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〈凛空〉第13話

 どうして、忘れてしまっていたんだろう。

 今なら鮮明に思い出せる。あのあと、家のソファで目覚めたことも、雑木林で散歩していたことも、さっきまで溺れていたことも。

 お父さんが「また犬を飼いたいな」と口走ったことも。

 お母さんが「凛空がいれば充分よ」とあしらったことも。

 池に沈みかけた僕を、誰かが助けてくれた。だけど誰かが分からなかった。四年間の人生の中で、一番の親友だったということだけを覚えていた。

 今まで忘れてしまっていた。雑木林に入ったことも、パンナコッタの存在も。

 親友だったのに、どうして思い出せなかったんだろう。忘れてしまっていたんだろう。

 自分のことを忘れさせることが、パンナコッタの思う「凛空のため」なのか。十二歳の今なら、随分と見くびられたものだと感じてしまう。

「パンナコッタ」

 僕の太ももの上で眠るパンナコッタに、そう声をかけた。

 反応はない。目を閉じて、口角を上げたまま、黙りこくっている。

「ねえ、パンナコッタ」

 彼女の白い髪を撫でながら、再び声をかけた。

「パンナコッタったら」

 きっと、走りすぎて疲れちゃったんだろう。立ち寄った公園でも、ずっと紙飛行機を追い回していたから。服を乾かすために、闘技場まで走って向かったから。

「返事くらいしてくれよ」

 さては、僕にイタズラを仕掛けているんだ。

 急に起き上がって、僕の驚いた顔を見ようとしているに違いない。

「パンナコッタ」

 でも、万が一の話をしよう。もしものことを考えよう。

「行かないで」

 これが、疲労でも、イタズラでもなかったとしたら。

「一人にしないで」

 僕は、大人にならないといけない。

 パンナコッタのマテリカは尽きて、僕は事のあらましを知った。パンナコッタが自分の存在を隠したのは、当時の僕がまだ幼かったから。言い換えると、今の僕は幼くないということ。

 今の僕なら受け入れられるって、魔導士が判断したということ。

 僕たちは、数年もの濃密な時間を共有した。それは一期一会で、二度と繰り返されることはなくて、三回その場で回ったって、四囲の情勢は覆っちゃくれないんだ。

 だけど、最初から出会わなければよかっただなんて思わない。パンナコッタと過ごした日々は、僕にとって、絶対に忘れられない思い出だ。なのに忘れていたんだ。マテリカなんかに封じられて、それでのんびりと生きてしまったんだ。この十二年間を。

 叩いてほしい。蹴ってほしい。

 命を救ってくれた親友のことを、今の今まで忘れていた僕をどうにかしてほしい。

 パンナコッタを思い出せないなら、僕は子供のままでいたくない。真正面から事実と向き合って、受け入れなきゃいけない。

 誰を恨むとか、誰に復讐するとか、パンナコッタはそういうことを伝えたかったわけじゃないはずだ。僕にとって、一番適した選択を残しているはずなんだ。

 それが大人になることなんだろうって、僕はそう考えている。

 嫌だなって思う。子供のままで楽しいのに、どうして大人になるんだろう。

 いつまでも紙飛行機を追い回していたい。自分の足で坂道を下って、パンナコッタに乗って上りたい。ソファの上で跳ねて、一緒にテレビを見よう。いっぱい遊んで疲れたら、寄り添い合って眠るんだ。

 子供のままでいたら、お母さんみたいに体力も落ちないし、ずっとパンナコッタに乗っていられる。

 大人になったら、今までできたことが、途端にできなくなる。それが寂しいって思う。

 大人にならないといけない。大人になりたくないのに。

 悔しくて、どうしようもなくて、力なく首を前に垂らした。パンナコッタの額に、ぽつりぽつりと水滴がついた。もう二度と遊べないって、心の奥底で感じ取ってしまった。

 子供でいいから一緒にいたかった。そう言えたらよかったのに。

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