茶色。

 闘技場に、マロンがいる。

 俺は観客席を駆け下りながら、大声で「マロン」と叫んだ。そのファミリアが、ゆっくりと顔を向ける。間違いない。あれが剣士マロンなんだ。

「俺だ、純太だっ」あらん限りの声を出す。「日本に帰るぞ!」

 これで一件落着だ。当初の目的は果たした。あとはルプスたちを避けながら、ログハウスのある丘に向かおう。仮に戦闘になったって、マロンが上手く対処してくれる。俺だって、少しは役に立てるはずだ。

 ところが、マロンは微動だにしない。俺を睨んでいるようにも見える。マロンも歳だから、目と耳が悪くなったんだろう。もう一度叫ぼうと、今度は口に手を当ててメガホンの形を作る。

 そのときだ。マロンがゆっくりと歩み寄ってきた。一歩一歩、そこに地面があることを確かめるかのような、重い足取り。

 ただならぬ気配だ。思わず俺は身構える。

 マロンが、足を揃えて立ち止まる。息を吸うように、胸を張る。

「どうして、一週間も迎えに来なかったのですか」

 意味が分からなくて、聞き返した。同じ言葉が返ってきた。

「てっきり、あなたたち二人はついてきていると思いました。されど、アムネルに着いても、あなたたちは来ない。だから待ちました。あの暗闇の中を戻るなど、大変危険な行為だと考えましてね」

「ちょっと待ってくれよ」俺は声を荒げる。「一週間も何も、俺たちは二日しかアムネルにいないんだぜ」

「日本とアムネルで、時間の流れが違うと主張する気ですか?」

 マロンが拳を震わせている。俺が知る犬のマロンも、機嫌が悪いときに、歯を震わせるという癖があった。

「言い訳じゃないんだよ、マロン」なだめるように声を柔らかくする。「本当なんだ。本当に、二日しかいなかったんだよ」

「馬鹿馬鹿しい」

 そう吐き捨てて、マロンは踵を返した。俺がどれだけ呼びかけたって、もう振り向いちゃくれない。やがて俺の見えない場所に消えてしまった。

 一週間って、どういうことだ。アムネルに来てからのことを振り返っても、俺は二日間しかいた記憶がない。記憶を消されただなんてことは、魔法みたいな力がない限りありえない。そんなことをされた覚えもない。

 闘技場に向かう前も疑問に思っていた。どうしてマロンは一週間も闘技場で戦っているのか。でもそのときは、マロンに会うことが最優先だったから、違和感は頭の片隅に放置していたんだ。

 考えるより先に行動してしまう俺の性格が、ここにきて足を引っ張る。

 先に凛空に相談すればよかっただろうか。いや、ただでさえ魔導士を失って傷付いている凛空に、新たなる難題を投げるわけにもいかない。それに、マロンの飼い主は俺だ。マロンを怒らせてしまったなら、俺自身の力で解決すべきだ。

 俺の不手際なら、俺が責任を取る。それが大人になるってこと。

「純太さんっ」

 どこからかチロルが呼んでいる。捜してみると、観客席の奥の方に立っていた。息を切らして、スパーダを握っている。

「観客のルプスが戻ってきます。撤収しましょう」

「了解」俺は観客席を駆け上がり、チロルと共に階段を下った。

「マロンとは会えましたか?」

「ああ、えっと」わざとらしく頬を掻く。「会えなかったよ」

 本当のことを話してもよかった。会えるか会えないかなんて、チロルにとっちゃ大したことじゃない。だけど、なんとなく反対のことを言いたくなった。これは俺だけの問題なんだ、と自分を戒めるために。

 絶対に連れ戻す。

 俺たちを隔てる一週間の謎は、俺が解いてみせる。


 アムネルの象徴たる魔導士。彼女の死を知った自警団は、さすがに悠長にしていられないようだった。闘技場を出るや否や、「駐屯地で会議をします」と早足で去っていった。

 魔導士の遺体は、彼女の家に埋葬されることになった。日本と違って、アムネルでは土葬が主流らしい。チロル曰く「走り回ることが好きなファミリアが、亡くなっても地面に足をつけられるように、という願いを込めています」とか。

 道中、「魔導士様が亡くなったのですか」と息を切らすムギとも合流した。二人と二匹で、魔導士の埋葬に立ち会うことにする。丘を上り、あのログハウスを目指す。

 俺たちが到着する頃には、沢山のファミリアがログハウスの前にいた。有志が手で土を掘り、一人分のスペースを作った。そこに魔導士を横たわらせる。

「これから、一匹ずつ土を被せます」チロルは魔導士を見つめている。「サピエンスがどうかは存じませんが、これが我々の葬式です。どうぞ、お二方も」

 魔導士の前には、既に長蛇の列ができている。両手には土。みんなで埋葬するんだ。

「ありがとうございました」涙ぐむ声。

「ずっと忘れません」しわがれた声。

「ボール、ありがとう」子供の声。

 一度しか会ったことのない俺でも、魔導士への信頼と尊敬がひしひしと伝わってくる。本当に偉大なファミリアだったんだろう。その魔導士と交友関係を持っていた凛空のことが、ちょっとだけ羨ましかった。

 俺とチロルとムギも列に並び、両手いっぱいの土を持つ。てっきり凛空は後ろにいるのかと思っていたけど、振り返っても姿はなかった。どこにいるんだろう。

 そうこうしているうちに、俺たちの番になる。魔導士に何を伝えるべきか悩んだけど、闘技場の出来事を思い出したら、もう「凛空をありがとう」としか言えなかった。

 ムギは目をぎゅっと閉じて、何も告げずに、静かに土を添えた。言葉にできない気持ちがあったんだろう。

「失礼ながら申し上げます」次はチロルの番だ。「闘技場の建設を許したこと。それは魔導士様の唯一にして最大の失敗です。そして皮肉にも、魔導士様はその闘技場で命を落とされました」

 辺りを見渡していると、ようやく凛空を見つけた。ファミリアと離れた場所で、一人で突っ立っていた。

「しかしその失敗も、アムネル、そしてファミリア全体の幸福を考えてのことだったのでしょう。思えば、ぼくは魔導士様の弱みを見たことがなかった。常に明るく、親しみやすいお方だった。ぼくたちのことを一番に想ってくださった」

 凛空は土を持っていなかった。

「ありがとうございました。今は、ゆっくりとお休みください」

 チロルが土を被せた。続くファミリアはいなかった。チロルが最後だったんだ。

 ファミリアたちが、次々と丘を下っていく。アムネルの存続を気にしたり、魔導士を称える言葉を並べたり、黙りこくる者もいれば、声を上げて嗚咽する者もいた。様々な感情を抱えながらも、確かに、魔導士との別れを受け入れようとしていた。

 土の隙間から白い髪の毛が見える。土が足りなかったんだろう。髪の毛が隠れるほど土を被せたくなったけど、それは俺の仕事じゃないな、と思った。

 凛空は突っ立ったまま、魔導士の方を向いている。まだ土を被せていないんだろう。俺は凛空の元に駆け寄って、当たり障りのないことを言った。それとなく土を被せたらどうかと提案したけど、あいつは押し黙ったまま、唇を噛みしめていた。

 ムギが「そろそろ家に戻りましょう」と言うまで、凛空は動かなかった。

 魔導士の髪の毛は、まだ埋められていない。


 夕食もステーキだった。チロルを勇気づけるための晩餐だった。

 魔導士の暗殺により、治安の悪化を恐れたアムネルは、急遽次の魔導士を決めることにしたらしい。その方法というのが、あろうことか、決闘だったんだ。

 チロルの決闘相手は、マロンだった。

「皮肉なものです。治安を維持するどころか、これではルプスの思惑通りです。決闘で魔導士を決めるだなんて、他にも方法はあったでしょうに」

 牛のステーキを頬張りながら、チロルは声を低くした。

 ルプスの増加により、国会議員はルプスの声を無視できなくなったらしい。というのも、アムネルの議員は国民による投票で決まり、ルプスも投票する権利を持っているからだとか。

 ファミリアだけが魔導士を投票すればいいと、この俺でも考えた。だけど、そんなことをしたら、次の選挙でルプスの支持を集められないらしい。

「名誉や地位など、アムネルの安寧よりも重要視されるべきではない」

 チロルが机を叩き、皿が揺れる。緊張が走る。

「国がルプスの肩を持つなら、軍事警察も当てにならない。ファミリア側の組織は自警団だけ。ですが、自警団は頼りにならない。国家転覆の危機だというのに……」

 ムギがなだめると、落ち着きを取り戻したのか、チロルは「失礼」と俯いた。

 あのチロルが取り乱すのも無理はない。決闘が行われるのは、明日なんだ。いくら剣道の稽古をしたとはいえ、付け焼き刃の技術で勝てる保証はない。しかも相手は連戦連勝中のマロン。マロン派相手のマテリカを受け取らないと聞いたけど、それでも気楽に戦えるわけじゃないんだろう。

 俺はといえば、どっちを応援すればいいか分からなかった。だから決闘を止めようと考えているんだけど、良い案が浮かばない。チロルに剣道を教えてしまった以上、「戦うな」とも言い出しづらい。

 説得するならマロンだけど、それはそれで大変そうだ。あの一週間の謎を解く必要もある。

 活路が見出せないとはこのことだ。俺が凛空なら、もっと頭が回っただろうに。

 それとなく凛空の様子を窺う。葬式のときから、ずっと項垂れたままだ。ステーキを一切れも食べていない。まだ魔導士のことを引きずっているんだろう。

 食事を終えたチロルが「お先に失礼」と席を立った。凛空は軽く会釈して、また項垂れた。ムギが怪訝そうな面持ちで「お口に合いませんか?」と尋ねる。

「いえ」凛空は引きつった笑顔を浮かべた。「美味しいです」

 まだ一口も手をつけていないのに。だけど俺は指摘しなかった。あいつなりに強がっているんだから、邪魔しちゃいけない。ムギがチロルの皿を片付けるまで、俺は黙っていた。

 パタンと扉が閉まり、食堂には俺と凛空だけになる。

「純太」凛空が口を開いた。「マロンは、見つかったのか」

「ああ、いたよ。青色のローブを着て、闘技場で戦ってた」

 凛空は少しだけ顔を上げる。「あのファミリアか」

「見たのか、凛空」

「うん。パンナコッタと一緒に、試合を見てたんだ」

 パンナコッタとは、どうやら魔導士の名前らしい。名前で呼ぶほど親しい間柄になっていたんだろう。ともかく、凛空だけでも無事でなによりだった。

「魔導士って、凄いやつだったらしいな」俺は身を乗り出した。「どこで知り合ったんだ?」

「路地裏でルプスに襲われてたときに、助けてくれたんだ」

 そう言うや否や、凛空は悔しそうに歯ぎしりをした。拳を震わせて、顔を下に向けた。

「守られてばかりだったんだ。雑木林の池で溺れたときも、闘技場から逃げてるときも、ずっとだ。ずっと守られっぱなしだった」

 雑木林の池。魔導士について、なんとなく分かってくる。

「それなのに、僕は、何もしてやれなかった」

 話によると、魔導士は凛空が飼っていた犬だったらしい。四歳の頃、池で溺れた凛空を助けて、代わりに沈んでしまったんだとか。

「だけど死んでなかった。パンナコッタは、池の底からアムネルに来たんだ」

 俺たちも、秘密基地の空洞を下ってアムネルに来た。つまり入口は二つあったということだ。一つは池の底、もう一つは秘密基地の奥。

 だけど不思議だ。凛空はペットを飼ったことがなかったはずだ。本人の口から聞いたから間違いない。俺が指摘すると、凛空は再び顔を上げた。

「マテリカを使って、記憶を封じ込めたんだ」

 マテリカ。記憶を封じ込める。魔法のようなものなんだろうか。凛空が言うには、誰かを幸せにするための力らしい。循環するだかなんだか喋っていたけど、俺にはどうも理解しがたい内容だった。

 ただ、今の凛空が冗談を言うとは思えない。黙って信じるのが俺の役目だ。

「なあ、純太」

 凛空が、俺の目を見て離さない。

「大人になるって、どういうことなんだろう」

 お前に分からないなら、俺にも分かるはずないだろ。

 そう言いかけて、やめた。凛空は本気だ。本気で俺を頼っているんだ。

 それなのに、最初から考えることを諦めてどうするんだ。

 あの凛空が、俺の意見を求めている。それなら出来る限り力になりたい。

 俺たちが出会ったのは、確か、小学校の入学式だったかな。たまたま席が隣だった。だから話しかけた。友達が欲しかった。あの頃は、友達ができるなら誰でもよかった。今でこそ、数少ない親友の一人だと思っているけど。

 小一のときは、みんながみんな大人になりたがって、子供じみた背伸びをしていた。難しい漢字を書きたがって、習ってもいない掛け算と割り算を進んでやりたがった。

 凛空だけが違った。なんでもそつなくこなしながらも、子供っぽいことばかり喋るんだ。入道雲は綿飴の味がするだの、海に果物を入れたらジュースになるだの、もうめちゃくちゃだった。

 だけど信じたやつもいた。凛空は成績も良くて、塾で小難しいことを習っていたから、凛空の言うことは正しいと思われていたんだ。信じたやつは、決まって馬鹿を見ていた。

「いいじゃないか。楽しいんだから」

 信じたやつを煽るようなことばかり言っていたけど、信頼を損ねることはなかった。勉強を教えてくれるし、クラスの仕事だって率先して引き受ける。みんな、あいつに助けられていたんだ。

 だから許された。凛空は狼少年だけど、嘘を言わなければ良いやつだ。それなら受け入れよう。これも個性だ。凛空の魅力だ。クラスのみんなは、そうやって凛空を正当化した。

 あいつには自分の世界があった。

 なんでもできるから、自分が自分でいることを許された。

 自分に自信がなくて、周り中心に生きてきた俺は、凛空のことがずっと羨ましかったんだよな。それこそ、クラスで一番大人びて見えたんだ。

 だから秘密基地を作った。くだらないことばかりして、凛空と時間を共有した。あいつと一緒にいたら、自分まで大人に近付いたような気になれた。今考えると、平凡じゃない何かになりたい、という下心があったのかもしれない。

 でもいいんだ。一緒にいて楽しいのは本当だったんだから。

 俺は大人になりたかった。みんなにできないことができて、誰にも負けない誰かになりたかった。

 それなのに、俺は口走ってしまった。大人なんかになりたくないって。

 どっちつかずの俺に、凛空が尋ねた。大人になるって、どういうことなんだろうって。

 そのままの凛空でいいよ、じゃない。あいつは変わろうとしている。

 それを妨げるなんて、できやしない。

 背中を押してやるのが俺の仕事だろ。

「そうだなあ」

 そう呟いて、時間を稼いだ。自分なりに考えているということを、凛空にアピールした。少なくとも、純太は僕のことを想っていると伝わればよかった。

 大人ってなんだろう。大人なら、なんでも自分で解決するんだろうか。それなら凛空は大人じゃない。俺に助けを求めているから。でも凛空が子供かといわれたら、それはそうとも言い切れない。俺からしたら、凛空は充分大人なんだから。

 その凛空が求める大人。俺には難しい。やっぱりダメそうだ。でも、考えられるだけ考えたい。頼られたなら、応えたいと思うのが普通じゃないか。

 ふと、凛空の言葉を思い出した。「マテリカを使って、記憶を封じ込めたんだ」という言葉。凛空の記憶を封じ込めた魔導士は、凛空を制御したんだから、凛空よりも大人だ。マテリカを使って、まだまだ子供の凛空に負担をかけまいとした。

 負担をかけまいとした。子供の凛空に。

 マテリカを使って。凛空よりも大人の魔導士が。

 俺は「大人かあ」と呟きながら、凛空と向き合った。ようやく答えがまとまった。

「思いやられた人が、思いやる側に回ることなんじゃないか」

 凛空が小声で言う。「それが、『大人になる』ってことなんだろうか」

「俺の考えだけどな」取り繕うように口角を上げた。

 凛空は視線を逸らして、しばらく黙っていた。沈黙が包む。窓から星々が見えた。もう夜だ。なんだか長い一日だった。そういえば、大人は子供よりも時間の流れが早いんだという。それも凛空に言っておけばよかったな、と後悔した。今更伝えるには、沈黙が続きすぎていた。

 ずっと無口だった凛空は、俺に「ありがとう」と告げてから、ゆっくりとステーキを頬張った。噛みしめるように、何度も何度も口を動かしていた。


 翌朝のチロルは、眠れなかったのか、ひどく疲弊した様子だった。万全な状態とはいえない。時間になったら迎えのルプスが来るから、逃げようにも逃げられない。だけど、当のチロルは、決闘を辞退する気などさらさらないようだった。

「ぼくが逃げたら、ムギが連れて行かれるのでしょう。ならば行きますとも」

 朝食後、チロルに稽古を頼まれた。マロンのことが頭によぎったけど、対戦相手のチロルに言い出せるわけがない。稽古の誘いを引き受けた。そして引き受けたからには、全力で指導するほかない。俺の知る剣道は、そういう武道だった。

 庭に赴き、俺たちはスパーダを振る。ムギは、ベンチに座ってチロルを見ている。凛空はといえば、まだ起きてこない。ムギも無理には起こさなかったみたいだ。

 やがて四匹のルプスたちが訪ねてくる。太陽がまだ昇り切っていない頃だ。

「おや、剣の稽古か。気合い充分だな」

 俺は物陰に隠れた。サピエンスの俺がいると、ルプスの機嫌を損ねそうだったからだ。顔だけを覗かせて、チロルの様子を窺う。

 一匹のルプスが喋る。「相手はあのマロンだ。もしも勝てば、それだけで魔導士になれるかもしれない」

「なんせ、あのマロンだからな。期待してるぞ」

 ルプスたちは、チロルをあざ笑うかのような表情を浮かべた。彼らにとっちゃ、勝敗は目に見えているんだろう。チロルの家族も決闘で敗れたから、なおさら。

「負けたら負けたでいい。おれたちは歓迎するぜ」

 チロルがムギの方を向く。しかし何も言わない。黙ったまま見つめるだけだ。

 ルプスに連れられて、チロルは家を去る。ムギとの間に、とうとう言葉は交わされなかった。俺はスパーダを握りしめた。このあと、自分がどうすればいいかなんて、もうとっくに決まっていた。

 マロンを説得して、決闘を中止させるんだ。そしてチロルを助ける。

 俺は庭に戻り、立ち尽くすムギに声をかけた。「よし、行こうか」

「行こう、って……」ムギは目を潤ませている。「チロル様を追いかけるつもりですか」

「それ以外に何があるんだ」

 ムギは「できません」と声を震わせた。膝から崩れ落ちて、小さく嘆いた。

「チロル様が守ってくれたのは、とうに存じております。せっかく助けられた命を捨てるなど、わたくしにはできません」

 さては、勘違いしているようだ。ムギにスパーダを持たせて戦わせるなんてもってのほかだ。目の悪いムギを戦わせるほど、俺は鬼でも悪魔でもない。

 ムギに頼みたいのは、もっと安全で、だけど重要な仕事だ。

「ムギ」俺が手を差し伸べる。「自警団を説得できるかい」

「自警団、ですか」ムギが顔を上げた。

「そう、自警団。魔導士亡き今、ファミリアの最大勢力は自警団なんだ。ここでルプスたちを止めないと、アムネルはルプスのものになってしまう。嘘なんかじゃないさ」

 ルプスの票を集めるのに必死な国会議員と、それに準ずる軍事警察は頼れない。善意と正義で動く自警団がいなければ、チロルはもちろん、ムギにも危害が及ぶ可能性がある。

「『チロルが危険な目に遭っている』と、感情を込めて主張できるのは、他の誰でもない、ムギなんだ」

 闘技場の権威が高くなれば、ルプスの地位も上がる。サピエンスの俺は、闘技場に入れなくなるかもしれない。そうなれば、二度とマロンと会えないことすらありえる。

「自警団を動かせるのは、ムギしかいない」

 今しかない。今動かなければ、ずっと動けない。

「チロルを助けられるのは、ムギしかいない」

 ムギが、ゆっくりと立ち上がる。

「一緒に行こう」

 俺の差し伸べた手を、ムギが握る。

「チロルを助けるぞ」

「はいっ」ムギの力強い返事がこだました。

 これで決定だ。とはいえ、すぐにはチロルを追えない。ルプスに見つかったら面倒なことになる。一旦、準備を整えるべきだ。

 俺たちが玄関に戻ると、凛空が立っていた。ようやく目を覚ましたらしい。

「おはよう」凛空が微笑む。「ちょっと、寝るのに時間がかかっちゃって」

 昨日よりは元気そうだけど、ちょっと目が腫れている。凛空も凛空で思い悩んでいたんだろう。なんでもできるように見えて、色々抱え込むやつだから。

 凛空が朝ご飯を食べている間、俺はマロンを説得する方法を考えていた。まずは空白の一週間をどうにかする必要がある。日本とアムネルで時間の流れが違うのは明白なんだけど、それだとマロンは納得してくれないだろう。機嫌を悪くしておしまいだ。なんとかして、時間の流れが違う理由を探し出さないといけない。

 でも、マテリカとかいう摩訶不思議がまかり通るアムネルで、理屈や論理といったものが通用するんだろうか。そうは思えない。「それはそういうものなんだよ」と押し通す方法しか考えられない。

「どうした、純太」

 凛空が顔を上げて、怪訝そうな顔をしている。

「さては、考え事をしてるんだろ。僕にも教えてくれよ」

 凛空に嘘はつけない。だけど、マロンを説得するのは俺の仕事だ。俺の身勝手に凛空を巻き込むのは、果たして許されることなんだろうか。

「別に、何も考えてないさ」

 笑顔でその場を取り繕いながら、再び思考の牢に閉じこもろうとする。

「卑怯だ」凛空が声を荒げた。「マロンのことだろ。お前、すぐ表情に出るんだよ」

 見透かされてしまった。恥ずかしくて、否定も肯定もできない。

 凛空は、口に食べ物を詰め込みながら喋る。「僕と純太だけじゃない。マロンも含めて、秘密基地のメンバーってことを忘れるな。分かったら、早く話せ」

 この期に及んで秘密基地。どうやら、俺は凛空を見くびっていたようだった。

 秘密基地だなんて、俺を説得するための口実に過ぎないかもしれないけど、なんとも子供っぽくて、それが大人びていると感じた。

 俺は、昨日の出来事を包み隠さずに話した。マロンの姿形から、喋った内容まで。とにかく、覚えていることを全部伝えた。

「なるほど」凛空がうんうんと頷く。「一週間か。だいぶ経ってるよな」

「そうなんだよ。これを解き明かさない限り、マロンは帰ってこない気がするんだ。俺も納得できないし」

 凛空は手を止めて、食事を中断する。口を結び、顎に手を当てる。あいつの癖だ。何かをひらめいたり、考えたりするとき、凛空は決まってその仕草をする。

 体感にして数分後、凛空は手を下ろした。考えがまとまったみたいだ。

「僕は多分、その答えを知ってる。それも、純太から聞いた気がするんだ」

「俺から聞いたって、そんなことあるのか」

 勉強のできる凛空が知らなくて、からっきしダメな俺が知っていること。

 勉強のことは絶対に違う。犬のことは、凛空も飼っていたから同じくらいの知識量だろう。剣道は俺の方が知識があるけど、剣道と時間が関係するとは思えない。

 凛空の言葉を待っていた。先に聞こえたのはため息だった。

「だけど、どうにも思い出せない。ごめんな、昨日から頭が回らなくて」

 それでも充分なヒントだ。「ありがとう」の言葉がポロッと出た。

 それからすぐに、凛空が両手を合わせた。朝食を食べ終えたようだ。ムギも準備完了とのこと。俺もスパーダを腰に差して、身支度を整えた。

 俺たちは玄関を出る。ムギが一度だけ振り返り、そして歩き出した。家のことが心配なんだろう。案ずるな、と思った。今頑張れば、またチロルと暮らせる。今度こそ誰にも邪魔されない。それまでの辛抱だ。もしも戦いになっても、俺だけがスパーダを握る。だから問題ない。不安に思っている何もかもが杞憂なんだ。

 道中、凛空を交えながら、改めてチロル救出作戦の概要を確認した。まずは駐屯地に向かって、ムギが自警団に協力を要請する。ここで了承を得ても、すぐには闘技場に出動できないだろう。向こうにも作戦や指揮があるからだ。

 ムギには駐屯地で待機してもらい、俺は先に闘技場に行く。万が一、自警団が到着する前に決闘が行われようものなら、俺が乱入してでも時間を稼ぐ。上手くいきそうなら、そこでマロンを説得する。

 凛空には、一足先に丘の上で待機してもらう。俺とマロンが来たら、すぐに日本に帰れるようにするためだ。来るのが遅い、大体三時間くらい待った気がしたら、トラブルかもしれない。駐屯地を訪ねて状況を聞いてもらう。

「こんなところだ。気になるところがあれば、今訊いてほしい」

「あのさ」凛空が手を挙げる。「僕の仕事が少ない。丘の上に行くまで、まだ働けるよ」

「凛空には、計画が破綻したときのカバーを頼みたい。自警団の説得が長引いたり、俺が決闘を止められなかったりしたら、凛空の頭脳で補ってほしいんだ」

 口ではそう説明したけど、本当のところは違った。昨日より元気とはいえ、闘技場で、しかも目の前で魔導士を失った凛空に、大きな仕事は頼めなかった。期待していないというと、言い方が悪いかもしれない。だけど本調子じゃないはずだ。

 俺の思惑は、また見透かされているのかもしれない。ただ、凛空は「分かった」とだけ言って、それ以上は喋らなかった。ありがたいと思うと同時に、申し訳ないという罪悪感に苛まれる。

 仕方ないんだ。大事な誰かの死を乗り越えるには、途方もない時間と精神力が必要なんだから。

 市街地に入ると、ファミリアたちがざわついていた。盗み聞きしたところ、決闘についての話題だった。決闘で神聖なる魔導士を決めるとは何事か。そのような声が、至る所から聞こえてくる。やっぱり、ファミリアもおかしいって気付いているんだ。

 そのまま歩いて、駐屯地に到着する。門の前には、一昨日と同じように、緑色のローブを着た団員が立っていた。

「これは、サピエンスのお方。どうもこんにちは」団員が話しかける。「生憎ですが、自警団は立て込んでおりましてね」

「魔導士のことかい」俺が問う。

「いかにも。次の魔導士のことです」

 ムギに視線を合わせると、覚悟したかのように、ムギは大きく頷いた。一歩前に出て、胸を張ってみせた。

「わたくし、今日の決闘に参加されるチロル様の召使い、ムギと申します」

 団員は、驚いたかのように目を見張った。「チロルさんの召使い」

「自警団の中で、最も偉い方をお呼びください」

「と、言いますと……」

「決闘を止めに来ました。自警団の力を、是非お借りしたいのです」

 気迫に押されたのか、団員が一歩下がった。そして「少々お待ちを」と建物の中に入っていった。

 俺はというと、呆然としていた。おっちょこちょいのムギが、これほどまでの自信家だとは思わなかった。ムギを焚きつけたのは俺だけど、予想外に燃え上がったものだから、驚きを通り越して感動すらしていたんだ。

 すぐに帰ってきた団員は、俺たちを建物の中に案内してくれた。どうやら自警団のトップ、団長と話ができるらしい。靴を履いたまま、俺たちは古びた廊下を歩く。色々な部屋があるけど、その多くは使われていないようだった。

「着きました」廊下の突き当たりで、団員が足を止めた。「団長が待っています。見た目は怖いですが、緊張なさらずに」

 開かれた扉の先には、薄暗い空間が広がっていた。窓もなく、照明も暗ければ、家具も来客用のソファしか見当たらない。

 部屋の真ん中には、緑のローブを着たファミリアが立っていた。おっかない顔つきで、学生帽のような形状の緑の帽子を被っている。このファミリアが団長らしい。

 扉の閉まる音がする。途端に緊張してきた。この団長、体格も良ければ顔も厳つい。ルプスとは別の恐ろしさだ。緊張なさらずにと言われても、無理なものは無理だろう。

「話は聞いています」団長が低い声を出す。「どうぞ、お掛けになってください」

「いえ、すぐに終わらせますので」

 ムギが鋭い声を出した。これには俺も肝を冷やす。強面の団長相手に、全く怯んでいないらしい。アムネルで十三年過ごしたムギは、あらゆる修羅場をくぐってきたんだろう。

「国の象徴たる魔導士。それを決闘で決めるなど、断じて許されることではありません。早急に中止する必要があります。さもなければ、反政府的な闘技場の権威が高まり、ルプスの増加や治安の悪化は避けられません」

「まあ、まあ。一旦状況を把握しましょう」団長が諭すように言う。

「状況を把握? 先延ばしの言い換えに過ぎないでしょう、それは」

「とはいっても、決まった魔導士がルプス側とは限りませんから……」

「限るでしょうがっ」ムギが怒鳴った。「闘技場を営んでいるのは、ファミリアではありません。ルプスです。聡明なあなたなら理解できるはずでしょう。ルプスは、自分たちにとって都合の悪いファミリアを、決闘に出場させないことだって可能なのです」

 団長は、ばつが悪いとでも言いたげに、顔を下に向けている。

 俺は、なんとなく理解していた。自警団が怠けているのは団長のせいだ。その体格や顔つきから、団員は意見を言いづらい。されど団長は臆病で受動的な性格だ。

「自警団が動かずして、誰が動くというのですか。ルプスの票を集めたがる国会議員ですか。その国が指揮する軍事警察ですか」

 ムギが睨みを利かせる。刺さるような眼光。目が不自由だとは到底思えない。

「あなたは、なぜ団長になったのですか」

「その、成り行きでして」団長がしどろもどろになる。「ファミリアを動かすなんて、どうしたらいいか……」

「では、ファミリアが動けば自警団も動くのですね」

 団長は、こくりと小さく頷いた。すると、ムギは団長の腕を掴んで、部屋を飛び出した。どうしたんだろうか。俺と凛空もすぐに追いかける。

 目が悪いムギのことだから、何度も壁にぶつかっていた。そこで俺がムギの手を引いて、誘導してやることにした。

 だけど、行き先が分からなければ、誘導することもままならない。

「どこに行くつもりなんだい」俺はムギに訊いてみる。

「門の前です。ファミリアを相手に、演説を行います」

 なるほどな。市街地にいるファミリアも、決闘で魔導士を決めることに肯定的じゃなかった。そこで、ファミリアたちに決闘や闘技場の必要性を説いて、民衆を味方につけるつもりなんだ。そうすれば、自警団も動かざるを得ないと考えて。

 俺はすっかりムギに頼り切っていた。想定外だったんだ。ムギがここまで積極的だなんて。でも幸先が良い。これなら、本当にチロルを救えるかもしれない。

 違う、絶対に救うんだ。

 そしてマロンも説得する。こればかりは、俺がやらなきゃいけないけど。

 建物の外に出たムギは、団長の手を引いて、門の外に飛び出した。道行くファミリアが「団長だ」と足を止めている。どうやら、団長が姿を現すのは珍しいことのようだった。

 一分も経たないうちに、ムギたちは聴衆に囲まれていた。自警団から重大な報告があると思っているんだろう。あながち間違いじゃない。俺と凛空は、離れた場所から見守ることにする。

「魔導士の死により、平穏は終わりを告げました」

 ムギが語り始めた。聴衆がざわつく。これから何が始まるんだろう、という期待が入り交じっているように聞こえる。

「されど我々には、平和を求める権利、つまり新たなる魔導士を誕生させる権利があります」

 団長は黙ったままだ。だけど、突っ立っているだけで雰囲気が違う。これから話すことは本気だ、と聴衆に圧力をかけている。当の団長に、その自覚があるかは分からないけど。

「その魔導士を決める方法は、あろうことか、決闘。ほかでもない、国が決闘と定めたのです。ふざけていますよ。平和を求めるために、血を流すだなんて。そう思いませんか、みなさん!」

 ざわめきが静まり、代わりに「そうだ」と賛成の声が上がる。

「ルプスに巣くった議員など、もはや信用に値しない。我々が賛同すべきは、民意と正義で動く自警団のみ! 闘技場を日常として受け入れていた者たちよ、考えるのです。それがなぜ日常だと思い込まされていたのかを」

 ムギも我を忘れて、演説に熱を入れている。道路はもはやムギのステージだ。

「今こそ呪縛を解放すべき時! 臆病者、小心者、卑怯者、詐欺師だって構いません。あの忌まわしき非日常を打破する意思があるのならば、誰であろうと歓迎しましょう!」

 聴衆が歓声を上げる。歓声が更なる聴衆を呼び、新たなる歓声を生み出す。

「今こそ、ファミリアが立ち上がる時!」

 ムギが右手を突き上げる。

「今こそ、真の平和を取り戻す時!」

 聴衆が右手を突き上げる。

「臆するな、案ずるな! 闘技場を襲撃し、かの魔導士の仇を討て!」

 盛り上がりは最高潮に達した。聴衆は叫び、暴れ、ムギと団長を胴上げした。俺はというと、作戦の成功を確信していた。勢いよく凛空の肩を組んで「やったぞ」と声を弾ませる。これで自警団が動く。あとはマロンを説得するだけだ。

 そのとき、一匹のファミリアが走ってきた。息を切らしながら、何かを叫んでいる。

「聞いたか、そろそろ決闘が始まるらしいぞ!」

 想定よりも早い。俺は一旦冷静になり、作戦の内容をもう一度整理する。自警団に協力を要請したあとは、時間を稼ぐために、俺と凛空が闘技場に向かうんだ。

 急いでは事を仕損ずる。だけど、背に腹は代えられない。

「純太様」聴衆をかき分けて、ムギが俺の前に寄ってくる。「わたくしは、国民を焚きつけた張本の者です。現場を離れるわけにはいきません。責任を取り、駐屯地に残って指揮を取ります」

 ペコリと頭を下げるムギに、俺は顔を上げるように言った。

「それでいいんだよ。体を張るのは俺の仕事だ」

 凛空と目を見合わせてから、俺たちはムギを置いて走り出した。目指すは闘技場。駐屯地から走っても、そこまで時間はかからないはずだ。どうかまだ始まってくれるな。

「純太様、凛空様、ご武運を!」

 手を振るムギ、そしてファミリアたち。俺は一瞥してから、また前を向く。これだけのファミリアが集まれば、間違いなく決闘は止められる。その日のうちに闘技場の閉鎖まで持ち込めるかもしれない。それは期待しすぎかもしれないけど、でも夢なんかじゃないって思えるんだ。

 石畳を駆ける。道行くファミリアの視線を集める。ただ走っているだけなのにな。ファミリアとは走り方が違うんだろうか。それとも、俺たちの白い鼻に注目しているんだろうか。そんなこと、今はどうだっていい。違うなら違うと笑えばいいし、鼻が白いならサピエンスだと言えばいい。

 俺はそれどころじゃない。走ることに意識を注がなきゃいけない。

「純太。ちょっと、いいかな」

 凛空が声をかけてきた。俺よりも澄ました顔で走っていやがる。そういえば、あいつ、運動会でも毎年リレーの選手だったな。

「どうしたよ」なんだか負けたくなくて、俺は口角を上げてみせる。

「闘技場に入って、職員から、特等席を勧められるかもしれない」

 ルプスが用意する特等席。あることないこと勘繰ってしまう。

「特等席が、どうしたって?」俺が訊く。走りながら喋るのは疲れるものだ。

「絶対に断れ。あの特等席は、獲物を捕えるための罠。パンナコッタも、そこで亡くなったんだ」

 魔導士すら生還できない特等席。確かに、勧められたら断った方がいいだろう。ありがたいアドバイスだ。手でグッドサインを作った。

 大通りはファミリアでごった返している。混み合って、思うように進まない。

 うんざりしていると、路地裏が目に入った。しかし凛空は、この路地裏で大変な目に遭っている。俺には護身用のスパーダがあるし、ルプスたちは決闘を見に行っているからいないはずだ。とはいえ、凛空を連れて路地裏に行くのは心もとない。

「路地裏を使おう」

 そう提案したのは、凛空自身だった。

「そっちの方が早い。急ぐんだろ、純太」

 ためらう気持ちはあったものの、俺はすぐに頷いた。左手で凛空の手首を掴み、右手でスパーダを握る。そして路地裏に飛び込んだ。空気が変わる。ルプスの巣窟ということもあって、独特の匂いが鼻を刺激する。

 闘技場はルプスが運営していることもあって、路地裏の至る所に闘技場への道のりが書いてあった。こればかりはルプスに感謝しつつ、ひたすら駆け抜ける。

 入り組んだ道を抜けて、路地裏から大通りに戻ると、やたらと大きな建物を目にした。凛空曰く、これが闘技場らしい。

 俺は左手を離して、凛空と向き合った。

「あのさ」凛空が口を開く。「本当に、僕は丘の上で待ってていいのか」

「いいんだ。俺に任せとけ」

 それでも凛空は、気に入らないと言いたげに俺を見つめてくる。「僕に責任を押しつけたくないとか、考えてるんじゃないよな」

 ちゃんと説得しないと、闘技場についてきそうな勢いだ。心苦しいけど、ちょっとトゲのある言葉を投げなきゃいけない。凛空のために凛空を傷付ける必要がある。

「凛空。お前は自分で自分を守れるか。それとも、マロンを説得するための口説き文句を用意してるか」

 凛空が押し黙る。かなり残酷なことを口にしている自覚はあった。お前は役立たずだと言っているんだ。そんなことはないのに、そんなことあると主張するなんて、胸が締め付けられる思いだった。

「俺を信じろ、凛空」

 凛空が言い訳を思いつく前に、俺は闘技場に向かって走り出した。あいつは追いかけてこなかった。ごめんなさいと、何度も心の中で頭を下げた。

 実際、あいつは役立たずどころか、なんでもできる万能人間だ。勉強も運動も、自分の世界を作るのも。そのくせして他人には優しいから、恨もうにも恨めない。

 だけど、ダメなときはダメと言わなきゃいけない。闘技場で魔導士を失った凛空に、闘技場での仕事を押しつけるってのは、かなりの無理難題のように思えるんだ。

 だから傷付けた。凛空の自尊心をズタズタにしてでも、凛空を闘技場に連れて行くわけにはいかなかった。

 俺たちの目的。それは、俺と凛空とマロンで日本に帰ること。

 誰も欠けちゃいけない。こんなところで凛空を失うわけにはいかない。

 それなのに、どうして心が痛むんだろう。凛空のことを想って行動したのに、どうして後悔ばかりが生まれるんだろう。

 嫌われたくない。このまま離れ離れになりたくない。

 ああダメだ。感傷的になってしまう。落ち着け。冷静になれ。俺の時間稼ぎが、アムネルの今後を左右するかもしれないんだ。そう思い込んでも、この得体の知れない気持ち悪さは改善しなかった。

 しっかりしろ。俺は、大人にならなきゃいけないんだ。

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