目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
〈純太〉第6話

 鎧と鎧の間から、チロルの怒号を聞いた。俺は息を殺すことに精一杯だった。

 逃げるな。これはチロルから発せられた言葉。間違いなく、俺に対してだ。匂いでバレてしまったんだろうか。そんなはずはない。鎧の鉄臭さが、俺の匂いを隠しているはずだ。でも、匂い以外で位置が露呈することがあるんだろうか。

 ともかく、俺はもう逃げられないらしい。投降するのも手だ。それか、丸腰でも一矢を報いてやろうか。問題は、足に力が入らないこと。すっかり怯えてしまっている。俺という人間は、肝心なときに役立たない。呆れてため息が漏れそうになる。

 ちらりと外の景色を窺う。スパーダを構えるチロルを、横目で見る。鎧に隠れているとはいえ、目が合うのは勘弁だった。

 チロルは、じっと静止する。俺の降参を待っているのかもしれない。生憎だけど、俺は降参も抵抗もできないほどビビっている。だから、チロルが俺を連れ出してもらう他ない。

 だけど、時間が経つにつれて、俺も冷静になってきたようだ。チロルの様子がおかしいことにも気が付いた。

 チロルのやつ、手と足を震わせていたんだ。

 まさか、俺がどこに隠れているのか、まだ分かっていないというのか。俺の奇襲を恐れて、怯えているというのか。

 チロルは「逃げるなあ」と弱々しく呟く。両手が震えて、スパーダを手放してしまう。地面に落ちて、カンッと鳴る。しまいには、膝から崩れ落ちてしまった。

「ダメだあ。絶対に無理なんだあ」

 チロルらしからぬ、気弱な声。礼儀正しき彼の姿は、今は見る影もない。背筋もだらんとしており、上半身も小さく揺れている。これが素のチロルなんだろうか。

「無茶だ、無茶だ、無茶だあ。ぼくに勝てるはずないんだあ」

 俺は確信した。チロルの放った「逃げるな」は、俺以外の誰かに向けられたものだ。それはムギかもしれないし、チロル自身かもしれない。ともかく大事なのは、俺に向けられた言葉じゃないってこと。

 姿を現してみようか、と考え始めた。仮にチロルが人食いだとしても、今の状態なら逃げられる気がする。いつしか俺の足の震えも止まっている。やろうと思えばすぐにやれる。あとはチャンスを待つだけだ。

 チロルの動きに変わりはない。それなら俺のタイミングで動ける。三秒経ったら飛び出そう。一、二、まだ待てる。三秒と言わずに五秒だ。焦る必要はない。一、二、三、四、まだ待てる。いっそ、このまま黙ってやり過ごすのもありだ。どうして俺は、進んで危険に飛び込もうとしているんだろう。今度は十秒、いや二十秒後に飛び出そうか。

 そこまで考えて、自分の臆病さに気が付いた。埒が明かない。飛び出すと決めたなら、その瞬間が吉なんだ。いつまでも物事を先延ばしにするのはよくない。

「純太様あ、チロル様あ」ムギの声が聞こえた。

 今だ、と確信した。俺は鎧を手でどかして、姿を現した。チロルと目が合う。あえて強気に「よう」と挨拶してやった。

「う、うわあああっ!」

 チロルは腰を抜かして、床に尻をつけながら後退を始めた。四足歩行だ。俺は、床に散らばった鎧をまたぎ、床に落ちていたスパーダを手に取る。

「どうしたんだよ、こんなところで」俺が尋ねる。

「いや、え、え、ええとですね」

「物騒な場所じゃないか。武器もあれば、血の付いた鎧まで……」

 突然、扉が開かれる。ムギだ。

「お、お二方、何をしているのです」たいそう困惑した様子だ。

 チロルもムギも武器を持っていない。俺は安心する。少なくとも、今この瞬間命を奪われる心配はなさそうだ。

 そこで、俺の考えていた仮説を打ち明けることにした。要するに、本人を前にして「チロルがルプスの仲間だと思った」と話したんだ。とても失礼なことだというのは、承知の上だった。それでもなお、二匹の正体をはっきりさせたかったんだ。

「ぼくが、ルプスの仲間ですって」チロルがようやく立ち上がる。「理由を説明していただきたい。心外です」

 もう後には引けない。俺は正直に告白した。自警団に対するチロルの態度や、ルプスを前に逃げ出したこと。家族が一匹も家にいないこと。だけど召使いはいること。

 これらのことを不審に思ってしまったって、包み隠さずに。

 ムギは、ちらりとチロルの顔色を窺っているようだ。チロルも同様にしている。

「どうなのでしょう」ムギが口を開く。「純太様には、申し上げた方がいいのでしょうか。しかし、ファミリアの問題をサピエンスに打ち明けるのも……」

「ぼくは純太さんに疑われるような行動をした。そして、そのことを話してくださった。それならば、ぼくも腹を割って話すのが礼儀だと思う」

 ムギは神妙な面持ちになり、やがて、こくりと頷いた。

「チロル様のお部屋の方が話しやすいでしょう。ご案内します」

 そうして、俺たちはチロルの部屋へと向かった。ムギ曰く、俺が隠れたこの部屋は保管庫なんだという。何を保管していたか尋ねると、「チロル様から伺ってください」とのことだった。

 チロルの部屋は、保管庫を出て、そのまま真っ直ぐ進んだ先にあった。左側に扉が二つ隣接している。左がムギ、右がチロルの部屋だという。

 チロルの部屋は、客室とあまり変わらない印象だった。床も、ベッドも、テーブルも。全てが客室のものと一緒だ。

「用が済みましたら、お呼びください」ムギが扉を閉めた。

 部屋には、俺とチロルだけ。少しの沈黙が続いたあとに、俺が「ごめん」と謝った。

「チロルたちのこと疑ったの、本当にごめん。俺のことを助けてくれたのに、そのことすら変に勘繰ってしまったみたいなんだ」

「いえ」チロルは首を横に振る。「ぼくにも責任はありました。自警団に大口を叩きながら、自分では行動を起こせない。疑われて当然です」

 俺たちはベッドに座る。チロルは膝に肘をつき、頭を抱える。深くため息をつく。

「ぼくが臆病者だというのは、ずっと隠してきたつもりなのに」

「別に、気張る必要なんかないだろ」俺は、チロルの肩に手を置いた。

「いいえ、ぼくが頑張らないといけないのです」

 チロルは俺に顔を向けて、訥々と語り始める。

「ぼくの家族は、みんながみんな、決闘で敗れてしまいました。純太さんが見かけた武器や鎧、それらは家族のものです。どうしても捨てられなくて」

「家族が全員決闘、って……」血の気が引く。

 チロルの肩に置いていた手を、そっと下ろしてしまう。あまりに衝撃的で、力が抜けてしまったんだ。

「あの闘技場のせいです」チロルが涙声になる。「もしも、自警団がもっと積極的だったら、闘技場は建設されませんでした。そう思うと、怒りが抑えきれないのです」

 話を聞く限り、家族は進んで決闘に臨んだわけじゃなさそうだ。横槍を入れず、黙って続きを聞くことにする。

「純太さん。決闘に敗北すると、どうなるかご存知ですか?」

 俺は戸惑う。あまりに簡単な質問だからだ。「そりゃあ、死ぬんじゃないのか」

 血の付いた鎧から考えるに、死という結論に辿り着くのが普通だ。

 だけど、チロルは首を横に振ったんだ。「死にながら生きるようなものです」と、声を詰まらせていた。

「じゃあ、どうなるんだよ」

「ルプスにされるのです」

 言葉を失う。じゃあ、チロルの家族は全員ルプスになったということなのか。

 冷たい目つきをした、あの土っぽい濃褐色のファミリアに。

「決闘に敗北したファミリアは、全てのマテリカを勝者に分け与えることを強制されます。マテリカを失ったファミリアは、肌が変色して、ルプスへと変貌するのです。社会的地位を失ったルプスは、元いた家を離れて、路地裏で暮らすのが一般的だとされています。洗濯ができないので、着ていたローブは灰色に変色してしまうようです」

 なるほど、普通のファミリアが派手な色のローブを着ていたのは、ルプスと明確に区別するためだったのか。納得がいく。

 でも不思議に思った。マテリカの有無が、そのファミリアの肌色を変えてしまうだなんて。そのマテリカの正体は未だに掴めないけど、なんだか身分制度の話を聞いているみたいで、気分が悪かった。

「もちろん、生まれながらのルプス、つまり先天的にマテリカを持たないルプスもいます」チロルが語る。「そのルプスは、妙にサピエンスを嫌悪していましてね。路地裏に入った凛空さんも、その先天的なルプスに遭遇していなければいいですけど」

 沈黙が訪れる。機会を見て、俺はずっと疑問だったことを訊いてみることにした。

「その決闘って、なんでしなきゃいけないんだよ」

 チロルは目頭を拭い、俺と向き合った。

「次の魔導士を決めるためです」

 魔導士。耳に挟んだことはある。チロルと自警団が言い争っていたときに、どちらも「魔導士様」と連呼していたからだ。そのときは、魔導士ってなんか偉いやつなのかな、とだけ思っていた。まさか、こんな形で話題に出るとは。

「ファミリアの間でも噂が広まっていますが、現在の魔導士様のマテリカが、ごくわずかなのです。かれこれ数十年もご存命ですが、あまりにもマテリカをお使いになるものでね。ようやく世代交代の時期か、とアムネルはその話題でもちきりです」

 決闘で敗北したファミリアは、勝者にマテリカを分け与える。となると、勝ち続ければ多大なマテリカを獲得できるわけだ。そりゃあ、今の魔導士を「魔導士様」と敬いたくなる気持ちも分かる。

「今の魔導士も、決闘で勝ち続けたファミリアなのか?」

「いえ、その頃に闘技場はありませんでした」チロルは首を横に振る。「最もマテリカを保有していたからという理由で、魔導士に選ばれたのです」

「へえ、じゃあ強いわけじゃないんだ」俺でも勝てるかもしれない。

「恐れ多いですが、決闘を挑んだら、まず間違いなく勝てるでしょうね。あの方は優しすぎたのです」

 それが徒となった、とチロルは話を続ける。

「魔導士様は、自分がマテリカを保有していることに、とても強く疑問を持っていらっしゃいました。『マテリカのないファミリアも尊重すべきだ』と主張される始末です。それが原因で、ルプスによる闘技場の建設も許してしまったのです」

 チロルが歯ぎしりをする。感情的になっているようだ。

「結果、決闘の賞品にマテリカが選ばれるようになります。そして、後天的なルプス、つまり決闘に敗北したルプスの増加が、アムネルの社会問題になってしまいました。あんな施設、アムネルにあってはならなかったというのに」

 チロルが拳を震わせる。居た堪れなくなって、俺はその拳に手を重ねた。はっと我に返ったのか、チロルは「取り乱しました」と俺に頭を下げた。

「話を戻します」チロルが続ける。「決闘が行われる理由は、ファミリア一匹にマテリカを集中させて、アムネルの象徴たる魔導士を選ぶためです」

「ちょっと待って」横槍を入れてみる。「魔導士にマテリカが集まったら、魔導士が何をしでかすか分かったものじゃないだろ」

「その点についてはご安心を。マテリカを保有するほど、アムネルに忠誠を誓う善良なファミリアになることが分かっています」

「つまり、めっちゃ強くて優しいファミリアになるんだな」

 チロルはこくりと頷いた。

 話の大筋が掴めてきた。現在、アムネルでは次の魔導士を決めるための決闘が行われている。魔導士は強くて優しいファミリアだから、国の象徴になる。だけど、新たなる魔導士が生み出されると同時に、社会的地位を失ったルプスも生まれる。

「でもさ、チロル」俺には疑問があった。「自警団を恨む必要なんかない気がする。むしろ魔導士を恨むべきだよ。あいつ、闘技場の建設を止められなかったんだろ」

 チロルは押し黙った。言葉を選んでいるというか、喉元まで出かかった言葉を、再び飲み込むか考えているようにも見えた。

 少しして、チロルはおもむろに口を開く。

「はい。その通りです。魔導士様のせいだと、思っています」

 やっぱりそうだ。俺には分かる。自分じゃなくて、誰かのせいにしたいって気持ち。

「でも、ただの国民でしかないぼくが、魔導士を批判できるわけがない。臆病だったのです。そこで、魔導士よりも弱そうな自警団に怒りをぶつけた。実際、仕事なんかしていない。だから自警団は批判してもいいのだ、と思って」

 俺がチロルを人食いだと疑ったことと、本質的にはほとんど変わらなかった。やり場のない怒りを誰かにぶつければ、自分が楽になるんだ。こじつけて、怒鳴りつけて、満足するんだ。俺も同じだった。

 同調するように、俺はチロルの肩に手を当てる。少しでも楽になってほしかった。

 沈黙が続くので、他のことを訊いてみる。「決闘ってさ、アムネル中のファミリアが参加するのか?」

「いえ、基準以上のマテリカを持つファミリアが対象です。それと……」

 チロルは、声を引いて飲み込むようにする。感情をぐっと堪えているように見える。

「ルプスにとって、都合の悪いファミリアが、強制的に」

 瞬時に悟った。チロルの家族は、強制的に決闘をさせられたんだ。

 同時に理解する。闘技場は、あのルプスが運営する施設なんだってこと。

「ぼくの家は、何世代も前からお菓子を作っていました」チロルが語る。「クッキーやビスケット、タルトにマカロン。それなりに繁盛していまして、おかげで、こんなに大きな家に住まうことができています」

 お菓子作り。一見無害に思えるけど、これがルプスにとって都合の悪いことらしい。

「数年前のある日、ルプスたちが家に尋ねてきました。その頃には、闘技場はとっくに完成していて、決闘も盛んに行われていました」

 俺は身を乗り出して、話を聞く。

「そのルプスたちは、ぼくたちに、要求したのです」

「要求って」含みのある言い方だ。

「お菓子にチョコレートを混ぜろ、と」

 そのルプスが言うには、アムネルの中心メンバーや魔導士に食べさせる予定だったらしい。ファミリアにとって、チョコレートは毒だ。死んでしまうかもしれない。

 なんて残酷なことを要求するんだ。そのルプスの胸倉を掴みたくなる。

「もちろん断りました。その結果、ルプスたちは口封じのために、ぼくの家族を闘技場に連行したのです」

 聞いているだけでも、背筋が凍る思いだった。「チロルは、大丈夫だったのか」

「丁度、ムギと市街地にいたので。ただ、家族と離れ離れになってしまうなら、いっそのこと連行されておけばよかった、と思ってしまいます」

 そんなこと言うなよ、と否定することができない。俺が同じ状況にあって、お母さんやお父さん、凛空と離れろって言われたら、首を横に振って「嫌だ」と叫ぶ気がするんだ。

「この目で、見たのです」チロルが独り言のように喋る。「剣を握ったことのない兄弟たちが、怪我を負い、マテリカの使用を強いられる瞬間を。肌が変色する過程を。それを思い出すだけでも、ぼくは、震えが……」

 チロルの背中をさする。チロルは、俺がチロルをルプスの仲間だと疑ったばかりに、身を削ってまで、真実を話してくれている。

 ありがとう、と呟いた。どうにかして労わりたいと思ったんだ。

「ぼくだって、ええ。近いうちに、戦わなければなりません。ルプスから脅迫されているのです。闘技場に来なければ、ムギを連行することになると」

「そんなっ」俺は声を荒げる。「やることが無茶苦茶だよ、ルプスのクソ野郎のくせに」

 チロル曰く、保管庫で言い放った「逃げるな」は、決闘の予行演習だったらしい。俺を置いて「用事があるから」と家に入ったのも、いつでもルプスが来てもいいように、空いた時間を使って予行演習をしたかったからだとか。なんとも紛らわしい。

「しかし、ぼくは武道の経験がありません。剣術はおろか、体術もからっきしダメです」

「えっと、マテリカとやらの力は使えないのか?」俺が訊く。

「マテリカは私利私欲のためには使えません。ましてや、相手を傷付ける目的なら、まず発動しないでしょう。ああ、もう、どうしようもありません」

 チロルは、再び頭を抱えた。決闘のことで切羽詰まっているんだろう。しかも彼は一切の武術を習得していない。喧嘩じゃないのだから、拳で殴り合うわけにもいかないだろう。鋭利な刃物を握って、容赦なく振り上げる勇敢さが必要になる。

 俺が見る限り、チロルにそんな大胆さはない。

「どうしましょう。どうしましょう。どうしようもなくて、どうしましょう。風の便りに聞いたところ、ここ最近、連戦連勝中のファミリアがいるらしいのです。どうしましょう、ぼくと戦うことになってしまったら。ああ、ムギを残して家を去るなんてできません」

 早口でまくし立てるチロル。本来は臆病な性格なんだろう。

 ここまでチロルの話を聞きながら、俺は、どうにかして彼の役に立てないかと考えていた。それは善意でも親切でもなくて、単なる罪滅ぼしだったんだと思う。知人にあらぬ疑いをかけたという事実が、俺の心に重くのしかかっていたんだ。

 ようやく、その罪滅ぼしができそうだ。項垂れるチロルとは対照的に、俺は口角さえ上げていた。勉強はボロボロだし、運動も特別できないけど、こんな俺でも役に立つことが、まだ残っていたんだ。

「チロル」

 希望の光が差し込んだと言わんばかりに、俺は声を弾ませてやった。

「剣道をやってみないか」

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?