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〈凛空〉第9話

 目を疑った。理解が追いつかなかった。だって、あの魔導士が傷付くはずないじゃないか。

 自分自身に嘘をついた。都合の良いことを考えた。脇腹に刺さっている刃物だって、魔導士が歯を食いしばるのだって、地面に滴り落ちる赤い液体だって、魔導士の後ろで手を震わせるルプスだって、全部嘘っぱちなんだ。

 僕を驚かせるための手品なんだ。ちょっとしたイタズラなんだ。

「仕方なかった。仕方なかったんだ」

 ルプスが唇を震わせた。その仕草が、現実から逃げていた僕の頬を叩いた。

 闘技場からは、様々な声が聞こえてくる。勝者を称える歓声と、敗者への罵倒。どれもテレビの砂嵐みたいな雑音でしかなかった。

 誰も僕たちを、魔導士の惨状を見ちゃいない。

 ルプスが、膝から崩れ落ちる。「魔導士の命を奪えば、ファミリアに戻れるって。また家族に会えるって言われた。おれは、悪くない。悪いのは、魔導士なんだ……」

 苛立ちを隠せない。この期に及んで、自分を正当化するつもりだ。

 怒りに任せて、ルプスを蹴飛ばした。怒鳴りつけた。「黙れっ、二度と喋るな!」

「サピエンスに、何が分かる」

「魔導士が何をしたって言うんだ」

「権力の象徴。魔導士を淘汰しなければ、アムネルに、真の自由など訪れない」

 何を言っても無駄だ。このルプスとは分かり合えない。今は逃げるのが先だ。助けを求めなきゃいけない。でも観客席じゃ声は届かない。

 ならば走るしかない。職員の元へ。魔導士を連れて。

 僕が魔導士の手を取る。通路に向かって歩き出す。来た道を引き返すってやつだ。

 先は暗闇。進むにつれて視界が奪われる。息が苦しくなる。思わず立ち止まってしまった。足が震えてしまうんだ。自分が不甲斐ない。こんなときに限って、暗闇ごときに怯えてしまうだなんて。

 そのときだ。魔導士が、僕の手を振り払ったんだ。予想外のことで、頭が混乱する。

「凛空だけでも逃げて」

 簡単なことだった。あのルプスが追ってきたんだ。このまま立ち往生していたら、僕も魔導士もまず助からない。だから、魔導士が身代わりになろうとしている。

「早く行って」魔導士が怒鳴る。その表情は、苦悶に満ちている。「私は、凛空を守れと頼まれたんだ」

「それは、誰からの頼みですか」

「君の両親だ」

 段々と近付く足音は、さよならの暗示。僕たちを隔てる透明な壁だ。

 池で溺れてから、僕は暗闇に恐怖を覚えてきた。それは命を失ってしまうという恐怖もあったけど、それより、大事な誰かと離れ離れになってしまうものだったんだ。

 ようやく分かってきた。誰を失ったのかも。魔導士の正体も。名前すらも。

 それなら、暗闇に怯える必要はない。

 だって、魔導士はまだ生きているんだから。

 僕は、魔導士の手を強引に掴んだ。息を吸って、暗闇に目を向けた。地に足をつけて、蹴った。走り出した。

 大丈夫だ。いける。

 暗闇はまだ怖い。でも走れる。この足で進める。

「凛空、私は、後で追いかけるから」

 虚勢だ。その証拠に、魔導士は息を切らしている。長い間走り回れる彼女が息を切らすだなんて、これ以上ない異変じゃないか。

「置いていけ」魔導士が鋭い声を上げる。「マテリカを使えば、こんな傷はすぐに治る」

「嘘です。マテリカは怪我を治すことができないと、魔導士さんが言ったでしょう」

「よく覚えているじゃないか」魔導士が苦笑する。「それでも、君だけの方が、速く走れるだろう」

「何を言いますか」僕は前方を睨む。先は依然として暗闇。「魔導士さんがいなければ、この通路を走る意味さえないのです」

 僕に魔導士を背負う力があれば、と己の無力を悔やむ。手を引いて走ることだけでも精一杯だ。きっと純太なら、木刀一本でルプスを負かしてしまうんだろう。だけど僕は純太じゃない。

 僕ができることを、僕の最大限の力でやるしかないんだ。

 先は暗闇。だけど目が慣れてきた。壁の模様が分かるようになる。やがて出口の扉が見えてきた。後ろを振り向く。ルプスはずっと奥だ。魔導士も、まだ大丈夫だという。

 やったぞ。やってやったんだ。僕は暗闇に抗って、魔導士を守った。僕にできる最大限を尽くして、魔導士を救った。脇腹は結構痛むようだけど、「なんとか大丈夫だ」って言っていた。ここまで来たら、あとは誰かに気付いてもらうだけだ。

 アムネルの国民たちは魔導士を尊敬している。その魔導士が怪我を負ったと知ったら、すぐに手当てしてくれるはずだ。もしかしたら、不思議な力を使って一瞬で治してしまうかもしれない。

 はやる気持ちに乗じて、僕は出口の扉に手をかけようとした。その途端、扉は開かれた。

 現れたのは、僕たちを案内してくれた職員だった。赤色のローブが、ルプスではなくファミリアだということを証明してくれる。

「職員さん」身振り手振りを交えて説明する。「魔導士さんが、突然現れたルプスに、脇腹を刺されました。ルプスはこの奥にいて、今も追ってきています。助けてください」

 職員は、鼻の下を掻きながら「はあ」と呟いた。

 ルプスに似た冷たい目つきで、僕たちを睨みつけた。

「胸を刺せ、と散々命令したんだがなあ」

 職員がフードを脱いだ。土色の肌をしていた。

 ルプスだ。そう思ったときには、もう遅かった。職員は銀色のナイフを握っていた。スパーダじゃなかった。刃物だった。

 魔導士を痛みつけるんじゃなくて、命を奪おうとしているんだ。

「凛空。どうやら、私は、騙されたみたいだ」

 魔導士が、僕の手を強く握った。雨の雫のようなものが、僕の手を濡らした。

「ごめんなさい。私が、私が、アムネルに疎いばかりに」

「僕のことはいいんです。それより……」

 後を追ってきたルプスが、すぐそばまで近付いてくる。開きっぱなしの扉から、職員が歩み寄る。退路を断たれた。僕の頭を回転させても、空回りするばかりで、何も浮かぶはずがなかった。

「マテリカは、不平等な力だ」職員が吐き捨てる。

「不平等を淘汰するには、マテリカの持つ権威を消滅させる必要があった。だから魔導士を刺したのだ。この時代を終わらせる必要があった。仕方がなかった」ルプスが同調した。

 そうだ。魔導士のマテリカは、あと一回分は残っているはずだ。この状況を打開できる何かがあるかもしれない。鉄の扉を振り回すとか、壁と壁でルプスたちを挟むとか。あれこれ考えて、思いつくたびに、隣にいる魔導士に耳打ちにした。

 でも、何を提案したって、魔導士は「できない」と呟いた。

「できないのは、体力の問題ですか?」

 魔導士は首を横に振った。

「本当は、もうマテリカが尽きているとか」

 それも違うというように、魔導士は項垂れた。

 じゃあ、どうしてマテリカを使わないんだろうか。まさか、僕にマテリカの使い方について注意されたことを、未だに気にしているんじゃないだろうか。でも、こんな土壇場で些細なことは気にしないはずだ。たとえ、マテリカが最後の一回だったとしても。

「教えてください。マテリカが使えないのは、どうしてなのですか」

 職員がナイフを向ける。ルプスが近寄ってくる。刃物を持つ職員を相手にしたくはない。かといって、ルプスに肉弾戦を挑んで勝てる保証はない。第一、僕がルプスに気を取られている間に、魔導士が殺されてしまう。それじゃダメだ。魔導士と一緒に生き残るんだ。

「魔導士さん」僕が声を落とす。「マテリカを使えない理由があるのですか」

 魔導士は、こくりと頷いた。項垂れたまま、おもむろに口を開いた。

「最後のマテリカだけは、使い道を決めてある」

「使い道、って」

「凛空に、私の記憶を分け与えること」

 魔導士は、脇腹に突き刺さった刃物の柄を握る。一瞬、拳に力を入れたように見える。

「それさえ叶うのならば、私がどうなったって、構わないさ」

「ダメだ!」僕が怒鳴った。「分かっているのですか。自分が、今やろうとしていることを」

「もちろん。こいつを引き抜いて、凛空に渡す」

 言葉が出なかった。脇腹に刺さった刃物を引き抜けば、抑え込まれていた血が、滝のように溢れ出す。そうなれば、魔導士はまず間違いなく助からない。ファミリアの体の構造が人間と違う可能性もあるけど、根拠がない。それなら人間と同じように考えるべきだ。

「私たちに、武器はない。脇腹に刺さったこいつを除けば、ね。この刃物で凛空を守れるなら、喜んで引き抜こう」

 僕は、精一杯の怒りを込めて、魔導士の手首を握りしめた。魔導士が呻く。心の中で「ごめんなさい」と頭を下げる。

 だけど、こうでもしないと、魔導士の破滅願望を止められないと思った。

「刃物を抜くつもりなら、僕は、魔導士さんの手首を折ったっていい」

 魔導士は、ようやく刃物の柄から手を離した。

 状況は一切変わっちゃいないし、僕たちは相変わらず生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。それでも、少しだけ雲が晴れたような気がした。

「ねえ、凛空」

 魔導士が、僕の目を見据えた。

 瞳に反射したルプスが、悲しげな表情でナイフを取り出したのを見た。

「私、ようやく気付いたみたいなんだ」

 魔導士が、ゆっくりと僕を抱きしめた。

 黒色のローブが、毛皮のように温かかった。

「私のマテリカは、元々、君のものだったんだね」

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