両親と手を繋ぎながら、地元の譲渡会に訪れた。僕が一歳か二歳の頃だった。
公園を貸し切って行われた、犬や猫の譲渡会。お父さんが「昔、犬を飼っていたことがあってなあ」と語っていたのを思い返す。お母さんは「そうだったわね」と相槌を打つばかりで、僕には一瞥もくれない。
二人の昔話なんか微塵も知らない僕は、蚊帳の外に放り出されたみたいで、妙に寂しかったのを覚えている。両親が過去に浸るのは、よくあることだった。そのことを二人も自覚していたようだけど、どうも直す気はないようだった。
家族と一緒にいるはずなのに、孤独感を覚えていた。自分が幽霊になったかのような気分だった。誰かに守られることを求めてしまうのは、きっとこの頃からなんだろう。
僕だけに吹き付ける冷えた風。ずっと、誰かにマフラーを巻いてほしかった。
そんなときに、パンナコッタと出会ったんだ。
ケージの隙間から揺れ動く、白い毛。僕と同じくらいの背丈で、優しそうな表情を浮かべる。黒い鼻は濡れていて、暑がっているのか、舌をだらんと垂らしていた。
僕は、白い毛で覆われたその犬を指さして「パンナコッタ」と呼んだんだ。
ケージに駆け寄って、パンナコッタの目をまじまじと見つめた。綺麗な目をしていた。この時点で、僕は夢中になっていたんだと思う。
パンナコッタを飼いたいと言い出したのは僕だけど、二つ返事で受け入れた両親も両親だ。お父さんが言うには、「どんなときも親友でいてくれるんだ」という。当時の僕には、その言葉の意味がまったく理解できなかった。親友は不変的なものだと思っていたから。
ブリーダーさんは、パンナコッタは元々虐待を受けていたんだと言った。だから、事あるごとに攻撃的になって、僕を傷付けてしまうかもしれないらしい。
別に構わないと思った。傷付いたっていいと思った。ずっと親友でいてくれるなら、安いものだ。ずっと孤独に苛まれていた僕は、かけがえのない親友を待ち望んでいたんだ。
それからはもう、とんとん拍子に進んだ。まだ一歳だったパンナコッタは、その日のうちに僕の家族になったんだ。名前は、もちろんパンナコッタ。彼女にぴったりだと、ブリーダーさんのお墨付きももらった。
ソファの上が僕たちの秘密基地だった。たくさん跳ねて、一緒にテレビを見て、疲れたら眠った。パンナコッタに頭を預けて、ふわふわとした感覚のまま目を閉じるのが好きだった。
僕が起きたら、必ず毛布がかけられていた。だけど両親の仕業じゃないらしい。視界の隅には、いつもパンナコッタがいた。
僕の家は丘の上にあったから、散歩は坂を下ってから上る必要があった。お母さんにはとても疲れることだったらしく、パンナコッタが満足する前に散歩を切り上げることも少なくなかった。
パンナコッタが家族になってから、ブリーダーさんが何度か家に来た。パンナコッタの健康状態とか、日常で困ったことがないかとか、そういったことを聞きに来たという。パンナコッタは虐待を受けていたから、何回もパンナコッタの様子を見に来るのは、当然っちゃ当然かもしれない。だけど、ブリーダーさんもパンナコッタを大事に想っているんだと知って、僕はとても嬉しかったんだ。
時が経ち、僕とパンナコッタは三歳になっていた。だけど、体はパンナコッタの方がずっと大きかった。お父さん曰く「大型犬だから」らしい。
ソファの秘密基地は相変わらずで、散歩も毎日行った。その頃には、パンナコッタのいない生活なんて考えられなくなっていた。
ある日のことだ。僕とお母さんがパンナコッタの散歩をしていると、ブリーダーさんに遭遇した。公園の譲渡会の最中だったらしい。
お母さんたちは、軽く談笑しながら歩き出す。僕はパンナコッタの隣に立ち、退屈しのぎに白い毛を撫でた。ふしゃりとした温かい感触が大好きだった。
しばらく歩いていると、ブリーダーさんが僕の名前を呼んだ。「見てちょうだい。これはなんでしょうか」
ブリーダーさんは、なにやら紙で作られたものを持っていた。目を凝らして確認する。細い先端部分と、直角三角形みたいな双翼。これは紙飛行機だ。
「これを凛空くんにプレゼントしましょう」
手渡されたそれを受け取り、まじまじと見つめる。
こんな紙飛行機が、一体何の役に立つというんだろう。折り紙の一つも折れない当時の僕にとっては、それがとても不思議だった。
ブリーダーさんは、明後日の方向を指さした。「あっちに、紙飛行機を投げてごらん」
言われた通りに投げてみる。それは空を漂い、ゆるやかに遠くを目指す。子供ながらに、何が楽しいんだろうと疑問に思った。僕が純太なら「つまんない」と口に出すところだった。
紙飛行機だなんて、単純で退屈な遊びだ。僕にはどうでもよかった。
パンナコッタは違ったんだ。あいつは草むらを駆けて、一心に紙飛行機を追い始めた。跳ねるように走り、尻尾をぶんぶんと振る。
気付いたら、僕まで走り出していた。紙飛行機はどうでもいいけど、パンナコッタだけが楽しそうにするのは気に食わない。つまり、遊びに混ぜてほしくなったんだ。
それからだ。僕たちが紙飛行機で遊ぶようになったのは。
散歩するたびに、紙飛行機を持っていった。公園に行って、疲れるまでパンナコッタと走り回った。そのおかげか、小学校に入る頃には、走るのがすっかり得意になっていた。運動会のリレーのメンバーにだって、何度も選ばれたんだ。
一緒に遊ぶために、やったことのない折り紙にだって挑戦した。不器用な僕だから、いくつもの折り紙を無駄にしたものだ。ようやく紙飛行機と呼べるものが完成する頃には、一ヶ月は経っていて、ブリーダーさんにもらった紙飛行機も黒ずんでいた。大事に投げ続けていたんだ。紙飛行機が黒ずむ頃には、ずっと遠くまで飛ばせるようになっていた。
体力のないお母さんは、いつも公園のベンチに座って、僕たちを眺めていた。時々顔を向けると、微笑みながら手を振ってくれた。お母さんの気を引けるのが嬉しかった。僕がヘトヘトになっても、疲れていないフリをして、また紙飛行機を投げた。
走り疲れたら、パンナコッタの背中に乗った。上からぎゅっと抱きついて、目を閉じながら匂いを嗅いだ。白い毛が鼻をくすぐって、何度もくしゃみをした。
時々、そのまま眠ってしまったことがあった。ゆりかごに体を預けている心地がして、気持ちよかったんだ。
僕は四歳になった。好奇心旺盛になって、パンナコッタにイタズラを仕掛けるようになった。だけど叩いたり蹴ったりは絶対にしなかった。パンナコッタは虐待を受けていたんだ。そのことを思い出させてはいけない。僕のイタズラは、もっと可愛げがあった。
たとえば、急に隠れてみるとか。不思議そうに辺りを見渡すパンナコッタを、物陰から見ていた。他でもない、この僕を探してくれることが嬉しかった。
そっと姿を現すと、パンナコッタは跳ねるように駆け寄ってきて、僕の胸を小突いた。すっかり満足した僕は「ごめんごめん」と笑いながら、頭や背中をわしゃわしゃと撫でてやった。
そのうちパンナコッタも慣れてきたようで、僕が急に隠れるたびに、積極的に辺りを捜していた。大体僕はすぐに見つかって、お詫びに撫でなきゃいけなかった。でも、パンナコッタに注目してもらえるだけで幸せだった。ずっと構ってほしかった。
僕が雑木林の草むらに隠れたのも、ほんのイタズラのつもりだったんだ。
その日は幼稚園が休みで、一日中家にいた。だからお母さんに提案したんだ。今日はいっぱい散歩しようよ、って。
そうしたら、お母さんは「雑木林はどうかしら」と返した。その雑木林は、公園よりも広くて、散歩しがいがあるらしい。遊歩道さえ逸れなければ安全だとも言っていた。四歳の僕には、その遊歩道が何かなんて分からなかった。
僕たちは、パンナコッタと雑木林に向かった。確かに公園よりも広い。パンナコッタの足取りも軽く、どうやら楽しんでいるみたいだった。
雑木林マップと書かれた看板で、お母さんは立ち止まった。看板に近付いて、赤い女性のマークを指さした。
「ちょっと待っててね」お母さんが、僕たちを置いてどこかに向かう。「トイレ、ここから遠くないみたいなのよ」
パンナコッタと、その場に取り残される僕。至る所に木々が生えている。紙飛行機を投げたとしても、木に引っ掛かって、遠くには飛ばないだろう。
そこで、急に隠れてやろうと思い立った。都合が良いことに、道を逸れると、草むらが盛んに生えている。僕の背丈くらいに高い。
パンナコッタが目を逸らしている隙に、僕は草むらに飛び込んだ。入っただけじゃすぐに見つかってしまう。できるだけ奥に行こう。草むらをかき分けて、先へ先へと進む。
結構行ったぞ、と思ったあたりで、僕は屈んだ。パンナコッタが捜しに来ているか確かめたかったからだ。口に手を当てて、息を殺す。
ふしゃり。草を踏み潰すような音。パンナコッタだと確信した。
しかも、思ったよりも近い。草と草の隙間から、白い毛が確認できる。
このまま見つかっても、なんか呆気なくて嫌だ。もうちょっと粘れないかな。
そう思った僕は、屈んだ体勢のまま、ゆっくりと後ろに下がった。足音を立てないように、慎重に。視界に映る白い毛が、もっと遠ざかるように。ゆっくりと、一歩ずつ後ろに。
突然、僕は後方に倒れ込んだ。
下がろうとした場所に、地面がなかったんだ。
混乱のあまり、頭が回らなかった。自分が今どういう状態にあるかも、理解に時間がかかる。目を閉じていたから、暗闇だということだけが分かった。
息ができなかった。何も見えなかった。そのとき、僕は暗闇を恐れるようになったんだ。精一杯もがいて、地表に顔を出す。状況を飲み込み始める。
僕は溺れているみたいだ。池に落ちたらしい。草むらに囲まれているから、誰にも見つけてもらえない。ならば声を張り上げるしかない。叫ぼうとして息を吸う。
体に入ってきたのは、空気じゃなくて水だ。苦しくなる。事態が悪化する。息が苦しい。また体が沈んでいく。死にたくない。
最後の力を振り絞って、右手を水面に上げる。誰か気付いて。この手を掴んで。願いながら、底の見えない池に沈んでいく。
朦朧とする意識。
僕の視界が、解像度の低いゲームみたいになる。残機は一つしかないのに。不平等を訴える体力は、もう残っちゃいなかった。
気力も限界を迎えて、いよいよ死を覚悟する。
右手を下ろして、ばたつかせていた足を止める。
沈む。ただ沈む。縛られたみたいに、手足が硬直して、僕は沈む。
真っ暗な世界。何かが飛び込むような水しぶきが聞こえたときに、意識は途切れた。