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〈純太〉第8話

 俺たちがスパーダを握ったのは、翌日のことだった。

 朝から、高級ホテルさながらのステーキを嗜む。俺が肉に夢中になっていると、「ムギの料理は最高なのです」と、チロルが嬉しそうに語った。彼の屈託のない笑顔を見ると、こっちまで心が洗われる。

 こんな純粋そうな青年が決闘に挑むなんて。ルプスに対して、多大なる嫌悪感を覚える。

 朝食のあと、俺たちは庭に出た。剣の稽古をするためだ。

「こちらをどうぞ」チロルが、俺にスパーダを手渡す。「剣道は、このスパーダを使う武術とお伺いしました」

「正確には違うけどな、木刀とスパーダは」

 スパーダの握り心地は、木刀のそれとなんら変わらなかった。色が黒みがかっていることと、痛みを増幅させる力があること。腰に差せるように金属の部品があることを除けば、もう瓜二つだ。

「純太さん。剣道では、どういった構えをするのでしょうか」

 チロルは、右手だけでスパーダを持っている。軽くステップを踏み、俊敏さを露わにしている。剣道というより、フェンシングに近い。

「剣道の場合か。例外はあるけど、まず両手で握るんだよ」

 地面から根が生えたかのように、俺は真っ直ぐと立つ。スパーダを握り直し、チロルに向ける。「こんな感じだ」

「珍しい構え方です。サピエンスとは、こういった武術を会得している種族なのですね」

「俺もまだまだだよ。でも、練習は手を抜いてない。俺ん家の庭でも、毎日素振りの稽古をしてるんだぜ」

「素振りの稽古ですか。剣道を教えてくれるサピエンスが、身近にいらっしゃるのですね」

「そういうわけじゃない。犬に見てもらってたんだ。ちょっとでも変な構え方をすると、あいつ、俺に吠えてくるんだよな」

 チロルにも剣道の構え方を教えてみる。だけど、どうも弱々しく見えてしまう。指導しても直らない。やる気は十二分に感じられるから、きっと今まで習ってきた剣術の癖が抜けていないんだろう。きっとそうだ。才能がない、わけじゃないと思う。

「剣道、慣れないものですね」チロルが苦笑する。

「そりゃあ、一日で慣れれば苦労はしないよ」

 チロルは、自信なさそうにスパーダを振るう。「やっぱり、ぼくに武道は厳しいのかもしれません」

 弱音こそ吐くものの、チロルは挫けずに、両手でスパーダを振るう。諦めるつもりはないらしい。俺も教え甲斐がある。マロンのことは気にしちゃいたけど、目の前で困っている友達を見過ごすわけにもいかなかった。

 しばらく稽古をしていると、ムギが庭に顔を出した。「稽古中のところ、失礼します」

「ムギか。もう昼食の時間かい」

「いえ、雲行きが怪しいもので」

 てっきりチロルへの皮肉かと思ったけど、ムギがそんなこと言うわけない。話を聞くに、どうやら天気のことらしい。見上げてみると、灰色の雲が空を覆っていた。

「室内で稽古されてはいかがでしょうか」ムギが柔らかな声を出す。

「いいや、まだ庭にいるよ」チロルがスパーダを握り直す。

 チロルによると、闘技場のフィールドは天然芝なんだという。だから、本番を想定して庭で稽古がしたかったんだとか。

 ムギが歩み寄ってくる。「純太様、稽古を拝見してもよろしいでしょうか」

 俺が二つ返事で承諾すると、ムギは晴れやかな顔をして歩み寄ってきた。

 その途端、足元の何かに躓いたのか、ムギが勢いよく前方に倒れ込んだ。そういえば、ムギは目が悪いんだ。

 それを見たチロルが、地面にスパーダを放り投げる。ムギに駆け寄り、ただならない様子で肩を叩く。「早とちりするな。目が悪いのだろう」

「ああ、ありがとうございます。わたくしのような、吹けば飛ぶような者を気遣ってくださって……」

「何を言うか」チロルが語りかける。「建前だとしても、あまり自分を冒涜するな。ムギは大事な存在だ」

 ムギが照れ臭そうに顔をそむけたのを、俺は見逃さなかった。この家にチロルだけが残されても、召使いとして暮らしている理由は、もう言われなくたって分かっていた。

 俺は黙っていた。チロルが剣の稽古をしているのは、ムギを守るためだってことを。そうすれば面目が保たれるんだって、どこかで聞いたんだ。

 大人っていうのは、こういうことがサラリとできるらしい。

 ムギをガーデンベンチに座らせてから、俺たちは稽古を再開した。とはいっても、俺が教えたのは「我慢しろ」ということだけだ。

 自分が武器を持っているように、相手も武器を持っている。単純な力勝負で天秤は傾かない。勝つのは、より暴れ回った方じゃない。より冷静だった方だ。我慢さえできれば、すぐに冷静になれる。たとえば、相手が隙を見せたとしても、自分が万全じゃなければ攻めない。勝利に枯渇せず、戦況を見極められるやつが生き残る。

 ざっとこんなことを喋る。チロルは「なるほど」と何度も頷いて、より一層張り切ってみせた。もっとも、これは俺の言葉じゃない。俺を指導してくれた先生の教えだ。

 我が物顔で言ったって、きっと大丈夫だろう。チロルの先生は俺なんだから。

 チロルの構えが様になってきた頃に、小雨が降ってきた。丁度休憩しようと思っていた頃合いだ。目の悪いムギを気遣いながら、俺たちは玄関に避難した。

「わたくしは昼食の支度をします」ムギが廊下を小走りする。すぐに見えなくなった。

 俺たちは、休憩がてら、たわいもない世間話で盛り上がった。互いの国の文化とか、家のこととか。どうでもいいことを、さも面白いことのように話した。それとなく訊いてみたけど、チロルは、やっぱりムギのことが気になっているようだった。

 今の今まで、何度も凛空のことを思い返した。生きているか不安だった。チロルと話し合って、少しでも希望を持ちたかった。

 だけど、凛空を見捨ててしまったチロルを前にして、あいつの話題を出す勇気はなかった。チロルはあんなに臆病なのに、自分だけで逃げずに、俺だけでも助けようとしてくれた。傷口に塩を塗りたくなかったんだ。

「寂しいものです」外に目を遣りながら、チロルが口を開いた。

 玄関の外は、依然として雨が降り注ぐ。もう少し休憩を取ろう。

「家族が連れて行かれたのも、このような雨の日でした」

「連行されたんだよな。闘技場に」

 チロルが大きく頷いた。黒い髪が大きく揺れた。

「雨、雪、湖……。水は、さよならの暗示。ぼくのお父様の言葉です」

「ああ、そんなこと、あいつも言ってた気がするよ」

 あいつとは、もちろん凛空のことだ。いつだっただろうか。小三か小四の、凛空がまだ秘密基地に寄っていた頃だったのは覚えている。

 そうだ、秘密基地の途中にある、あの小さな池を横切ったときだ。

「水が怖いんだ。また、大事な誰かを失いそうな気がして」

 それは独り言に近いようで、だけど確かに、俺に対して投げかけられた言葉だった。そのとき、「また」という言葉が妙に引っ掛かった。たまらず訊き返したけど、凛空は、さっきまでの記憶がないといった風に、ポカンとした表情を浮かべていた。

 あいつは、あの池で溺れたことがあった。誰かに助けられたと語った。その誰かは、きっとお前なんだと言った。

 でも俺じゃなかった。

 今でも考える。凛空が失ったのは、溺れた凛空を助けたやつなんじゃないかって。

「さよならなんて、ズルいじゃありませんか」

 チロルの声で我に返る。雨の打ち付ける音が、耳に入ってくる。

「ぼくは願うのです。雨の音に紛れて、いくつもの足音が響いてこないかと。ノックもなしに扉が開いて、『ただいま』の声が聞こえてこないかと」

 チロルが顔を伏せる。

「願いは、二度と叶わないでしょう」

 チロルが、目に手を当てる。

「雨は、さよならの暗示なのでしょうから」

 俺は、チロルを抱きしめたり、肩を組んだり、そういったことは絶対にしないと決めていた。都合の良い誰かが、彼のそばにいちゃいけないと思った。臆病だからこそ、自分の足だけで前に進む必要がある。これは先生の言葉じゃなくて、俺の考えだった。

 俺は「違うだろ」と叫んだ。

 チロルが尻込みしているのは、今でも家族を求めてしまうからだ。「願いは叶わない」と口では言ったって、心じゃ可能性を断ち切れずにいるからだ。

 ずっと待っていれば、いつか絶対に家族が戻ってくると信じている。その考え自体を否定するつもりはない。むしろ、素敵だなって思う。チロルの純粋さと優しさが表れていると感じる。

 でも違うだろ。チロルは剣道の稽古をしたんだ。一度でも、決闘で勝とうと思ったんだ。ルプスに抗おうとしたんだ。それならば、チロルの優しさは間違っている。

 力を得ようとした者が、都合の良い言葉を受け入れるだなんて、あってはならないことなんだ。誰かを傷付ける力を得ようとしたのなら、傷付けてまで手に入れたいものを見つけろ。貪欲でいることは、武術を志すのにこの上なく適している。

 これらの言葉も、もちろん俺の先生のものだった。俺に当てはまるところもあるかもしれない。だけど、さも自分の考えた台詞のように喋ってやった。チロルに対する想いは、嘘偽りのないものだったからだ。

「諦めないで、チロル」俺は、チロルの目を見据えた。「決闘に勝つ。ムギを守る。家族だって、できたら取り戻す。そのために、俺たちは稽古をしているんだよ」

 チロルは、何度も頷いた。「そうでした」と呟いて、しきりに目を擦った。

 それでいい。チロルには、自分の足で進める力がある。強くなれる。ムギを守れる。それなのに、お父さんの言葉に惑わされているのは、もったいないことだ。

「稽古をしましょう」

 チロルの目には光が戻っていた。その瞳が、彼の勇気を讃えているようにも見えた。

 扉を開ける。いつしか雨が止んでいた。太陽がちらりと顔を見せた。

 俺が外に出ようとしたとき、ふと閃いた。実戦を意識したトレーニングをしようと思ったんだ。そのためには、まず対戦相手のことを知る必要がある。

「なあ、チロル」それとなく尋ねてみる。「決闘の相手って、どんなやつなんだ? 確か、連戦連勝中なんだっけ」

「そう、そうなのです。ここ一週間で台頭している新人でして」

 チロルは、頬を掻きながら苦笑いを浮かべた。

「マロンという名の剣士なのですが」

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