市役所から呼び出されたのは、旅を終えて二日後のことだった。
何が告げられるかなど、とっくに分かっている。あの塔を撤去するのだろう。純粋な感情で、撤去なんて嫌だと叫びたい。友人が何らかの意味を持って、令和に飛ばした建物なのだ。
しかし、あれが本当に平安時代から来たのだと示す論理はない。唯一の証拠も、平安時代の言葉で記された「アマノミツル」だけである。このままなら、撤去は免れない。
ただ、壊される前に持って帰ればよい、というミツルの言葉を忘れられずにいた。撤去される前に持って帰ればいいということは、撤去される前に藤原を止めなければならないことになる。そのためには、まず藤原を見つける必要があった。
私はカーテンを開けて、布団に寝転がる友人に問う。
「藤原道長の顔は分かるでしょう。すぐ見つけられますか」
「私は奴の顔を知らん。体型も年齢も宗派も。直接会ったことがないのでな」
どうして、と言及する。顔も分からない人間を特定するなんて。令和の時代でも不可能に違いない。彼の無鉄砲さに辟易する。
呆れた私の表情を見たのだろう。ミツルはおもむろに体を起こし、案ずるな、と続けた。
「奴にとっては、誰かが自分の後を追って、令和に飛ぶなど想定内。そうすると、成田。お前が藤原ならば、何をして邪魔者を追い返そうと思うか」
「なんだろう。見当もつきません」
すると、彼は私の筆入れを漁り、ボールペンを取り出した。ついで紙を要求されたので、この前に彼が平等院を描いたチラシを持ってきた。
「いいか。よく考えろ。奴の目的は、怪異を起こすこと。私の目的は、怪異を止めること。それは理解できるか」
はい、と頷く。チラシには「藤原」と「私」という文字が丸で囲われている。その表現の方法は、平安時代にもあったのか。勉強になる。
「私は、怪異を止めたら帰る予定である。平安の人々を一早く安心させなければならぬ。できれば、奴も連れて帰りたいものだ。平安の事件は平安で裁きたいものでな」
ミツルは必ず平安に帰る。何度も受け入れようとした事実だが、未だに心の整理がつかない。友人が消えるのは寂しいものだ。
「ならば、だ。奴にとって都合のいいことは何か」
「怪異がでっちあげられること、ですか」
ご名答、と彼が微笑む。そうか、藤原の目的が分かってきた。
「でっちあげた怪異を怪異だと信じ込み、それを何らかの拍子で止めることができたら、私は目的を果たしたと勘違いして平安に帰るだろう。そうしたら、誰が奴を止められるだろうか」
「いや、誰も止められない」
反語で、彼の言葉を繋いだ。もしも本当の藤原を残して、ミツルが平安に帰ってしまったとしたら。令和の京都は、何が起こるのだろうか。
ふと冷静になる。ミツルの考えが正しいとするならば、もしかして。
「藤原は、まだ本物の怪異を起こせない、ということですか」
「鋭いな、その通りだ。できれば、怪異を起こさずして藤原を確保したいものだが」
私は、一つの事実に辿り着いたらしい。しかし、それなら疑問が生じる。怪異が起こっていないのに、どうしてミツルは怪異を探すのだろうか。
訊こうとした途端に、ミツルがチラシの上にペンを置いて、立ち上がる。突然の動作だったから、心臓が驚いて、何を質問しようとしたのか忘れてしまった。
彼は、一度息を吸って、また語り出す。
「私が平安から持ってきた、あの建物。京都中が騒いでいるよ。そして、『どうして一瞬で建てられたのか』ではなく『どうして令和に飛んできたのか』と考えられる人間は、私と成田を除けば、藤原しかいない」
「つまり、あの建物の存在こそが、藤原が怪異を起こさないための抑制力となっているのですね。なるほど、やけに大きいと思っていたのですが、まさか、あえて目立たせるためだったとは」
返事はない。ただ、否定もないので、おおむね正解なのだろう。
そうだ、今日の午後一時から、市役所に呼び出されているのだ。ミツルにもそれを伝えて、正午までには支度してほしいと頼んだ。
「ああ、そういえば」
私が呟くと、ミツルは動きを止めて、話を聞いてくれる。彼はそういう人だ。
「撤去される前に持って帰ればいい、と仰っていましたよね。あれって、いつ頃持って帰る予定ですか」
「明後日、いや、明日の夜だろう」
心底驚いた。明日の夜に帰れるということは、藤原がどこにいるのか、今の時点でおおよその見当がついていることになる。それと同時に、彼との別れが、刻一刻と迫っているのを知った。
ようやく何の不純物もなく、友人と呼べる間柄になれたのに、と思う。だが、それを口に出しては、別れの秒針が早くなってしまうような気がして、はどうにもできなかった。
新聞の天気予報が、明日は夕立だと予測していた。破り捨ててやった。
彼と他愛もない話をしていたら、とっくに昼過ぎ。玄関の扉を開けて、彼が出るのを待つ。彼のために扉を開ける機会も、後、何度訪れるだろうか。
今日は快晴だった。雲がなくてよかった。雷が降らなくてもっとよかった。雷が降る日には、私は絶対に前向きな感情を抱かないのだ。それが恐怖であろうと、寂寥であろうと、嫌なものは嫌である。どうにも、わがままが言いたい気分らしい。らしい、と他人事に語るのは、他人のことだと思いたいからである。
心の感情を整理しながら歩いていると、見覚えのある人物とすれ違った。森本先生だ。
「おや。成田先生も、あのタワーを見に行くのか。あれを見るのは俺の日課でね。絶対に何かあると思うんだよ」
どうやら、森本先生は毎日あの塔を見に行っているらしい。古典に精通している彼も塔を気に掛けるのだから、市役所も専門家を呼んで、塔の文化的価値を確認するべきだ。森本先生と別れてからも、私はずっと、市役所に対して不満を覚えていた。
市役所に着くと、松平さんが出迎えてくれた。彼は、生活に不自由はありませんでしたか、とミツルに訊く。
「とんでもない。毎日が刺激的であったよ。成田には親切にしてもらった」
その言葉が嬉しい一方、この生活の終焉を告げるように聞こえて、誰にともなく、ああ、と呟いた。
三人で市役所に入った。窓口は混んでいる。松平さんは、順番を待っているおばあさんたちに声をかけられていた。どうやら彼は人気者らしい。
窓口で話すなら時間がかかりそうだな、と思ったものの、松平さんは窓口を無視して、私たちを応接室に案内した。京都を騒がせているであろう塔の話を、公の場ではできないみたいだ。
応接室には誰もいない。緋色の椅子が四つほどあるだけだ。妙な違和感を覚える。普通、松平さん一人だけで説明することがあるのだろうか。なにしろ、京都中が噂にしている、あの塔のことだ。もう一人、もう二人が説明に加わったって、おかしくなんかない。
「お掛けになってください。多分、ぼくが何を言いたいか既に分かっているでしょう」
早く話を終わらせたいのだろう。私は大人しく椅子に座る。やわらかい。歓迎されている、とはお世辞にも言えない状況であるが、椅子の材質が高級そうだということを踏まえると、一定の尊厳は守られているらしい。
「では、単刀直入に。あの塔についてですが」
撤去する日程が決まったから、それの確認をするのだろう。大したことではない。確認後、すぐに解体作業が始まることなどないのだから、明日の夜までに、全てを解決して、それからあの塔が跡形もなく消えてしまえばいい。
「明日の早朝から解体します」
早朝。思わず復唱する。松平さんは、顔色一つ変えることなく、同じことを繰り返した。
「つきましては、ミツルさんの住所登録について、ご説明いたします」
ちょっと待ってくれ、と私は叫んだ。話が飛躍しすぎている。いや、私の予想の範疇を大幅に超えてきただけだろう。どちらにせよ、どうして住所登録の話になっているのかが理解できない。
「失礼しました。ええと、どこから説明すればよろしいですか」
まずは、どうして塔が明日の早朝から解体できるのか、についてだ。当事者が解体を肯定するか否定するかを訊いてから人員を集めると、まず一日で済むわけがない。仮に当事者が断ったとしたら、もっとややこしい事態になる。
そう私が主張したところ、松平さんは怪訝そうな顔になった。
「そもそも、あの建物は条例違反、及び違法建築です。府有地だからまだよかったものの、私有地だったら訴訟すらありました。連日、クレームが来ています。対応するのは疲れるものです。それに、違法建物の取り壊しに許可がいるならば、全員が勝手に家を建てるに違いない。だから、市役所が独断で日程を決めました」
不服だ。違法に建築したのではなく、平安から飛んできたのだ。ただ、そう言っても信じてもらえないだろう。真実を話すのは最終手段だ。だから押し黙るしかない。ミツルだって、きっとそうだ。
「前にも申し上げたような気もしますが、こんな塔が建てられたという記録は、どの歴史書にも載っていません。ええと、成田さん。塔の文化的価値、でしたっけ。それも、断じてありません」
「なぜ断定できるのですか。専門家や学者を招いたのですが。市役所の主観的な意見ならば、私は抗議します」
感情に任せてまくしたてた時に、やってしまった、と思った。私が塔を調べたのは、雷雨が降った日と、その翌日だけだ。一方、塔を立入禁止にしたのは市役所であるから、市役所が調べようと思えば、私の何倍も多くの調査が可能、何倍もの結果を得られる。その上で、文化的価値がないと判断したのだ。私情で解決する問題ではなかったのだ。
ところが、松平さんの返答は、思いもよらないものだった。
「ぼくが専門家です」
え、という素っ頓狂な声が漏れる。
「松平、という苗字に聞き覚えはありませんか。有名な人物といえば、江戸時代の大名、松平定信。そして彼は、将軍である徳川吉宗の孫です。つまり、ぼくは徳川家の子孫。そのせいか、幼い頃から、歴史を叩きこまれたものでしてね」
歴史の話題になると、松平さんは止まらない。
「下手の横好きと揶揄されるかもしれないが、ぼくは歴史に対する自尊心があります。大学院では博士課程を修了し、論文は何度も雑誌に載りました。もし疑うならば確認してもいいですよ」
疑ってなんか、と私は手を振って否定する。それを見てか、松平さんは少し落ち着きを取り戻して、また続けた。
「親戚には、学者の道を進められました。お前は徳川の血を継ぐのだから、その見聞を活かして歴史的界隈を盛り上げてほしい、と。それでも、ぼくが市役所に就職したのは、京都という街の景観と伝統を守りたかったからです。ぼくは京都の歴史が好きだ。だから、市役所の意見は、ぼくという専門家のものと同等なのです」
自信に満ちた表情だった。学生時代を歴史に捧げた彼の知識とプライドは、私にとっては眩しすぎる。つい、受け入れてしまいそうになる。
しかし、それではいけない。塔が壊されたら、藤原が怪異を起こすことになる。
いや、待て。私は、今朝忘却していた疑問を掘り起こした。
怪異が起こったならば、怪異を止めることができる。それならば、なぜミツルは、塔が取り壊されていないにもかかわらず、怪異らしきものを探して止めようとしたのだろうか。まだ怪異を起こしていないであろう藤原に、どのように目星を付けたのだろうか。
ミツルは一体、何を考えているのだろうか。
「松平。歴史に詳しいのならば、藤原道長が恐れたものも分かるな?」
彼のことは本当に分からない。そのようなクイズを出したって、松平さんはすぐに答えるだろう。むしろ、馬鹿にしているのか、と松平さんを怒らせる可能性すらある。
「もちろん、分かります」
平安時代からの来訪者の質問に、歴史の申し子は余裕綽々である。
「『清涼殿落雷事件』という、九三〇年に発生した落雷事件があります。平安京にある清涼殿にて、藤原一族が雷に打たれ、それから藤原家の人間は雷を恐れるようになったのです。それで、この事件が何か問題でも」
台本を読み上げているかのように、すらすらと説明する松平さん。ただ、ミツルの表情は曇っている。
「九三〇年、とな。私の記憶だと、九二五年なのだが」
私も頷いた。清涼殿落雷事件は、九二五年だった記憶がある。クニコに落雷、という語呂合わせまで作ったのだから、間違いない。ただ、松平さんも譲らなかった。話し合いを中断してまで史料を探した結果、事件は九三〇年に起きたと書かれていた。
「ぼくを虚仮にしないでいただきたい。ともかく、塔は撤去します」
私の知識も衰えてきたのだろう、と一人で悲しくなった。平安時代は専門ではないが、それでも歴史や古典で言い負かされると、数日間はフラッシュバックされるほどに悔しい。
「いやあ、素晴らしいな。松平は歴史に精通しておるのだな」
ミツルに至っては、松平さんに媚びを売ってさえいる。平安時代は自分が育った時代だ。プライドはないのか、と彼に異議を申し立てたくなる。
「そこまで歴史に詳しいなら、どうして塔よりも早く、山小屋の件を処理しようとしないのか不思議であるよ」
ただ、彼がそう言った途端、やられたと思った。ミツルはわざと違う年号を挙げて、話題をすり替えようとしたのだ。同時に、やはり私は年号を間違えて覚えていたのだと知る。悔しさの靴に踏みつけられるような思いだ。
「山小屋、ですか」
「知らないとは言わせるものか。隣接市に住む人々すら多数の目撃証言が出たのだ。山小屋のある京都市、しかも市役所が山小屋の存在を把握していないとは、到底考えられない」
ミツルが指す山小屋とは、きっと、彼が指を負傷した時に見た山小屋だろう。数日前は、彼との苦い記憶が浮かんできて、話題に出すことすら苦痛だった。しかし、皮肉なものだ。今は山小屋を追求しなければ、松平さんのペースに持って行かれて、塔の撤去を受け入れざるを得ない状況にある。
「確かに……ええ、存じ上げていました。あの建物よりも、ずっと前に」
知らない、とか、担当じゃない、と言って白を切ったら、松平さんは私たちを騙せただろう。山小屋の認知を否定すれば、そのまま塔の話に戻して、後はうやむやにしてしまえばいい。それをしなかったのは、彼が論破ではなく、議論をしようとしている証拠ともいえる。その誠実さに感謝したい。
「あの山小屋は、正真正銘、平安時代の家であるよ。歴史に学のある松平なら把握しているはずだ。もっとも、塔に描かれていた『アマノミツル』の解読は無理だったようだが」
「ぼくの専門は江戸時代ですから。ただ、あれが平安時代の家だということは知っていました。昔見た史料に載っていたものでね」
知っていて放置したのか。私はとっくに、ミツルも、松平さんも、何がしたいのか分からなくなっていた。分かることは、ミツルが作った流れを崩してはいけないということ。今度は私の番だ。
「山は誰かの所有物です。国だったり個人だったり、誰かが管理しています。その山の中に、平安時代の家があるって、おかしな話だと思いませんか」
松平さんが、私と目を合わせる。
「山小屋は、京都でも自然が豊かな場所、いわば田舎の方にありました。そこに平安時代の家を建てる目的は、地域で行われるイベントの宣伝、もしくはイベントそのもの。または、山小屋の管理主の別荘。この辺りが妥当でしょう」
ふむ、とミツルが頷く。
「ただ、あの山小屋が別荘ならば、あまりに不便です。休暇を過ごしたいと思う人が、どうして山に登ろうと考えるでしょうか。不便な山を登って別荘に辿り着くなら、最初から山も家も売り払って、より景観のよい家を借りた方が道理にかなっている。そう考えると、残るのは前者となります。しかし、それも否定できます」
「山小屋を話題に出すということは、現に成田さんが、山小屋を見たということでしょう。それを観測できたのならば、宣伝として成立している」
山小屋を見たならば宣伝になっている。松平さんの言うことも正しい。しかし、山小屋が宣伝目的ならば、致命的な欠陥を抱えているのだ。
「外から山小屋を見ようとしても、木が邪魔で、まともに見れません。外から宣伝する目的の山小屋ならば、まず視界を邪魔する木は切るべきでしょう。しかし木は切られていなかった。ならば、どう考えるべきか」
その答えは、松平さんに言わせることにした。
「山小屋は、違法建築だ、ということですね」
塔より前に存在した、違法建築の山小屋。これを無視して塔を解体するのは、仕事の順番が間違っている。ミツルはそう主張したかったのだろう。途中から私が横槍を入れたから、彼の活躍の場を奪ったようで申し訳ない。しかし、それ以上に、彼を助けたいという気持ちが上回った結果である。
「……あまり、認めたくはないのですが。少々お待ちください」
そう言いながら、松平さんが退出した。認めたくない、とは、違法建築のことだろうか。ただ、そうであるならば、私たちが待つ必要もない。素直に認めればいい。それをしないのは、もっと別の認めたくないことがあるのだろう。
「しかし、えらく饒舌だったな、成田。途中から聞き取るのも難しかったぞ」
ミツルに言われたので、ちらと思い返してみた。普段話すテンポや、授業で生徒に教える時と比べたら、遥かに早口になっていたような気がする。恥ずかしいものだ。直したいのだが、癖とは一生ついて回るらしい。
無理に笑いながら、必死だったので、と言い訳する。この言い訳こそ、私ができる最大限の逃避だ。一生ついて回る癖から逃げるために、木の陰に隠れるような感覚。
「ありがとう」
だから、彼が素直に感謝を伝えてくれた時に、どういたしまして、がほんの少し遅れてしまった。自分を落ち着かせることで精一杯だった。これも悪い癖だ。
お待たせしました、と松平さんが入室する。見ると、大量の新聞紙を抱えていた。彼の言う、認めたくない、の意図が、この中に凝縮されているということだろうか。
「結論から申し上げましょう」
私とミツルに新聞を渡し、それから彼は告げた。
「その山小屋は、気が付いたら勝手に撤去されている。ゆえに、何もしなくていいのです」
正気を疑う。文字ならまだしも、建物ごと撤去される、しかも気が付いたら、とは。仮にも市役所の職員たる彼が、そのような曖昧な表現を使っていいのだろうか。
だが、手渡された新聞を見るにつれて、それこそ勝手に撤去されているとしか思えなくなってきた。その新聞は、確かに山小屋が現れたことと、誰かの手によって撤去されたことを記している。しかも、架空の新聞ではなく、大手の新聞社から発行されていた。
異常性は十分に分かったのだが、現代語が読めないミツルのために、松平さんは解説を始める。
「新聞を見てもらえたら分かる通り、山小屋は神出鬼没。時には海辺に、時には道路の真ん中に目撃されています。それと、日付の箇所に注目していただきたい」
日付を見る。二〇一一年だ。今から十二年前である。それがどうしたというのだろうか。平安と令和で数字の読み方が違うからか、頭を抱えているミツルを横目に、松平さんの次の言葉を待つ。
「新聞は一部ではありません。こちらをどうぞ」
新しい新聞が手渡された。日付欄には、一九九一年と書かれている。咄嗟にミツルの持っている新聞を覗いた。二〇〇一年のものだ。
「お二人とも、お分かりですか」
「さっぱりだ。一文字も分からぬ」
普段ならば、現代語が読めないミツルに概要を説明しているが、今回はそう悠長にはできない。私自身が動揺しているからである。
「この山小屋は、十年毎に現れて、勝手に消えているということですか」
「ええ。確認できる限りでは、一九四一年から毎年です。撤去されるまでの期間はランダムで、一ヶ月程度のこともあれば、数年存在していたこともありました。しかし、全てが例外なく消えています。今年は長い方ですが、いずれ消えるでしょう」
初耳だった。私は古典を研究する傍ら、歴史についても見聞を深めてきたつもりだ。しかし、松平さんはさも当然のように話している。
「この前も、テレビで特集が組まれていたでしょう。あまりに取り上げすぎて視聴率が取れなくなってきたからか、最近では滅多に見かけませんが」
「うちにテレビはないのです。なるほど、私の知識不足か」
素直に無知を認めた。清涼殿の年号といい、山小屋といい、今日は学識不足がやたら目立ってしまう。
「話を戻しましょう。その山小屋は、十年毎に現れて、勝手に撤去されます。一九四一年から続く法則です。ぼくの主張したいことが分かりますか」
自分の主張を相手に言わせる。先程の私が、彼にやったことである。こんな短期間に反撃を食らうとは想定外だった。しかし、逃げることは許されない。
「今回の山小屋も、勝手に撤去されるから放置しても構わない。市役所の仕事は、なぜ撤去されるかを考えることではなく、どうやって街の景観を守るかを考えること。そう主張したいのですね」
松平さんが、深く頷く。自分は学者ではなく市役所の人間だ、という意図も、込められていたような気がした。ただ、大学院に進むほど歴史を愛した彼が、それを究める仕事に就かなかったのかが解せない。好きなことで生活をするという選択肢を捨てて、なぜ景観にこだわるのだろうか。
なんだか、彼の自尊心に、彼自身が翳るような気がしてならなかった。
さて、もう山小屋の話は使えない。議論は予定調和へと回帰した。彼が怪異を放置すると判断した以上、山小屋は放置されて、市が定める条例に違反した塔だけが解体される。鉄のように折れない未来。
「松平」
ミツルが呟く。最後の足掻きだろう。しかし、これ以上何ができるだろうか。私の頭には何も思い浮かばない。いや、考えたくないのかもしれない。ともかく、山小屋が十年毎に、しかも変幻自在に出没するなんて、怪異以外の言葉では説明したくはない。
しかし、ミツルの言葉は、やはり私の斜め上を行く。
「それは怪異ではない」
えっ、と声が漏れた。私も松平さんもだった。
「怪異ではないなら、どう説明するのです。ミツル」
ミツルを支持する私ですら、その発言をすぐに受け止めることはできない。山小屋は、温度で消えるボールペンで縁取られてはいないのだから。
「ただ、これを説明するには、松平に話さなければならないことがある」
「話すこと、ですか」
直接的に話していないとはいえ、松平さんは、薄々ミツルが時間を飛んだのだと思っているのではないだろうか。それを踏まえた上で、話す必要があること。それを私には説明しないのならば、答えは既に提示されている、ということになる。
「突拍子もない話だが、私は平安から令和の時代に飛んだ」
事務的な人間である松平さんに対して、時間旅行という空想的な話題を提示するのは、少々無理があるような気もする。それでもミツルは語り始めた。つまり、山小屋が怪異ではないと証明するために、時間に関連する何かが必要ということだ。しかし、先程の松平さんとの論争で疲れてしまったからか、私はこれ以上頭が回らない。大人しく、解答を待つことにする。
ミツルが一通り、松平さんに経緯を説明し終えた。やはり納得いかない表情の松平さんだが、時間旅行の原理を打破する論理もないようで、黙りこくっている。ここで、市役所には関係ありませんから、と一蹴しないのは、彼に宿っている学者の血が原因だろう。いくら京都の景観を守りたいと思ったって、知的好奇心には抗えないのだ。
「さて、話を戻そう」
ミツルは一度間を置いて、深呼吸する。緊張した空気。それを破るように、彼は言った。
「山小屋の出没に使われたのは、時間旅行切符であるよ」
時間旅行切符。思い出して、ああ、と手で口元を塞いだ。
「時間旅行切符を使うと、使用者と共に、元いた時代の建物も時間を飛ぶのだ。十年毎に山小屋を飛ばした人物は、全て同一人物だと考えるのが定石。切符の購入には、たとえば何俵もの米を奉納しなければならぬ。同じ山小屋が何度も現れたのならば、その人物は、切符を連続で購入できるほど富を抱えている」
「ミツルさん。どうしてその人物は、十年毎に山小屋を飛ばしたのですか」
「それは今は重要ではないよ、松平。重要なのは、それほどの富を抱えた人物が、現在、この令和の時代に存在するという事実だ。あの山小屋の件を対処しなければ、それこそ京都の景観は保障できない」
何をしでかすか分からないぞ、と付け加えて、ミツルは背もたれに寄りかかった。
「市役所を脅す気ですか」
「ちっとも。お前と同様に、この景観を守りたいだけなのだよ」
松平さんは、まだ納得のいかない様子である。何がそこまで彼を頑固にしているのだろうか。いや、むしろ私が疑うことを放棄しているのかもしれない。
「ここまで打ち明けたのだ。松平、お前にも奴のことを話そう」
藤原道長。ミツルがその名前を出すと、松平さんが前のめりになった。市役所職員の姿勢とは思えない。ようやく働き出した私の頭に、ある仮説が浮かび上がる。ただ、それは口に出せば軽蔑されるかもしれない。なにしろ、歴史に誇りのある松平さんのことだ。特に私から語れば、彼は深く傷付いてしまうかもしれない。
「藤原道長は、令和で怪異を起こそうとしている。その抑止力となっているのが、あの塔の存在なのだよ」
ただ、頑固で剛情な松平さんを動かすには、その仮説を確かめるしかないと思っていた。歴史を愛したものの、歴史に愛されなかった彼に、もう一度片想いをしてもらわなければならない。私は、その言葉を発するために、体の全ての勇気を集め始める。
「奴の怪異を止めるためにも、あの塔は必要なのだ。壊してはならない」
しかし、と松平さんが唇を噛みしめた。
「藤原道長が時間旅行したなんて、そんな史料は、一度も見たことがない」
「どうして史料にこだわる。歴史は嘘をつくぞ」
「小さな頃から、ずっと歴史を学んできた。歴史に人生を捧げてきた。奨学金を借りてまで大学院に行った。もしも、ぼくが学んだ歴史が嘘だったならば、ぼくの人生は何になると言うんです。教えてくださいよ。教えてください」
今にも泣き出しそうだ。その表情は、人生を費やしてまで学んだ歴史が嘘だったことを、絶対に認めたくないという抵抗にも思える。
「松平さん。つかぬことを伺います」
だから、彼に寄り添えるのは、夢破れる子供を何人も見てきた、私のような塾講師でなければならない。使命感が背中を押す。
「あなたは、学者にならなかったのではなく、学者になれなかったのでしょう」
松平さんは、鋭く私を睨みつける。私は目を逸らさない。温泉で、ミツルがしてくれたように、目を逸らしてはいけない。やがて、彼の目は光を失ったように、静かに視線を落とす。そして、小さく頷いた。私は、彼の自尊心を傷つけた。
「ごめんなさい、松平さん。私は、何度も志望校に落ちた生徒を見てきました。だから、あなたもそうじゃないかって」
「本当に、つかぬことですよ。まったく関係ないじゃないか」
いいや、と私は首を横に振る。これまで私たちは事実だけで議論していた。それは、彼が市役所の職員という立場だったからだ。
感情を取り入れることで、彼の中の学者が戻ってくれるのではないかと信じていた。
九月上旬。開いたばかりの古典塾は、当時、一人の生徒しかいなかった。
古典だけを教わるなら、大手塾に通う方が賢明であると噂され、おまけに授業料が格安ということもあり、詐欺だと怪しまれていたらしい。教えてくれたのは、ただ一人の生徒。
その生徒のことはしっかりと覚えている。吾妻くんだ。
吾妻くんのことが印象に残っているのは、一人だけの生徒だから、ということもある。ただ、一番の理由は、後悔だった。
一年目の古典塾は、私が好きなことだけを話す場所だった。吾妻くんが受験生であるのにもかかわらず、永遠に試験範囲外の古典作品ばかり解説していた。私はきっと、誰かに自分の話をしたかったから古典塾を開いたのかもしれない。それに付き合わされた吾妻くんには、つくづく申し訳ないと思っている。今でもだ。
彼が古典塾に通い始めて、ニヶ月が経った。ふと、なぜ彼が古典塾を選んだかが気になった。振り返れば、その時点で遅かったのだ。入塾する時に理由を訊いていなければ、彼の志望にあった教育ができるはずもない。たった一人の生徒なのだから、それくらいできたはずなのに。後悔はいつだってできるが、いつ辞めればいいのか分からない。
彼の答えは、お金がなかったからだった。家が貧しく、私立大学には進学できないと言われていたらしい。そのために国立大学の勉強をするも、独学に限界を感じて、その時に古典塾を見つけたという。
彼の夢は、学芸員になることだった。
しまった、と思った。ここは塾なのだ。生徒が学ぶ場所なのだ。私が好き勝手喋りたいならば、講演会をすればいい話だったのだ。途端に、未来ある子供の人生の重さを知った。
ただ、とっくに手遅れだった。彼は、国立大学に落ちてしまった。
古典塾は半年。九月に始めて、二月に終えた。そのうちの二ヶ月は、私の知識をひけらかすために消えた。彼が人生を賭けて託した塾は、本当に詐欺だったのだ。
最後に塾に来た彼の表情を、よく覚えている。
無理な笑顔と、隠しきれない苦悶。温泉で見たミツルの表情と、よく似ている。
吾妻くんは、五人兄弟の長男。浪人するお金もないため、就職するのだと私に告げた。しかし、令和の日本では、大学に行かなければ、給料や社会的地位の高い仕事に就くのは難しい。そう私が言うと、彼は首を振った。
「先生の授業を受けて、古典や歴史が好きになりました。だから、京都の歴史を継ぐ仕事をします」
強がりなのは分かっていた。彼の模試の結果は、本当に合格できるのではないかと夢を見るほど、大きな成長を見せていた。彼も受かると思っていた。
学芸員。手が届く場所まであった夢が破れて、どれほど苦しかっただろうか。彼の腫れた目が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
もしも、私が呑気に駄弁っていた二ヶ月があれば、彼の夢は叶ったかもしれない。
だが、それが叶わなかった彼は、夢と結びついた仕事を見つけて、今も京都で生きている。叶えられなかった私は、悔恨だけを残して、今も京都で教えている。
松平さんを見て、ふと、吾妻くんのことを思い出した。学芸員になれなくとも、夢と結びついた仕事を探して、京都の歴史を継いでいる。あれから一度も会えていない。
「松平さん」
私は、もう一度、彼と目線を合わせた。
「夢が破れたからといって、夢を消し去ってはいけません。市役所職員は京都の景観を守るのが仕事かもしれない。ただ、あなたの知的好奇心を捨ててまで、全うすることではありません」
おもむろに立ち上がる。新聞を椅子に置く。私を見上げる学者に、頭を下げる。
「今まで学んだことが間違っていると主張して、あなたの人生を否定する意図はありません。ただ、どうか、どうか、せめて明後日まで、あの塔を残してはくれませんか」
私は、松平さんの心に傷を付けて、傲慢に説教して、それでも、友人を守りたかった。安心して平安に帰ってほしかった。それが、友人たる私のできる、最大限のことだから。
松平さんは、声を震わせながら、善処します、と告げた。
京都の空は茜色。瓦の街、黄昏と。私たちは帰路についている。
「成田の活躍で、あの塔も守られた。ご苦労であった」
少し上から目線な言い方に感じるものの、これも友人の間柄ということなのだろうか。あれこれ考えてしまう。こつ、こつ、こつ、と石畳を三歩進んで、それが杞憂だと分かるほどに楽観的でありたいと思った。
「ミツル。塔を残せたのはいいのですが、どうして明日は、塔の周りに誰もいてはいけないと言ったのですか」
松平さんに、善処する、と言われた。そこまでいいものの、ミツルは加えて、明日は塔の周りを無人にしてほしい、とも要求した。物事を大きくしている本人が要望できることではないと思うのだが、それは置いといて。あれは、どういう意図があったのだろうか。
「明後日に塔を解体するならば、明日には帰らなければならないからな。塔の周りに人がいたら、連れて行ってしまうかもしれない。それが一つ」
それが一つ、と彼が言ったので、二つ目の理由を待つ。しかし、一向に答える気配がない。彼は会話が下手なのだろうか。それとも、私に隠し事がしたいのだろうか。いや、後者に関してはないだろう。私は彼の友人である。
二つ目はなんですか、と訊いてもよかった。ただ、喋らないということは、触れてはいけないとも考えられる。
「さて、まだ気になることがあります」
代わりに、他の質問をしてみた。私には知りたいことが沢山ある。
「どうして、塔が建っているのに、怪異を探して止めようとしたのですか。あなたの論理だと、本物の怪異が起こる時は塔が解体された時です。それなら、今まで探していた怪異は、なんだったんですか」
ミツルは不敵な笑みを浮かべる。まさか、彼は私を藤原道長だと推理して、無駄足を踏ませるつもりだったのだろうか。いや、彼は私と友人と称した。そんなことあるはずがない。
「成田、今まで探していた怪異はな、見つけること自体に意味があったのだよ」
意味があった。どうして。思考を巡らせていたからか、私はつまづいてしまった。ミツルは止まらない。これでは、文字通り、置いて行かれる。
「どうして意味があったと言えるのですか」
小走りで彼に追いつき、また尋ねた。
「成田、今朝の会話を思い出せるか」
私は頷く。今朝の会話というと、藤原道長の正体を特定する方法だ。
「藤原にとって都合がいいのは『怪異がでっちあげられること』だ。とはいえ、自分の知らないところで勝手に捏造されると、それこそ都合がよすぎる。後は分かるか」
「藤原は、自分で嘘の怪異を起こしたということですか」
ミツルが頷き、続ける。
「私と成田は、既に藤原に会っている」
え、と声を漏らした。藤原道長が、既に姿を見せている。信じられない気持ちでいっぱいだ。ただ、そう考えないと、明日の夜に帰れるはずがない。行き当たりばったりで物事が進むわけないのだ。
「これは、挑戦状と考えるべきだろう。藤原は誰か。そして、なぜ藤原だという結論に辿り着いたか。絶対に、間違えてはならぬ」
唾を呑む。茜色が、雲に覆われていく。
「成田。明日の昼、『紫の間』を予約してくれ。決着をつける」
「誰を呼ぶのですか」
「松平、森本、山岸だ。藤原ではない二人にも、用事があるのでな」
この三人の中に、藤原がいる。何を信じればいいか分からない。この三人が平安時代の言葉を話せることから、とっくに理解できなかったというのに。
立ち止まる。今度は、ミツルもそうしてくれる。
私は、ミツルのように頭が回るわけではない。感情で物事を判断してしまう。もしかしたら、藤原を庇ってしまうかもしれない。彼が藤原の正体を打ち明けないのは、臆病な私が動転してしまうのを恐れているからだろうか。つくづく、彼にも心配されるようになったものだ。
だから、私は間違わないように。私よりも遥かに聡明な彼に、確認する。
「ミツル。あなたは、もう、藤原が誰なのかを……」
「ああ」
私の目を見据えて、彼は言った。
「心得た」