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〈凛空〉第11話

 魔導士は言った。私のマテリカは、元々は君のものだったんだと。

 意味が分からなかった。僕は不思議な力なんか使えない。魔導士は使える。なのに、魔導士のマテリカは僕が与えたって言うんだ。ただでさえ頭を使う状況なのに、ますます混乱する。考えることを諦めたくなる。

 確かなことは、僕たちの前には二匹の敵。脇腹を刺された魔導士は、最後のマテリカを使いたがらない。逃げ道は職員に塞がれる。引き返そうにも、ルプスが許しちゃくれない。

 絶体絶命。誰かに助けてもらいたい。情けない声を上げたい。泣き叫びたい。

 でもダメだ。魔導士の最後の望みが、この僕自身なんだから。

 こうやって責任を負いたがるのも、僕が大人に近付いている証拠なんだろう。嬉しいし、悔しい。複雑な感情だ。

 僕は、精一杯の余裕を偽りながら、職員をじっと睨みつけた。意味なんてなかった。抵抗した、という事実を残したかった。何もしないより偉いんだ、と自分を正当化したかった。何もできないなんて、魔導士を守れないなんて、自分が一番分かっているのに。

「噂は本当だったようだな」

 職員が、舌をだらんと垂らした。挑発に違いなかった。

「もう、誰かに分け与えるためのマテリカは残っていないって」

「ええっと」ルプスが呆気に取られる。「魔導士がマテリカを失おうと、ルプスにはならないんですか」

 職員がため息をついた。「自我を保つためのマテリカは、よほど本能的に死を悟らない限り、使われることはない。知ってるか。普通、ファミリアは八十パーセントの力しか出せないんだ。ところが、死を予感すると、百パーセントの力が出せる。これは火事場の馬鹿力とも呼ばれているがね」

「じゃ、じゃあ、おれのマテリカを、全部分け与えられたのは……」

「首にナイフを当てられたからだろ。お前がビビっただけだよ」

 話している隙に逃げようとしたものの、職員に「何の真似だ」と勘付かれる。これでは迂闊に動けない。

「サピエンス」職員が声を低くする。「お前のやり方は、もう昨日の時点でバレてんだ」

 昨日の時点。首をかしげそうになる。職員とは初対面のはずだ。

 改めて、職員の姿を確認する。紫色のローブを着ていて、肌は土色。路地裏で会ったルプスたちと、なんら変わらない姿のように思える。

 いや、まさか。そりゃあ変わらないはずだ。

 この職員は、僕が路地裏に迷い込んだときに会ったルプスだ。スパーダを振るい、僕の足を痛みつけたルプスだ。

 あのときの恐怖が、再び蘇ってくる。無意識に足を庇いそうになる。魔導士に助けを求めたくなる。頼みの魔導士は、マテリカも使えなければ、怪我を負っている。

 昨日よりも酷い状況じゃないか。

 職員が、わざとらしく足音を立てながら、僕の元に歩み寄ってくる。魔導士が「来るな」と叫んでも、彼の耳には届いていないらしい。

「サピエンス。生まれてこの方、おれはお前たちに何もかも奪われたんだ」

 職員にナイフを向けられる。震える僕の手足とは対照的に、そのナイフはピクリとも動かない。ただ真っ直ぐに、僕の胸を指し示す。

 魔導士が、職員を睨みつけた。獣のような唸り声を上げて、今できる精一杯の力で威嚇する。怪我をしてもなお、僕を守ろうとしているんだ。

「逃げるように、おれはアムネルの国に来た。なのにお前は、どうしてこうも、おれたちを執拗に追い回す? 理解できない。これは報復、いいや、正当防衛に過ぎないな」

「何が正当防衛だ」僕が怒鳴る。「僕は凶器の一つも持っていない。武器のない相手にナイフを向けるのが、正当防衛だって? ふざけるなよ」

「お前の種族がしたことを、そのままやり返すだけ。自分の居場所を守ること。それを正当防衛と言い表さずに、なんと説明するべきか」

 職員は、ナイフを握っている手を下ろした。僕と魔導士を交互に見つめたかと思うと、静かにため息をついた。

「まったく愉快な種族だな、サピエンスは。無抵抗のファミリアを攻撃して、自分自身の快楽を貪りやがる。そう思わないか」

「え、あ、ああ、そうですね」ルプスが勢いよく頷く。「おれは後天的なので、あまりピンとは来ないですけど」

 これまでの会話を聞いて、一つ仮説を立てた。

 ファミリアが犬だとしたら、ルプスは虐待された犬というものだ。

 ファミリアがサピエンスを敬愛するのは、元々はサピエンスに育てられたから。だけど虐待を受けていたとしたら、サピエンスと親しくするどころか、排除したいと考えるのは当然だ。

 あのルプスは「後天的」という言葉を使った。あのルプスが後天的だとすると、先天的なルプスもいることになる。サピエンスを嫌うのは先天的な方で、そうでもないのが後天的。共通点は、どちらもマテリカを保有していないということ。

 マテリカの有無で、ファミリアとルプスに区別される。社会的地位や性格をも変えてしまうマテリカの正体が、未だに掴めずにいる。

「恨まないであげてほしい。ルプスだって、望んでルプスになったわけじゃないんだ」

 路地裏で聞いた魔導士の言葉を思い出した。魔導士は、ルプスに対して同情的な感情を向けていた。それなのに、ルプスに傷付けられてしまった。

「恥がどうした。偉大な魔導士様に、ルプスの境遇が分かるものか」

「分かる、って言ったって、信じちゃくれないだろうさ」

 これも路地裏での会話だ。僕が思うに、魔導士は元々ルプスだったんじゃないだろうか。何かのきっかけがあって、ルプスから脱却して、アムネルで慕われるファミリアに戻れたんじゃないだろうか。

 魔導士は言った。私のマテリカは、元々は君のものだったんだと。

 僕が魔導士にしてあげたこと。それこそが、マテリカの正体なんじゃないか。

「ふざけたものだ。マテリカなんて」

 職員が吐き捨てる。拳を握り、勢いよく壁を叩く。空気が震えた。

 魔導士が、咄嗟に僕の前に立った。両手を広げた。

「狙いは、私なのだろう。ならば刺せ。凛空を見逃すと言え」

「そういう自己犠牲。マテリカを持つ者だけができる、献身的で利他的な態度……」

 再び、向けられるナイフ。

 職員の手が、恐怖以外の理由で、ひどく震えている。

「マテリカを持てるか否か。それすら運頼みってのが、気に入らないんだ」

 ナイフが振られる。僕は咄嗟に目を閉じてしまう。

 暗闇の中で、小さな悲鳴が聞こえた。

 魔導士のものだった。

 再び目を開けると、魔導士がいなかった。辺りを見渡すと、すぐに見つかった。

 魔導士は、仰向けに倒れていたんだ。

 真っ先に生じた感情は、怒りでも悲しみでも諦めでもなく、焦りだった。これまで息を潜めていた死の香りが、今この瞬間に強烈なものとなった。

 どうしよう。僕が何もしなければ、魔導士が死んでしまう。これまで死という明確な言葉を連想しないように気を付けていたけど、今じゃそうも言っていられない。

 焦らないと、魔導士が助からない。

 でもどうしようもない。僕に現状を打破する力はない。騒いだって喚いたって、ルプスたちの余興になるだけなんだ。

 僕にマテリカはない。それがあったって、僕じゃ上手く扱えない。学校や塾で学んだ知識は、こんな土壇場で何の役にも立たない。単純な数式で解決できることじゃない。

 前に職員、後ろにルプス。左右は壁で覆われている。二日続けて逃げ場がない。気が狂いそうだ。

 次に魔導士に目を向ける。僕はしゃがんで、魔導士の手を握る。

 まだ温かい。呼吸しているのか、体も小刻みに動いている。

 僕がしっかりすれば、魔導士を救える。助けられる。

「変なことは考えるな」職員が怒鳴った。「どうせ死ぬんだから」

 にじり寄る、二匹の敵。二本のナイフ。僕に武器があれば、立ち向かうことができるかもしれないのに。

 僕を押さえつけているのは、刃物への恐怖。

 未だに慣れない。明確な殺意を向けられることに。

 殺意を相殺できるのは、同じ殺意しかない。僕には殺意がない。だから相殺できない。

 そのとき、魔導士が僕の手首を握った。ゆっくりと持ち上げて、脇腹に移動させた。刃物が刺さっている箇所だ。

 魔導士が言わんとしていることを、図らずとも理解してしまう。

 単純な話、これを武器にしろってことだ。

 ついさっき、同じ決断を迫られた。魔導士が、自ら刃物を引き抜こうとしたときだ。止めたのは僕だ。魔導士に生きていてほしかったからだ。

 でも今はどうだろう。状況は悪化している。僕に逆転の奇策が浮かぶはずもなく、魔導士は起き上がることもままならない。共倒れという言葉が、今の僕たちに合っている。

 だから魔導士はこう考えた。

 この刃物を引き抜けば、僕だけでも助けられるんじゃないかって。

 馬鹿だと思った。最低だと思った。魔導士が元気なら、頬をぶん殴ってでも止めようとした。でも今じゃそうも言っていられない。

 魔導士は本気なんだ。本気でそう考えたなら、止めるなんてことはできやしない。

 誘導されるがままに、刃物の柄に触れる。生暖かい液体が、僕の両手を伝う。

「握って」

 消え入りそうな声。指示に従い、僕は両手に力を込める。ぐっと、感情をありったけ詰める。力が入る。本当に、引き抜けそうだって思えてしまう。

 息が苦しくなる。暗闇じゃないのに。池の中じゃないのに。

 嫌だ。大事な誰かを失うのが、本当に寂しい。苦しい。胸が痛い。吐きそうになる。

 叫びたくなる。助けを呼びたい。呼べやしない。ルプスが黙っちゃいないだろう。

 湧き上がる負の感情を、全部全部、握る力に変換する。魔導士が「握って」と言ったんだ。僕は従っているだけだ。僕は悪くない。悪いのはルプスだ。ルプスが魔導士を刺さなければ、こんなことにはなっていないんだ。

「恨まないであげてほしい」

 また脳裏をよぎる。路地裏で聞いた、魔導士の言葉。

「ルプスだって、望んでルプスになったわけじゃないんだ」

 それなら、誰を恨めばいいんだよ。

 僕は、柄を握った。握りしめた。握りしめたまま、項垂れた。

 ごめんなさい。

 僕に、刃物を引き抜くことはできない。

 頬を冷たいものが撫でた。雫となって、滴り落ちた。魔導士の服を濡らした。もっと息が苦しくなった。鼻が詰まったんだ。口で息をしようにも、しゃくり上げて、全然上手くいかなかった。

 ルプスが何かを喋っている。職員がなにやら叫んでいる。聞こえやしない。どうでもいい。魔導士に死んでほしくない。魔導士が死んでしまうなら、抵抗なんてしなくていい。

 ずっと項垂れた。魔導士の瞳を見つめていた。刃物の柄から手を離して、代わりに魔導士の手を握った。温かい。冷たくなったとしても、僕の熱を分けてやればいい。

 僕たち、ずっとそうしてきただろう。生まれてからずっと。

 僕の周りでは、まだ職員が怒鳴っている。だけど何を言っているか聞き取れない。僕は目を擦ってから、職員の方に顔を向けた。

 あろうことか、職員は、僕たちに背を向けていた。通路の入口の方向だ。そちらに向かって怒鳴っていたんだ。

 誰かがいるんだろうか。そう思って、僕もそちらに目を遣る。そして目を見張った。混乱した。もう一度目を擦って、幻覚じゃないことを確かめた。

 純太だった。

 純太が助けに来てくれたんだ。

 まず純太が、有無を言わさずに飛び込んできた。手にはスパーダがある。職員がナイフを取り出すと、純太は一瞬だけ狼狽えた。でも僕と視線を合わせた途端に、スパーダを構えて「すぐ助けるからな」と叫んだ。

 頼もしかった。いつも頼りにしているけど、今の頼もしさといったら、並大抵の言葉じゃ説明できなかった。

 続いて、チロルが通路に入ってきた。彼はすぐさま僕に駆け寄って、「ご無事でしたか」と声をかけてくれた。

「申し訳ありません。路地裏が危険だと、先に注意すべきでした」

「いえ、いいんです」安心からか、僕はまた感極まってしまう。「それより、魔導士さんを助けてください」

「しばしお待ちを。ぼくは、ええ、そちらのルプスを片付けます」震えた声だ。

 チロルは、右手のスパーダを握り直して、通路の奥へと走っていく。その気迫に圧倒されたのか、ルプスは尻尾を巻いて逃げ出してしまった。

 再び純太の方に目を向ける。ナイフを目の当たりにしても、純太は臆せずに、スパーダを振るった。その一撃一撃に魂がこもっている。

 肩、腰、腕ときて、頭に振り下ろした。

 職員は、ナイフを手放して、ゆっくりとうつ伏せに倒れた。その様子からして、しばらく起き上がりそうになかった。

「気絶したんだろうさ」純太が職員の顔を覗き込む。「まったく、チロルが教えてくれなかったら、ただのファミリアだと勘違いしたぜ。ローブも灰色じゃないし」

 純太は、また僕に顔を向けたかと思うと、目を見開いた。走ってそばに寄り、「大丈夫か」と魔導士の顔を覗き込んだ。

「おや」魔導士が、弱々しく顔を上げた。「君が、凛空を守ってくれたのか」

「そりゃあ、友達だもん」

 魔導士は静かに微笑んで、「ありがとう」と呟いた。吐息のような声だった。

「とりあえず、助けを呼ぶよ」純太が言う。

「でも、闘技場の職員は信用できない。観客もルプスがほとんどだ」

「となると、難しいな」純太は頭を掻いた。「ファミリアの味方、か。そうだ、近くに魔導士はいないのか? あいつ、めちゃくちゃ凄いんだろ」

 僕は、今ここに倒れているファミリアこそ魔導士だと説明した。純太は驚いたような仕草をしたものの、すぐに冷静になってくれた。

「じゃあ自警団を呼んでくる。魔導士がピンチだって言ったら、あいつら、すぐに来てくれるはずだぜ」

 自警団がどういう組織かはあまり分からないけど、どうやらファミリアの味方らしい。純太は、気絶した職員の腕を掴んで、強引に通路の外へ連れ出した。床に放ってから、どこかに走り去っていった。

 救助は純太に頼むことにして、僕は魔導士のそばにいることにした。

 静寂が訪れる。僕と魔導士だけがいる通路。奥に行ったチロルとルプスは、まだ戻ってこない。

「凛空」魔導士が喋る。「友達、できたんだね」

「純太です。優しくて頼りになります」壁を背にしながら、足を伸ばして座る。

「もう、敬語なんて、さ。使わないでくれよ。私と君の仲だろう」

「そう、だね」敬語からタメ口に変えると、どうもぎこちなくなる。

 魔導士が、僕に膝枕をするように要求した。僕は了承したものの、妙に寂しくなった。誰かに膝枕ができるほど、僕は大人になってしまったみたいだ。

 その相手が魔導士だから、なおさら。

 太ももに体重がかかる。仰向けになった魔導士は、僕の顔を見つめたまま、嬉しそうに微笑んでいる。何かを言いたそうに、口を開けている。

 魔導士の白い髪に、そっと顔を近付けた。懐かしい匂いがする。優しさに包み込まれたかのような香り。それが大好きだったのを、十二歳の今でも覚えている。

「ねえ、聞いてよ、凛空」魔導士が、途切れがちに喋る。

「うん。なんでも聞くよ」

 魔導士の髪を、撫でるように触った。ふぁさりと髪がなびく。魔導士は、気持ちよさそうに目を細めた。口角を上げて、白い歯を見せた。

「あの、雑木林の池。覚えているかい」

「もちろん。溺れたこともある」

 僕は苦笑いを浮かべた。それから、魔導士の目を見据えた。

「君が助けてくれたんだよね」

「そう。私が助けたんだよ」

 魔導士が、僕の頬を撫でる。

「大きくなったね。凛空」

 僕を撫でていた手が、重力に囚われる。地面にパタとぶつかる。

「凛空を助けたあと、私は、溺れてしまった。息を止めて、じっと、耐えていた」

 僕の代わりに、魔導士はあの池で溺れたみたいだ。記憶にはなかった。

「そうしたら、下から、光が見えた。必死に泳いで、その光に辿り着いた」

 その光の先にあったのが、このアムネルの国だった。そう魔導士が語った。

 姿が人間のようになっていたのは、魔導士にとっては、特に変わったことじゃなかったようだ。というのも、生まれたときから人間を見て育ったため、自分自身も犬ではなく人間だと思っていたらしい。本来は四足歩行なのに、慣れない二足歩行をするのも、そういった事情があったんだとか。

 鼻が白いか黒いかで種族を見分けることにも、あまり違和感を覚えなかったみたいだ。

「マテリカをたっくさん持っていた私は、アムネルの魔導士になった。マテリカを使って、みんなを楽しい気持ちにさせた。凛空が私に、そうしてくれたように」

 魔導士はそう話すけど、僕はそのことを一切覚えていない。

「それは、凛空の心が、思い出すことを拒んでいるから」

「僕自身が」

「そう。私がマテリカを使って、そう仕向けた」

 何のために、だなんて分かっていた。当時、僕があまりにも子供だったからだ。自分のせいで魔導士を失ったと後悔させないために、思い出を封じ込めていたんだ。

「『凛空が大人になるまで守ってほしい』と、君の両親に頼まれていたんだ」

 思わず、僕は顔をそむける。落ち着いてから、ゆっくりと目を合わせる。

 魔導士の瞳が、次第に光を失っていく。体温も、さっきより冷たく感じてしまう。口を動かすだけで精一杯なんだろう。「無理するな」と叫びたい。でも、「無理しろ」とも主張したい。もっと話したいことがあった。やりたいことがいっぱいあった。

「だから、私が凛空を大人にする」

 大人になんて、絶対になりたくないと思っていた。

 夢を諦めて、誰かのために生きなきゃいけなくなる。小さな頃の僕には、それが、とてつもなく残酷なことに思えたんだ。

 今もそうかもしれない。やりたいことと、やらなきゃいけないことが、ぐっちゃぐちゃに混ざっている。たとえば、塾の宿題とか。今の状態ですら大変なのに、やらなきゃいけないことが増えたら、僕が僕じゃなくなってしまう気がするんだ。

 それを繋ぎ止めるために、夢を守ろうとした。秘密基地だってその一つだった。

「僕は、大人にならなきゃいけないんだね」

「そうだよ。凛空は、大人になるんだ」魔導士が目を細めた。

「子供に戻りたくなったら、どうすればいい?」

 魔導士は、ゆっくりと目を閉じた。僕の手を握って、十数秒。

 再び目を開く。さっきよりも澄んだ瞳だった。

「思いっきり走るといい」

 僕が頷くと、魔導士が満足そうに微笑んだ。

「さあ、最後のマテリカを、君に分け与えようか」

 このマテリカは、幼い頃の記憶を呼び覚ますために使われるんだろう。

 他でもない、僕のために。僕が大人になるために。

 大人になっても、きっと大丈夫。僕は一人じゃない。純太がいる。一人じゃ怖くても、二人なら前に進める。どんな暗闇が待ち受けていたって。

 魔導士の手を、ぎゅっと強く握る。まだ冷たくなってないんだと、自分に言い聞かせる。

「ねえ、凛空……」

 魔導士の目が潤む。綺麗な瞳をしている。

「名前で、呼んでほしい」

 その瞳は、次第に光を失う。

「自分の名前、大好きなんだ」

 まぶたが閉じる。涙が目尻を流れて、やがて線になる。

 僕は回想する。魔導士と過ごした、アムネルの二日間。

「やっと見つけたよ、凛空」

 僕に手を差し伸べた魔導士の姿。黒色のローブと、白くて長い髪の毛。

「私たちも遊ぼう。紙飛行機があるだろう。私は走れる。君はどうだい」

 ひたすら紙飛行機を飛ばして遊んだ、数時間前の記憶。

「この中身はね、パンナコッタだ。知らないとは言わせないよ」

 一度も食べたことがないものを、知らないとは言わせないと意地を張られたこと。

「そう。ペァンナコッタ。君も大好きなはずだ」

 小さな頃、僕は白いものを見つけるたびに「パンナコッタ」と指をさしていたらしい。

「さあ、もう大丈夫」

 ゆりかごに体を預けている心地。自分の知らない場所で、世界が勝手に回っている感覚。

「ずっと、私が守ってあげる」

 どうして、忘れてしまっていたんだろう。

 そう思うほどに、鮮明なまでに、頭の中を駆け巡る記憶。数多の星が浮かび上がるように、埋もれていた映像が呼び覚まされる。

 昼下がりの森林公園。紙飛行機を口に咥えた、一匹の犬が駆け寄ってくる。

 サモエドという犬種だ。白い毛を生やした、遊びが大好きで、フレンドリーな女の子。

 パンナコッタ。それが、彼女の名前。

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